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zoom RSS 【768】 乗り鉄12か月…1990年2月「初めての北海道」

<<   作成日時 : 2017/02/09 07:50   >>

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毎月1回ずつ、過去にその月に乗り鉄に行ったときのことと、撮り鉄に行ったときのことを書いています。
今回は、今から27年前の1990年2月15日から20日にかけて北海道へ行ったときのことを振り返ってみます。

******************

私は地に足がついていない乗り物、すなわち航空機や船舶に乗ることが好きではありません。もちろん交通機関として乗ることはあるのですが、できることなら列車に乗りたいと思っていました。最近は考えも多少は変わりましたので、必ずしもそうばかりでもないのですが、そういうことより新幹線以外の長距離列車が激減して、鉄道を利用する選択肢そのものが奪われてしまう場面はかなり増えました。
国鉄が分割民営化されたあとに、皮肉にも日本列島が青函トンネルと瀬戸大橋によってレールで一つに結ばれ、鉄道で北海道まで行けるようになったことで、初の北海道行となったのが、この時でした。そんなわけで、北海道と四国には、国鉄時代に一歩も足を踏み入れることのないままで、私は国鉄を退職しました。
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≪このときの行程≫

名古屋―(東海道新幹線)―東京―上野―(北斗星3号▲)―
―札幌―(オホーツク3号)―網走***北浜―川湯温泉=川湯♨△

川湯♨=川湯温泉―釧路―厚岸―根室=納沙布岬=東根室駅=根室―釧路△

釧路―(おおぞら6号)―札幌―小樽―(倶知安経由)―長万部△

長万部―函館―(海峡8号)―竜飛海底―(海峡10号)―青森―(日本海2号▲)―
―大阪―新大阪―(東海道新幹線)―名古屋

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往路は寝台特急北斗星、帰路は快速海峡から乗り継いで寝台特急日本海を使う車中泊でしたが、北海道内での3泊は夜行を使わず、日中に車窓を楽しみながら列車に乗り、要所で下車して観光的要素も含めた旅になりました。そのときの同行者は、国鉄時代の独身寮に在籍していたころに一時同室で過ごしたTさんで、彼は鉄分が濃くはありませんでしたが、ローカル線に乗りに行くくらいのことはしておられました。
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このとき往路に乗った北斗星については、動画付きの車内放送音声も含めて以前こちら→「【568】北斗星」でアップしていますので、ここでは触れません。
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行程は慌ただしいもので、札幌で北斗星3号から、7分連絡のオホーツク3号へ乗り継いで午後には網走に着き、ここで3時間弱の時間を取って、タクシーで網走監獄と天都山に行きました。タクシーの運転手によると、あいにく少し前に流氷は去っていたところだが、北浜あたりの海岸には浜に打ち上げられて残された流氷がゴロゴロしているとのことでした。せめて、そのかけらでもよいので見ておこうかという話になって、タクシーで網走駅には戻らずに、その先にあるオホーツク海に面した北浜駅まで行ってもらい、そこからその日の宿泊地の川湯温泉まで列車に乗ることに予定変更しました。
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この計画変更は、網走〜北浜間11.5qを未乗で残す結果になることを意味します。このころは、私はまだ旧国鉄線を完乗するつもりはなく、それでも、いつかそのような気になったら後悔するだろうという思いはよぎりました。実際、その後、今日まで冬場の北海道には再訪していません。

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浜辺に残されたものとはいっても、本物の流氷に触れられることのほうを選んだこのときの判断は誤りではなかったと思うようにしています。そしてこの時から8年後の夏に出かけた北海道乗りつぶし旅行で、道東にぽつんと残したわずか10qちょっとのために釧路〜網走〜旭川を延々と乗ることになりました。
この日は川湯温泉で宿泊。
翌日は川湯温泉から釧路へ。キハ54が1両だけの列車は混んでいましたので、ビデオカメラを手に、運転室の直後でぼんやり前を見ていると、運転士が運転室と客室とを隔てるガラスをトントン叩きます。運転士は一瞬こちらを振り向いて、前を見ろと前方に向けて指をさします。前方を見ると2頭のエゾシカが線路内にいるのがわかりました。私がビデオカメラを持ちながらぼんやりしていたので運転士が教えてくれたのでした。けれども止めていたビデオカメラのスイッチを入れた直後にエゾシカは線路沿いの茂みに入っていってしまいましたので、撮影できずじまいでした。
釧路についたあと、根室まで往復しました。厚岸からは湿地帯を走り、そのあと防霧林、広い牧草地と牧場、そして一瞬太平洋を見下ろす断崖。海の彼方に異様なまでに真っ平な島。この区間こそが鉄道の車窓では日本一と思いました。たいへん気に入った区間でしたので、8年後にもこの区間を往復していますが、2度とも上りが夕方〜夜間になってしまいました。
このときは終点の根室でレンタカーを借りて納沙布岬まで行き、帰路には日本最東端の駅「東根室」にも立寄ってきました。この日は釧路泊。

翌日は特急おおぞら6号で札幌。乗り換えて小樽。ここで運河などを眺めたあと、函館本線倶知安経由で北海道最後の宿泊地長万部まで行きました。夕暮れの羊蹄山も姿を見せてくれて、寒い時期、暖かい車内に一日中乗っているばかりでも十分に北海道の雪見旅を味わうことができました。

北海道最終日は函館へ移動。快速「アイリス」はキハ24とキハ22の2両編成でした。
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当時はキハ54やキハ40が主流になっていた北海道でしたが、最終コースで、ようやくキハ40系より前の世代の気動車に乗ることができました。これが、両形式に乗車した最初で最後の経験になりました。
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函館に着いてから函館市電に乗って大急ぎで函館山まで往復したあと、北海道を後にしました。
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往路は青函トンネルの前後を未明に通過してしまいましたから、帰路は日中に通ることにして、50系客車の快速海峡8号に乗って竜飛海底駅の見学をして、そこから14系の海峡10号で青森。青森から日本海2号で帰路につきました。
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《この旅で初乗りできた旧国鉄線》
東北本線(仙台〜盛岡 183.5q)
津軽海峡線(青森〜中小国 31.4q)※正式には津軽線の一部
津軽海峡線(中小国〜木古内 87.8q)※国鉄時代には未開通
津軽海峡線(五稜郭〜木古内 37.8q)※正式には江差線の一部
函館本線(函館〜旭川 423.1q)
室蘭本線(長万部〜沼ノ端 209.3q)
千歳線(沼ノ端〜白石 56.6q)
宗谷本線(旭川〜新旭川 3.7q)
石北本線(新旭川〜網走 234.0q)
釧網本線(東釧路〜北浜 154.7q)
根室本線(新得〜根室 307.5q)
石勝線(千歳空港〜新得 132.4q)※この千歳空港は現在の南千歳
奥羽本線(秋田〜青森 185.8q)
羽越本線(新津〜秋田 271.7q)
湖西線(山科〜近江塩津 74.1q)
なるべく多くの線区を乗れるようにして、重複して乗車する区間を最小限に抑えています。こうしてみると国鉄時代には東北地方の幹線系のほか、湖西線までも未乗であったことがわかります。この年から、私は青春18きっぷなど格安切符を使って、身近なJR未乗線区を中心に一人で乗りつぶしの旅をするようになっていったのでした。


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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
しなの7号様 こんばんは
閑散期の北海道鉄旅、お疲れ様でした。私も初めて北海道へ行ったのは、1985年の3月。当時はまだキハ56やキハ80系「特急北海」が現役で活躍していました。
2回目の北海道は1994年の8月。釧網本線でDE10牽引の「ノロッコ号」に乗りました。このノロッコ号、客車はオープンデッキに改装された旧型客車、それに緩急車が2両でその緩急車も乗車可能だったので迷わず緩急車に乗り込みました。
速度はノロッコの名のとおり速度は自転車並みか、良くて原付程度、それでも二軸のためか乗り心地は最悪でした。
以前しなの7号が緩急車の事をブログ記事にされてみえましたが、あれで乱暴な運転(特に急制動をかけられたら)ならば正に地獄そのものです。乗務している車掌氏は「これ位のスピードだから平気だけど、現役の貨物の頃はそりゃあ大変だったよ。物凄く揺れるんだから。とてもお客さんを乗せるシロモノではないね。」と言ってみえました。


2017/02/09 19:13
天様 こんばんは。
このとき乗れなかったノロッコ号。因縁の北浜〜網走間乗車のために再訪した8年後に乗車しました。
とは言っても、流氷の時期ではなかったので運転区間は異なり「釧路湿原ノロッコ号」でした。ヨは連結されておらず、トロッコ車両も新しくなって、改造種車は50系客車で最後部には推進運転用の運転室があって、乗り心地もよくて名ばかりのトロッコでした。

貨物列車は、発車や減速時には最前部から増幅された自連の遊間の仕業で、最後部の緩急車では、足をすくわれるような急発進や急減速がありました。そもそも貨物列車や荷物列車では、機関士も人が乗っている前提で運転しませんから、運転も荒っぽいものです。荷扱作業中、連結の衝動で転倒して怪我をされ、公傷で長期休まれた方もありました。
しなの7号
2017/02/09 20:16
しなの7号様 ごめなさい。
本文中、敬称が脱落していました。お詫びするとともに、訂正いたします。申し訳ありませんでした。
そうなんですか?貨物列車の緩急車ってそんなに物凄い衝撃なんですか。そのノロッコ号の車掌氏も以前は列車掛をしてみえたようで、他の職員氏(乗務員が2,3名乗っていました。)と緩急車や国鉄の頃の車掌業務を話してみえました。乗客であり門外漢の私は何を言っているかは分かりませんでしたが。降車時にノロッコ号の記念乗車券を買いました。

2017/02/09 21:26
こんばんは。青函トンネル開業後、自分の北海道への足と言えば、大阪発白鳥〜はまなす乗り継ぎがメイン、稀にトワイライトエクスプレス、日本海といった感じでした。やがて社会人になり、急に思い立って土曜の朝に白鳥で大阪を出発し、はまなすで深夜の函館を折り返し、日曜日の夕方に再び白鳥で大阪に戻る弾丸旅行もやりました。函館発の日本海4号に乗車した時は、先行貨物の機関車故障で新津で正午頃まで抑止、大阪着が19時過ぎだったこともありました。白鳥、はまなす、日本海、トワイライト、青函トンネルの海底駅等、過去帳に入ったものばかりですね。北海道新幹線開業で新大阪を朝6時に出れば、函館に昼過ぎに到着できて、確実に時間短縮を遂げているのに、何故か北海道への関心が昔ほど高まりません。
10年前の6月に乗車した下りトワイライトが青函トンネルを抜けると既に夜が開け、海沿いを走るうちに車窓に函館山が近づいてくる風景は今も目に焼きついています。
サンダーバード46号
2017/02/10 01:38
天様 こんにちは。
そういうことは全く気にしませんのでご心配なく。

長編成の貨物列車は、自動連結器の遊間とブレーキの効きが前後で時差ができますので加減速時の前後動はすごいです。「しゃくる」と表現しました。減速時には機関車の単弁を使われたりしますし、ブレーキ装置時代がブレーキ力を段階的に緩めることができない構造なので衝突したかのような停まり方さえします。二軸車ですと台車がないですから、平軸受から直接床に伝わる摺動音と振動もボギー車では味わえないものです。私が乗ったノロッコは録音テープによる自動放送や物販コーナーもあり、貨物列車には程遠いものでしたが、乗客には栞として使える乗車証明書が配られました。
しなの7号
2017/02/10 10:16
サンダーバード46号様 こんにちは。
中京地区に住んでいると、長距離列車に乗るにはいったん東京か大阪に出る必要があるのがやや難点で、朝、思いついてフラッと特急に…とか、仕事中に急に出かける気になって、フラッと寝台に…ということがしにくいです。五能線に行くときに日本海に敦賀から乗ったことがありますが、やはり始発から乗ってちゃんと車内放送を聞きたいものです。
この北海道旅行の帰路に利用した日本海には、終点まで乗りたくて湖西線初乗りを兼ねて大阪まで寄り道をしましたが、強風で新発田駅で1時間ほど抑止になってしまい、大阪着も遅れました。車掌は新幹線との接続について指令と乗客の間で連絡を取り合っており、お忙しそうでした。その3年前までは自分がそういう立場であったわけですが、その日の私どもは、もう帰るだけで何も用がないので、もっと遅れたほうが長く乗っていられて楽しいという状況でした。
北海道新幹線も乗ってみるつもりはありますが、早く乗りたいとかいうワクワク感は全くありませんね。
しなの7号
2017/02/10 10:17
しなの7号様、こんにちは。
さすがに周遊券面表記は旅客鉄道の鉄の漢字は、金へに矢ではないねですね。こちらは他社線またがり「タ」の文字があるのに、海峡指定券には無くて、?です。
釧網本線といえば、種村直樹氏が駅で予約を入れてもらった弟子屈の旅館に泊まられ、翌朝、網走からの「おおとり」に乗り継がれるハードな行程の描写を思い出しました。
50系客車にも横軽通過対策の●が付いていますが、実際に碓氷峠を越えたのでしょうかねえ。
NAO
2017/02/10 13:54
NAO様 こんにちは。
ゾーン539カードは乗変で、釧路駅旅セで発券されていますので、(1 )ですが、原券は(3-タ)でした。指定された海峡8号の12号車は竜飛海底駅見学客専用車で、一般乗客は排除され、一般の指定席とは別枠の見学ツアーとなっていました。竜飛海底から青森までの列車も次の海峡10号に指定されており、ツアコンも同伴しましたので、着駅が他社の「青森」であっても、JR北海道単独のイベント券的扱だったと言えるのではないでしょうか?
ちなみに、12号車が指定されていますが、この列車は12両もの長大編成ではなく、一般車4両(ハザX2+ハX2)と合わせ、計5両の短編成でした。12号車に紛れ込んだ一般客は排除され、海底駅では1箇所だけドア扱いをしていました。
オハフ50 5005について調べましたら、元はオハフ50 2332で秋アキの所属車でした。碓氷峠とは縁がなく装備は無用に終わったものとみるのが適当のようですね。

弟子屈駅が現在の摩周に改称されたのが、この年の秋でした。
しなの7号
2017/02/11 08:20
こんにちは。
今日は、こちらの記事とお写真を楽しく拝見させて頂きました。
青函トンネルや瀬戸大橋の開業の頃、私はまだ幼く細かいところまでの記憶はありませんが、「新生JR」への社会的な期待を背負って、地域ごとの様々な工夫や取り組みが出始めた頃だったのではないかと思います。
一方で、函館に向かう快速列車のように、まだまだ国鉄時代の面影も色濃く残していて、車両も駅も、何も変わっていないと見えることも多々あったかと思います。
この先、様々な特急列車やリゾート列車が登場し、北海道の鉄道が華やぐ時代に入っていきます。それまでの炭鉱の斜陽とローカル線の廃止の連鎖から抜け出して、北海道の鉄道に明るさが戻ったとも感じられる時代です。
近年再び、北海道内の鉄道の維持が難しくなって来て、地域を巻き込む議論がなされようとしています。鉄道は社会の骨格ともいうべき大切な社会インフラであることが、最早地方では忘れられてしまっているようにも感じられ、その無理解が将来に暗い影を落としているようにも見えます。
こちらの記事のように、鉄道で旅することの楽しさが、多くの人に伝わり、もっと鉄道の愛されるようになっていって欲しいと願うばかりです。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
風旅記
2017/03/07 15:34
風旅記様 こんにちは。
このころのJR北海道では、まだまだ国鉄時代を思わせる部分がありました。一方で積極的にオレンジカードを販売されていて、車内や駅でよく買いました。けれど特急以外は多くの列車が1両や2両の短編成で、見るからに利用者は少ないのだろうと想像できましたから、はたしてどこまで自力でやっていけるのかという思いはしていました。民営化されて30年。JR北海道が大きな転換点を迎えているように思います。もはや鉄道だけの営業努力では如何ともしがたい状況で、仮に鉄道を利用しろと言われても、駅には商店街も公共施設もなく、バスもタクシーも常駐していない駅に降ろされても途方に暮れるような現状では利用者は減るばかりでしょう。鉄道を骨格に据えた交通政策を国家レベルで考えない限り、北海道だけでなく全国の地方鉄道網の維持存続はおぼつかないように思えます。本州から切り離されて自立を求められて発足したJR北海道は、努力の甲斐なく路線縮小するしかないのでしょうか。特に冬季の厳しい気象条件のときこそ、道路交通に変われるインフラとして見直されるような政策が期待されます。
しなの7号
2017/03/07 16:18

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