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zoom RSS 【786】 もしも、50年前に山陰を乗り鉄したら…

<<   作成日時 : 2017/04/13 06:40   >>

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先週、国鉄が分割民営されてから5年目に当たる1992年に、山陰ワイド周遊券で山陰地方の未乗線区を乗り回したことを書きました。

【784】 乗り鉄12か月…1992年4月「山陰」

そのあと「やくも3号様」から現行ダイヤで同じ行程を巡るとどうなるか、その行程をコメント欄にアップしていただきました。それを拝見すると、別に豪華な旅を望んでいない私の性分を前提にして、旅の条件や趣旨について吟味して作成されたことが伝わってきました。私はそれに刺激されて、さらに25年前、つまり今から50年前、まだ日本の鉄道が輝いていた国鉄時代に遡って、1992年のときと同じ経路を同じ条件で乗り鉄したらどうなるかを調べてみました。
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上の画像は、たぶん50年くらい前の「山陰周遊券」の表紙です。「山陰周遊券」という名称ですが、後の「山陰ワイド周遊券」のことであって、自由周遊区間に相当する範囲は概ね同じで、旅程で必要になる相違は後述します。
参考までに、25年前に山陰地方の乗り鉄をした時の経路を再度アップしておきましょう。
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25年前と同じ条件というのは、以下のようなことを言います。

・1992年同様に山陰(ワイド)周遊券を使い、節約を旨とするが、帰路は新幹線を利用する。
・発着地は名古屋として、金曜日の夕刻、会社を定時で切り上げてから乗車する。
・土日曜を利用して旅行をして、月曜日には会社に出勤する。
 (このころ、土曜日は「半ドン」でしたから、半休)
・できるだけ1992年の旅程に合わせる。

といったところですが、実際にはまったく同じ行程は不可能です。なぜなら50年前(1967年)には、新幹線が東京〜新大阪間しか開業しておらず、山陽新幹線はありませんし、三江線は全通しておらず、三江南線(三次〜口羽)と三江北線(浜原〜石見江津)に分かれているのです。旅程の作成に当たっては、たまたま家にある交通公社の時刻表1967年9月号を用います。記事中の画像も、その時刻表の該当部分の転載とさせていただきました。

********************

旅程比較のため、1992年の行程も併記しながら話を進めます。

名古屋17:48―(急行「霧島」 35レ)―大阪20:36
大阪 21:20―(急行「おき」 701レ)▲―米子5:22


<cf. 1992年>
名古屋18:50―(快速3139M)―米原20:00
米原20:15―(普833M)―彦根20:21(食糧調達)
彦根20:40―(新快速3657M)―京都21:29
京都21:32―(快速「ムーンライト九州」 9231レ)―大阪22:07
大阪22:55―(急行「だいせん」 705レ)▲―米子5:58

往路の大阪までは新幹線を利用しなくても、急行「霧島」に乗れば、大阪で福知山線の夜行急行「おき」に間に合います。周遊券利用ですので急行を極力利用したいものです。「霧島」は東京発熊本経由鹿児島行で、終点の鹿児島には翌日の15:35に着きます。「霧島」のあと、大阪にその日のうちに着ける東海道本線下り急行列車は、「阿蘇」「第2なにわ」「比叡4号」と続きますが、いずれも急行「おき」には間に合いません。新幹線を利用せずに、仕事を早退しないという前提であれば、「霧島」以外に選択肢はありません。「霧島」には2等寝台車が3両連結され食堂車もありますが、質素を旨としますので、このあと乗車する列車も含めて、すべて2等車自由席がある列車の利用とします。

急行「おき」は福知山線経由の大社行で、のちの「だいせん」の前身となる夜行列車で、1等車(一部指定席)・1等寝台車(Bクラス)・2等寝台車が各1両と2等座席車が6両の編成です。では、このころの「だいせん」を名乗ったのはどういう列車だったのか? 時刻表をめくると、「だいせん」は京都・大社間のDC急行の愛称になっています。ああ、山陰本線をずっと走って行くのかと早合点してはなりません。その急行「だいせん」は山陽本線・赤穂線・伯備線経由なのです。しかも途中の姫路まで(臨時?)急行「やまのゆ」(姫新線中国勝山行)を併結しています。

米子6:09―(633D)―境港6:46
境港7:33―(622レ)―米子8:09

<cf. 1992年>
米子6:04―(633D)―境港6:51
境港7:35―(638D)―米子8:19

境線の一往復は、25年の歳月を経てもあまり変化がないようですが、上りは列車番号からおわかりのように気動車列車ではなく機関車牽引の客車列車です。当時の境線には、気動車列車に混じって、朝夕を中心に下り4本と上り3本の客車列車があったようです。下りが1本多いなと思ってよく見ると、午後の下り1本だけ、列車番号が「675」となっていて、10位の数字が貨物列車用と思われます。所要時間も他の客車列車より余計にかかっていますので、この1本だけ混合列車だったのではないでしょうか。
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米子9:35―(急行「第1ちどり」611D)―備後落合13:08

<cf. 1992年>
米子9:30―(特急おき3号 1043D)―松江9:55
松江11:00―(547D)―備後落合14:06

このころの木次線には、広島・米子間の「第1・第2ちどり」と、広島・鳥取間の「いなば」の計3往復の急行列車があり、2本の「ちどり」は上り(米子行)だけが岩国始発(広島まで普通列車)となっています。また、上り(広島行)の「いなば」と上下両方の「第2ちどり」は夜行列車です。

急行「第1ちどり」は備後落合で、芸備線上り方面に連絡する気はないらしく、接続列車は15:00発の新見行普通列車まで2時間近くもありません。しかもその普通列車に乗って伯備線との接続駅である備中神代まで行ったとしても、折り返して三次まで行くために乗りたい急行「しらぎり」広島行は備中神代を通過してしまいます。
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ここは25年前の行程に備中神代〜新見間を加えることにします。しかし新見まで行くのなら、備後落合から新見まで普通列車よりさらに49分後に広島始発の急行「たいしゃく」岡山行があるので、それに乗っても、折り返す「しらぎり」に間に合いますので、芸備線内は往復とも急行に乗ることにしましょうか。新見も自由周遊区間内に含まれますので、急行に乗ったとしても追加料金も追加運賃もかかりません。
しかし、よく見ると備後落合発15:00の新見行は客車列車です。C58牽引か? ちょっと気になります。やっぱり普通列車に乗るか、それとも、普通列車の備後落合発車の写真を撮って「たいしゃく」に乗るか…迷います。

備後落合15:49―(急行「たいしゃく」2814D)―新見17:04
または《備後落合15:00―(826レ)―新見16:48》
新見17:16―急行「しらぎり」2813D―三次19:22△


<cf. 1992年>
備後落合14:08―(448D)―備中神代15:21
備中神代16:00―(449D)―備後落合17:18
備後落合17:44―(359D)―三次18:52△

新見から折り返し乗車する下り急行「しらぎり」は、米子始発伯備線・芸備線経由の広島行で、新見まで宇野行の急行「しんじ」に併結されてやってきます。それだけでなく急行「しんじ」は新見で、備後落合から私が乗ってきたという想定の上り急行「たいしゃく」を岡山まで併結します。ずいぶん器用な運用です。

翌日の経路中にある三江線は全通していません。三江南線(三次〜口羽)と三江北線(浜原〜石見江津)に分かれていますが、乗り鉄旅としては両線とも全線乗車しなければなりません。
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未開通区間の口羽〜浜原間はバス連絡となるわけですが、時刻表の索引地図を見ると、国鉄バス雲芸線は三江南線終点の口羽駅とは離れているみたいに描かれています。
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たぶん実際には、バスは江の川を挟んだ対岸の道路を走るものと思いますので、口羽駅から徒歩で江の川に架かる橋を渡って乗り継げるようにも思われますが、よくわかりません。また、三江北線の終端駅浜原駅ではバスに接続しているように見えますが、時刻表の国鉄バスのページには浜原駅の時刻は書かれていません。しかし、その次の駅である粕淵の時刻は書かれています。それは粕淵が集落の中心だからなのでしょうが、粕淵で三江北線にそのまま乗ってしまっては、浜原〜粕渕間のわずか2.0qが未乗で残ってしまいます。
バスの時刻を見ると、三次から粕渕まで直通するバスは1日1往復しかなく、三次発は9:45です。そうしますと三次で早起きして三江南線を口羽まで1往復して三次に戻っても、そのバスに乗れますから、口羽での乗り継ぎは不可能であっても時間的には問題がなくなります。ただし時刻表で確認すると、当時の三江南線は山陰周遊券の自由周遊区間に含まれていませんから、三江南線の運賃は別払いになります。しかし三次からの国鉄バス雲芸線は自由周遊区間内ですので、利用できるのです。
このバスの浜原着時刻は読み取れませんが、三江北線の浜原〜粕渕間のキロ程が2.0qであることから、その到着時刻は容易に推定できます。しかし浜原で接続列車はなさそうなので粕渕までバスに乗ってしまい、三江北線上り浜原行に乗って、浜原で折り返して石見江津行列車に乗れば、三江南北両線を踏破できることになり、こんな乗り継ぎになります。

三次6:22―523D―口羽7:09
口羽7:14―524D―三次8:05
三次9:45―国鉄バス雲芸線―粕淵11:34
粕淵12:37―327D―浜原12:41
浜原12:55―330D―石見江津14:30


<cf. 1992年>
三次8:28―(446D)―江津11:59
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「石見江津」は現在の「江津」です。三江北線の330Dは石見江津から山陰本線下り方面に直通する浜田行ですから、そのまま浜田まで乗ってもよいのですが、時刻表を見ると、その20分後に東京から来る急行「出雲」が続行しているので、そちらに目が留まります。
前夜東京を出た列車に翌日の午後に乗るというのもこの時代ならではのことでしょう。時刻表の編成表を見ると寝台主体の列車ですが、2等座席指定車が3両あり、それらは綾部以西が自由席になるとされていますので、周遊券で乗車できます。東京を11両編成で出てから鳥取で2等寝台車1両を切り離し、米子でも食堂車1両と2等寝台車2両を切り離して、乗車時点では7両の短編成になってはいますが、2等自由席車3両+2等寝台車2両+1等(Bクラス)寝台車1両+1等座席指定車1両という豪華編成です。

石見江津14:51―急行「出雲」―浜田15:13
浜田17:07―急行「しんじ」―小郡20:05


<cf. 1992年>
江津12:43―(快速3121D〜121D)―益田14:08
益田14:10―(544D)―津和野14:49
津和野16:04―(546D)―小郡17:51

勝手に急行「出雲」に乗ることにしましたが、石見江津の駅から近いところに江の川を渡る長い鉄橋がありますから、急行「出雲」に乗らず、その列車を鉄橋で撮影したい気持ちも出るかもしれません。そういうプランも可能で、浜田から乗る予定にした小郡行急行「しんじ」に、石見江津から乗ればいいのです。急行「しんじ」…この列車名、先ほど出ましたが、覚えておいでですか?
そう、前日の新見で「しらぎり」を切り離し「たいしゃく」を併結した宇野行急行でした。ここで乗るのはその反対方向の列車で小郡行なのですが、この急行「しんじ」の運転経路はちょっと驚きで、宇野〜伯備線〜山陰本線〜山口線経由で小郡とを結ぶ急行列車なのでした。上下列車とも岡山〜新見間で「たいしゃく」を併結し、新見〜米子間で「しらぎり」を併結しています。岡山発の下り「たいしゃく」だけは、新見で分割され単独運転したあと、備後落合で米子発木次線経由の「第1ちどり」広島行(前日に米子から備後落合まで乗ったという想定の列車)を併結します。小回りが利く気動車をうまく運用していますが、どう考えても「しんじ」に始発から終点まで乗る乗客がいるとは思えません。
あと、余談ですが、下の画像で、山陰本線の益田行終列車は、京都朝一番列車なのですね。一番列車が終列車でもあるという、とんでもない列車ですが、この時代は、後に有名になる京都始発の夜行普通列車「山陰」の前身となる列車が、京都21:56発下関行(18:42着)ですから、恐れ入ります。
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しかし今日では必ず乗り換えなければならないターミナル駅をあえて直通することで、さまざまな区間利用者が乗り換えなしで目的地まで行けるように配慮された結果です。このころは線路が同じ規格で繋がっていることを最大限に利用していたのでした。そして利用の少ない区間で列車の系統を切り刻み、分割併合の手間を取り払った省力化の結果が今の運転形態なのです。しかし自動車道が充実した今、復活を夢見ても時代錯誤以外の何物でもないのでしょう。

小郡21:56―急行「阿蘇」1206レ▲―新大阪7:17
新大阪7:30―特急「ひかり6号」6A―名古屋8:36


<cf. 1992年>
小郡18:19―(ひかり28号)―名古屋21:39

小郡は今の新山口ですが、このころ山陽新幹線は未開通です。金曜日夕刻に名古屋を出て月曜日の朝には出勤したいという条件ですと、ここからは夜行列車を使って帰るしかありません。急行「阿蘇」は名古屋行なので都合がよいのですが、名古屋に着くのは10:12ですから、会社に遅刻してしまいます。やむを得ず新大阪から新幹線を使えば、ぎりぎり9時出勤には間に合いそうです。

時刻表の山陽本線のページを見ていると目移りがします。
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大名旅行であるのなら、小郡で8分連絡の好接続で特急「みずほ」があります。25年前のときは、帰路の山陽新幹線の食堂車で同行者と旅の打ち上げ会をしましたが、「みずほ」の食堂車もこの時刻は営業時間内でしょうから、同じようなこともできそうですし、寝台で寝倒して名古屋に着いたら、駅ビル内にあった銭湯に浸かってサッパリして、いかにも家から出てきたように出勤できそうです。しかし、50年前の特急や食堂車など私には贅沢すぎて現実的ではありません。それは無理としても、というよりそれ以上のお楽しみは、急行「阿蘇」の前の、急行「音戸」とか急行「海星」です。「音戸」は電化前の呉線を経由しますからC62かC59が牽引するのでしょうか。そうであれば就寝前の最大のお楽しみになるわけです。「海星」には1等寝台車が2両も連結され、そのうち1両はAクラス2人用個室があるマロネ40で、関西対九州の列車の中では特急「あかつき」に次ぐ格式高い急行ですから乗りたい、せめて見たい列車です。あいにく両列車とも寝台列車であって2等座席車は連結されていませんから、貧乏旅行者としては、2等自由席車を連結した「阿蘇」で帰るしかないわけです。ちなみに、急行「阿蘇」には、この架空旅行から6年後の1973年に乗る機会がありました。
             ↓
【701】  【名古屋】旧客編成・急行阿蘇【熊本】

こうしてみると、50年前は長距離列車が多く、運転系統も編成も多種多彩。興味が尽きることはありません。しかし実際にこの旅程で帰ってくるとすれば、煙で煤けた顔をして鼻の穴は真っ黒で、直角座席に座りっぱなしで腰が痛いし寝不足。へとへとに疲れて月曜日は仕事にならないだろうと思われます。迅速快適さの面では到底現代には及ばない苦行になるでしょうから、鉄道を含めた交通インフラは半世紀で飛躍的に進化したことはよくわかります。趣味のことなのでどうでもいいことですが、逆に時刻表をめくる面白さはどうかと言えば、それとは反比例して魅力は半減どころか、それ以下になったとも思います。今回、古い時刻表を眺めながら机上旅行をしてみて、国鉄全盛期の机上旅行は今の旅行より何倍も楽しいものと感じたことです。

↓時刻表1967年9月号は復刻版が電子書籍で発売されています。




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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
しなの7号様、こんにちは。
ありましたね、周遊券の表紙。無入鋏になってしまうことがあり、組合の反対もあって「日本国有鉄道」の文字が入った表紙はほどなく廃止され、旅行会社発行のものだけしばらく残ったとか。中学生のとき、四国乗り鉄で使用した周遊券は「日本交通公社」で買ったので表紙がまだ付いていました。
赤穂線経由の急行は時期により、他の愛称でも存在したと思います。山陽経由より距離が短くなりますが、実際には乗客が経路指定したり、駅員さんが進言しない限り、山陽経由の乗車券で黙認されていたのではないでしょうか。
ローカル線が至るところで健在だった頃、幾通りもある踏破のスケジュールを組むのは楽しくもあり、また好きなことをやっているのにヘトヘトになったり。若いときはページがペラペラになるまで時刻表をひっくり返したのに、今、自宅にある時刻表はきれいなモンです。本当に使うときぐらいしか見なくなってしまいましたねえ。
山陽のページでお書きになっているように、目移りする時刻表。現在ではそんなことを望むのは高速バス以外では無理な感じがします。
NAO
2017/04/13 12:27
NAO様
自分が高校生だった1973年に山陰周遊券を駅窓口で買ったときには、表紙がなくてがっかりした記憶があります。

このあとも山陽本線の一部の電車急行が赤穂線を経由する時代があって、新幹線博多開業で急行が消滅ということらしいです。私が国鉄退職まで使っていた規定本でも、赤穂線直通の急行列車には、まだ「特定列車による短絡乗車の取扱いの特例」がそのまま残っていますが、その後に急行列車の設定があったのかは存じません。
国鉄時代には乗り鉄の趣味がなかったので、時刻表を仕事以外でひっくり返すことはなかったのですが、こうして50年前の時刻表は時代背景も無言のうちに私に教えてくれました。
しなの7号
2017/04/13 14:53
しなの7号様、こんばんは。
50年前、私は影も形もありません(笑)
山陰周遊券の表紙のデザインにも時代を感じます。
山陽新幹線が無いので、東京、大阪始発の長距離急行が存在感を出していますね。
『だいせん』が赤穂線経由とは…奇想天外な運転経路です。京都・大社間を乗り通す乗客はマニアくらいでしょう。急行列車が分割・併合、全国にネットワークを形成していた古き良き、羨ましい時代です。『しんじ』の運転経路…驚きを通り越して頭から湯気が出そうです(@_@;))))
時刻表の後半、ピンク色のページに特急、急行の編成表が掲載されてます。自宅にある1978年10月号ですが、急行、面白いですねぇ。ロネ、ハネ、ロザ、ハザ、荷物車全て連結の客車急行能登、越前。キユニが引っ付いてる急行紀州4号(くまの、かすが6号とも併合)。等々…ページをめくる楽しさは今日の時刻表の比ではありません。

呑み鉄旅、ご覧になりましたか?駅名忘れましたが、有明海がホームのすぐ横にあり最高のロケーション、片手にビール、おまけに好天、六角さんが思わず寝転がったシーンが好きです。島原鉄道のかつての終着駅を目指して路線バスを利用された点も私の旅心をくすぐりました。
はやたま速玉早玉
2017/04/14 18:07
たかはしと申します。昭和45年生まれで46歳です。

この「786」と「784」の記事、そしてコメントを何度も読み返しました。
なんと言いますか、言葉にできない感動を感じております。

年齢的に今から50年前のことはさすがにわかりませんが、私が鉄道にはまった小学生時代(昭和50年代)は、時刻表を眺めては、妄想旅をしておりました(笑)

当時はホテルなどを取らなくても、全て寝台列車で宿泊可能な旅程を組むことができましたが、今は無理なこととなってしまいました。

乗りたいように旅程を組んでもうまくホテルが取れなかったらその旅程は成り立たず、逆に言えば取れたホテルで旅程を考えるという風になってきてしまいました。

数年前の実体験ですが、新見で宿が取れずに、泣く泣く津山で宿泊したことがありました。これにより芸備線の始発に乗れず、旅程を調整せざるを得ませんでした。

昔のように(約30年ぐらい前)、困ったら夜行列車にとりあえず乗っとけ、みたいなことができないのが残念ではあります。
たかはし
2017/04/14 18:23
はやたま速玉早玉様 こんばんは。
新幹線がないころの時刻表を見ていると、大都市から地方への直通列車が放射状に、それも今では考えられないルートも使って設定されていたことが判って興味深いですね。「だいせん」は、「京都・大阪対赤穂線〜伯備線」とか「岡山対山陰」という現在の「やくも」の役割も兼ね備えた列車だったと思います。大社行の急行は名古屋からも設定があったくらいですから、出雲大社詣での需要はけっこうあって、京都・大阪近郊からメインルートである福知山線や山陰本線経由の列車の補完的な役割も担っていたように思います。
呑み鉄旅、録画で見ました。あれは大三東(おおみさき)駅でしたね。思わず行きたくなる駅です。山に育った人間なので海が見える駅には憧れます。私は廃線になった区間も含め、南島原から西は未乗のままです。
しなの7号
2017/04/14 21:43
たかはし様 妄想旅にお付き合いいただきありがとうございました。
私は50年前には及びませんが、45年くらい前(高校生の頃)に、やはり山陰周遊券を使ってSL撮影の旅をしました。公衆電話に10円玉をたくさん用意して宿の予約電話をしました。でもそんな面倒な予約をしなくても、まだ夜行列車を宿代わりにできた時代でしたから、体力さえあれば夜行の連泊も可能でした。けれど根性なしの私は1泊おきに夜行というプランにして、夜行急行「さんべ」(米子〜博多)の上下列車に深夜に乗り継いで宿泊費を浮かせるということもやりました。
50代になってから、私の乗り鉄旅は、おっしゃるような計画変更は避けたいのに加えて、体力もないので1泊だけにして、仕事がヒマなときの木曜日に、「翌日(金曜日)」の宿の予約をして金曜日は仕事を休んで出かけ、土曜日の夜遅く帰宅。日曜日は家で休養というスタイルが目立ちます。金曜日の夜行バスは混んでるようですがビジネスホテルは結構空いているみたいなので。
しなの7号
2017/04/14 21:44
しなの7号様 こんばんは。
私の投稿に触発?されていただき、ありがとうございます。
これは楽しい記事ですね。いろいろとシリーズ化されたいと思ったりします。
しかし、こうしてダイヤを比較してみますと、あらゆる部分で便利になったわけではなく、とくにこの1992年から現代までの25年では、あるところでは利用しやすく、またあるところでは利用し難くなるなど、「退化を伴う進化」が顕著になっていると感じます。「山を高く見せるには裾野の周囲を掘ればいい」というのに似ていますね。

そういえば、祖父の形見の昭和17年の時刻表があります。1967年の丁度25年前ですね。これでプランを組んでみたらどうなるでしょうか。

p.s.
昨日はつボイノリオさんのラジオ番組に出させていただきました。
やくも3号
2017/04/17 00:25
やくも3号様 こんにちは。
25年後のプランを作成いただきまして、ふと思いついたが50年前のプランでした。列車の運転系統でいちばん興味をそそるのは、1960年代のように思います。ちょうど1967年の時刻表がありましたので、そのページをめくるたびに自分にとって新しい発見が続出でした。コメント欄に書ききれそうもなかったので、1本の記事にしました。50年前は地方と大都市を結ぶ交通機関は国鉄以外の選択肢はなくて直通列車ができることが地方の願いであったのだろうとも思いました。そこには中央とのパイプ役の政治家の力が関わることもあったでしょうから、そのために国鉄としては作りたくもない新設列車を作らされたり、そこは併結で1本の列車にまとめて対応することで実現させるなどの工夫もあったのかなと、いろんな想像をしました。
戦前の時刻表からは、またちがった事情が見えてくるのでしょうか。あいにく戦前の時刻表は持ち合わせていないので、続編はありませんが、現状と国鉄時代との対照みたいなことは、これまでのように記事の中に織り込んでいきたいと思っています。

>ラジオ番組
え〜、聴きたかったです。つボイノリオさんが、まだローカルラジオ局でレギュラー番組を持ち始めたころ、私は高校生で、いつも聞いていました。
しなの7号
2017/04/17 08:14

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