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zoom RSS 【810】 撮り鉄12か月…1974年7月「越後交通栃尾線・銚子電鉄」

<<   作成日時 : 2017/07/03 06:30   >>

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毎月1回第1月曜日に、その月に行った撮り鉄の話を、そしてその週の木曜日には、その月に行った乗り鉄の話をアップしています。 今回は1974年7月に越後交通栃尾線と銚子電鉄の撮影に出かけたときのことを書いてみます。

高校2年生の夏休みでした。この前年には地元中央西線からD51が引退して、私の場合は撮影の対象がローカル私鉄に移っていました。ともに蒸機の撮影をした者の中には、北海道に残った蒸機を求めて出かける者もあり、私も誘われましたが、蛇なんかよりずっと恐ろしい(謎)と思っていた青函連絡船に乗って行く遠い北海道より、身近で手作り感が漂うローカル鉄道を私は優先したのでした。しかしせっかくの夏休みでしたから、日帰りできないようなところへ行きたいという思いはあって、まずは中央西線〜篠ノ井線〜信越本線経由で長岡に向いました。ここまでは北海道に渡る友人と同一行動で、

中津川〜長野:急行きそ1号
長野〜直江津:急行妙高1号
直江津〜長岡:急行しらゆき号

と乗り継いで、私だけが青森行「しらゆき」から長岡で下車し、北海道へ行く友人はそのまま「しらゆき」で青森に22時過ぎに着いて青函連絡船で夜明かしだったはずです。

この日は信越本線沿線にある新潟焼山が未明に噴火して、信越本線に降灰被害があって遅延しましたが、私の行程にはそれほど影響はありませんでした。火山灰が降る中に突入したのは、この時が初めてでした。

長岡で「しらゆき」から下車して単独行動になった私は、越後交通栃尾線の軽便電車の撮影に行きました。訪問した記念にこの下の乗車券を買いましたが、撮影だけを目的にしていたので、この鉄道に乗車することはありませんでした。切符と、この日に沿線で撮影した列車の画像を1つにまとめてしまったので、記念乗車券みたいに見えなくもないですが、乗車券は厚紙の一般的な大きさのものです。硬券というにはやや薄くて、何枚も綴られた乗車券を窓口氏が切取線で切り取って1枚ずつ発行するタイプの切符です。
切符の下にある電車のカラー画像は、私が当日撮影した画像です。走行中なのによく見ると、最後部車両のドアが一か所開いていて人の姿が見えますから、自動ドアではなかったのでしょう。
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撮影しながら沿線を歩きました。すでにこの前年に栃尾線の一部区間が廃止されていて、営業区間は縮小されていました。
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画像

車庫があった下長岡は信越本線が並行している場所で、思いがけず181系の特急「とき」が見られました。
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このあと長岡駅に戻って、うわさに聞いていた不思議な新潟色の70系電車や特急「白鳥」を見たりして、遠くに来たと思ったものですが、ふだん当たり前のように地元で見ていたキハ58系の急行「赤倉」にも出会い、これにも違和感を持ちました。
そのあと、急行「とがくし2号」に乗って、この日の宿となる夜行急行「佐渡4号」に座るために始発駅新潟に向いました。

翌日の目的地は銚子電鉄です。急行「佐渡4号」で相席にあったおじさんは、銚子まで行くという高校生にいろいろ話しかけてきました。私が銚子の人間だと思い込んでおられて、あそこの川は大きいから大雨が降ると怖いだろうとか、あの川に架かっている橋は長いなあなどと昔銚子に行った時の思い出話などを話してくるおじさんに生返事で答えるしかなく、それでも途中の長岡でおじさんは十数分の停車時間中にコカ・コーラ缶を2本買ってこられ、私に1本くれました。すでに0時を回っていて、そのうちに眠りに落ちました。赤羽あたりで目が覚めるとおじさんの姿はありませんでしたから、おそらく大宮あたりで降りて行ったのでしょう。私はお礼も言わずにそのままになってしまったのを申し訳なく思いながら、5時前の終点上野のホームに初めて降り立ちました。

このあと山手線で新宿へ移動しました。このころ朝の新宿駅からは千葉方面への急行列車が続々と発車していました。ホームと反対側のドアが開いているのにもご注目を! もちろんこの場合は自動ドアなのですが、このころは側面行先表示板(サボ)を入れ替えるために、停車中に乗客の出入りが自由な状態のままホームと反対側のドアを開けることは、全国的に普通に行われていました。
画像
6:40急行「水郷1号」 鹿島神宮・(佐原経由)銚子行↑

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6:50急行「みさき1号」 房総循環新宿行(外房〜内房線)↑

このあとも、
7:00急行「なぎさ1号」 房総循環両国行(内房〜外房線)
7:07急行「犬吠1号」 銚子行
と続き、私が乗ったのは、7時07分発の急行「犬吠1号」でした。
ここで乗った車両は自由席でキロ25格下げのキハ26 400番台でしたが、指定席はどんな車両が使われていたか確認していません。このころは地元中部圏の気動車急行では普通車の冷房化はまだまだでしたが、上の「水郷」の画像でもわかるように、首都圏では自由席まで冷房化が進みつつあったようですから、指定席には冷房車のキハ28が使用されていたのでしょうか。かつては指定席に使用されていた座席が良い1等格下げ車でも非冷房であるために自由席車として運用されていたのかもしれません。

さて、目的地の銚子電鉄の車両たちは期待を裏切らない陣容で迎えてくれました。
この日、運用に就いていたデハ201。おへそライトが泣かせます。
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この日は、このデハ201とデハ501がメインで運用されていました。

あいにく車庫に留置されていて、この日出番がなかったデハ301
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地元北恵那鉄道にはデ8という電車が1両あり、このデハ301とは兄弟関係ともいうべき旧鶴見臨港鉄道の同型車でした
超小型のドイツのアルゲマイネ社製デキ3と二軸客車ハフで、両者とも現役でした。
画像

画像

北恵那鉄道の同型車デハ301と、生きた2軸客車。この2つを見ることができて私は満足して帰途につきましたが、乗り鉄目的ではなく、この銚子電鉄にも、この日は乗らずじまいでした。これらの車両は、デキ3以外はもう廃車解体されてしまいましたが、幸いにも銚子電鉄自体は今も健在で、その後2度乗りに行きました。

銚子からの帰路に乗った急行「犬吠4号」両国行は6両全車が自由席冷房車のキハ28によるモノクラス列車で、私が気動車の冷房車に乗車したのは、この時が初めてでした。そして、全車キハ28でキハ58が1両も入らない急行を見たのも初めてで、急勾配区間が連続する地元中央西線ではありえない編成でした。

このころは、中小私鉄の面白さにハマり始めた時期でした。今は車両そのものを撮影目的として出かけることはなくなりましたが、ローカル鉄道に乗っては降りての駅前街並探訪やスーパー巡りは好きです。





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コメント(14件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。信越と房総を同時に行かれるのは面喰いました。
信越地方の噴火は浅間山しか聞いたことがなく、その地域では緊迫感があったのでしょうか。
電車の手動ドアは考えたことがなかったので、一畑電鉄に乗りに行ったときに行列先頭で到着した電車の扉が開くまで待ってしまい、後ろの人たちが歩み寄ってこられたところで車内の女性が開けて下さって救われた気持ちになりました。
新宿発房総急行は朝が早いのですね。私が房総半島に足を踏み入れたのはJRになってからのことで、既に優等列車は183系特急一色になってしまっていました。
銚子電鉄はオールスターですね。私は暗くなってから往復しただけで、沿線風景よりもゆうらゆうらと揺られながらの乗り心地の印象ばかり残っています。
カラー写真のほうのデキは電車をも引っぱっているのでしょうか。
NAO
2017/07/03 12:11
NAO様 こんにちは。
このときの新潟焼山の噴火では犠牲者も出ました。この山、昨年にも小規模噴火がありましたし、この辺りには火山が多いです。南のほうでは御岳山の噴火も記憶に新しいです。

電車の手動扉みたいに当時の国鉄にはなかったようなことが残っていた中小私鉄はほんとうにおもしろく感じました。

新宿駅は早朝からにぎわっていました。この時間帯に出なければ午前中に海に着けないからでしょう。特急に縁がない18乞食の私も、関西方面に行くときは6時台に名古屋駅や金山駅で東海道本線で同じような人たちが乗った満員電車に乗り換えますから同じです。乗り鉄旅はいつも早出です。

この日、私が見たデキ3は仲ノ町〜銚子の1区間だけの運用でした。
単行で来た銚子行電車が車両基地がある仲ノ町に着くと、前にデキ+ハフを増結し銚子まで運転。折り返しは電車を先頭にして発車し、この間デキは仲ノ町までビューゲルを下げてぶら下がり。仲ノ町でデキだけ切り離し、その先の区間は電車がハフをけん引しました。国鉄から乗り換えてくる海水浴客対応のため増結したハフに運転室がなく、機回しを避けるためデキを片道1区間だけ先頭にすることに意味があったものと想像します。
しなの7号
2017/07/03 14:52
しなの7号さま、こんばんは。流石にこの頃は、3〜4歳でしたので、知る由もなく、古い写真や鉄道書籍で知るのみで、羨ましい限りです。田中角栄ファミリーの越後交通も、軽便線があったとは。かなりの夜行付き長距離旅行で、体力的にも一番ある時期の旅ですね。扉を開けての走行やサボ換えなど、今では信じられないですが、乗客の自己責任の部分も大きかったと感じました。扉開け走行などは経験がありませんが、中学の鹿児島行鈍行旅の最終乗車DC列車)がゴールの駅(本線でなく、ローカル線です)に到着したとき、半自動に気が付かず、下車しそこねて慌てたのが、いい思い出です。うちの世代までは、冷房非冷房の列車別割り振りや混成編成もありましたので、懐かしいです。車両によって混み具合が極端だったり(笑)
hmd
2017/07/03 19:00
こんばんは、拝読するばかりでご無沙汰しております。
1974年と言えば、私は小6。やっと時刻表が「読め」るようになった頃で、このような撮影旅行を知ると5年の年齢差を恨むばかりです。私は、館山に祖父母がいたので房総DC急行には少し縁がありました。都会の中を出るDCや館山あたりの長閑さが不思議でした。
北海道以外にSLがいたり、山陽特急がいたり、戻れることができるなら戻りたい年です。
門ハイ
2017/07/03 19:07
hmd様 こんばんは。
そうなんですよね。私は越後交通が「角さん」の会社だったなんて、この時は知らなかったですよ。「軽便」に惹かれて行ったまでなので、長岡線のほうには立ち寄らず片手落ちでした。

私の夜行体験はほとんど高校生時代に集中しています。仕事で夜行に乗るようになってからは、タダでも乗りたくなくて…でも例外はあり、それは次回以降に書きます。

何事も昭和の時代は誰もが自己責任で行動していたものですが、何か事あるたびに裁判で相手方の責任を問う風潮になってきました。それによって進歩したことは無数にありますが、やりにくくなったことも多くなったなと感じます。たとえば鉄道趣味活動とかも。

高校進学直後の3か月間は、旧形客車で通学することが多々あって、いつもデッキでドアを開放してたむろしてました。駅の到着時に線路の分岐部分で横揺れして、床に置いたカバンが線路に転落して現場まで取りに行った同級生がいました(*´▽`*)
しなの7号
2017/07/03 20:25
門ハイ様 こんばんは。
私もかつては、あと5年カメラを早く持てる年齢だったらと何度思ったかわかりませんが、その時代なりの鉄道を記録できたのだと思うようになりました。
銚子電鉄がなければ、もちろんこのときには総武本線にも乗ることがなかったでしょう。私は房総には縁がなく、内房線外房線を巡ったのも遅くてH12年です。それでも今では乗れない113系で1周できたから、まあこの齢でよかったかと思います。撮り鉄を廃業した者にとって、地元の鉄道を継続して記録し続けられておられることには脱帽です。生を受けた時代を悔やむのはお互いにやめましょう(^_-)-☆
コメントありがとうございました。
しなの7号
2017/07/03 20:28
こんばんは。この2カ所とも私は行ったことがありません。当時、栃尾線のことは全く知りませんでしたから、銚子電鉄に貴方が行ったことについてはうらやましくも思った記憶があります。それにしても行きたければ行けばいいのではありますが、SLが地元から消え去ったとしても、SL命だった当時の私にとっては、やはり尾小屋鉄道や、すでに廃線になってはいましたが頸城鉄道が興味の的でしたから。頸城は、始めて買ったTMS誌で特集されていたので1度は行きたい所でしたが、何しろ廃線になったのが早すぎました。それこそもう5年早く生まれていたらと思ったものです(笑)。現在では復元されて見学もできますが、どなたかと同様で人の多く集まるところへわざわざ出かけるのもどうかと思うと行く気が起こりません。尾小屋は廃線が割に遅かったので行ったには行ったのですが、ろくでもない写真が残っているのみです。それにしても栃尾線と同時に行くなら越後交通の本線の方に行くか、蒲原鉄道に行くのが普通のような気もしますが。そこら辺のパワーがあった若い頃のいい思い出ですね。
北恵那デ2
2017/07/03 20:44
北恵那デ2様 こんにちは。
中小私鉄にハマったのは、間違いなく地元北恵那鉄道で手作り感を肌で知ったからです。あのころは越後交通・銚子電鉄は地元からの日帰りは困難でした。お金があれば長岡で1泊して周辺の中小鉄道へ行き、機会を改めて銚子へ行って1泊して翌日は関東鉄道各線あたりに寄って帰ってくるのがセオリー通りだったでしょう。しかしお金がなく、夜行列車を利用することで宿代を節約して、特別に行きたかった2つの鉄道を一度に巡れたというわけです。結果として周辺の私鉄に行けませんでした。
尾小屋鉄道には数人で連れ立って高校の卒業式が終わってから「急行のりくら」の夜行に乗って行きましたが、そのときご一緒ではなかったかな? 途中駅「観音下」の読み方で盛り上がったような記憶が??
しなの7号
2017/07/04 07:44
しなの7号様、こんにちは。
越後交通のカラー写真のドア開けたまま走行している車両、ドア開けたままのサボ交換、今では考えられない光景ですね。私も山陰線旧客で体験(走行中デッキに吹き込む風が何とも言えません❗)しており、昭和の時代では当たり前でしたが。
平成産まれの方は勿論ですが昭和58〜59年産まれの方ですらこのようなドア話をすると『嘘っ、ありえへん』とビックリされます。今なら安全管理の欠如としてマスコミにこれでもかと叩かれてしまいますね。

味わい深く単編成で愛らしい車両が活躍していたローカル私鉄、これはハマってしまいますねぇ、アルゲマイネ社製デキ3(声に出すと舌噛みそう…)と2軸客車ハフは最高に良いです。乗って味わいたい!

移動は夜行含め急行乗り継ぎされたのですね。今では不可能、羨ましい限りです。

はやたま速玉早玉
2017/07/04 11:41
はやたま速玉早玉様 こんにちは。
以前書いたことがありますが、旧客乗務中に車内巡回していたところ、扉が左右両側が解放されていたデッキで制帽を飛ばされたことがあります。
【315】思い出の乗務列車5: 関西本線 223列車(前篇)「帽子がぁ〜(@_@)」
http://shinano7gou.at.webry.info/201209/article_9.html

今では手動扉だけでなく開閉できる窓も珍しくなって、JRの定期急行列車も過去のものとなって、今どきの若者には我々の常識など通用しませんね。
旅客営業に使用される2軸車は別府鉄道にも例があり、遅くまで残っていたのですが、そちらは行けずじまいでした。ただ仕事ではいやというほど2軸車のワフやヨに乗せられました。
しなの7号
2017/07/04 13:54
こんばんは。そうですね、尾小屋鉄道はご一緒に行ったのかもしれません。「急行のりくら」で行ったということはあり得ますが、その記憶が全然ありません。駅名の「観音下」は記憶にあります。それにしてもパソで「かながそ」と入れて一発で変換できるのですね。現在のパソコンに拍手!です。
北恵那デ2
2017/07/04 21:46
しなの7号様、こんばんは。帽子が飛んでいってしまう、本間にこんな事あるんですね〜(笑)無事にお手元に戻り、何よりです(*^ω^)
付属編成を2つ合わせる事で、DD51の次位にオハがきていますが、機関車の次位は必ず緩急車を持ってこなくても良いのですね?『機関車・オハフ・〜』『機関車・マニ・オハフ・〜』のパターンしか私の脳内にありませんので、『機関車・オハ・〜』を見て、あれっ?とおもいました。
三重県と滋賀県を結ぶ国道に421号線があります。7〜8年ほど前に県境の石榑トンネルが開通、一気に快適な国道へと変貌を遂げました。以前の峠道は狭道、急勾配に加え路面もガタガタ、2トン車以上は通行禁止のえげつない(私にとっては非常に楽しい)国道でしたが、トンネルの恩恵により、滋賀県の方が新鮮な魚介類を購入するために三重県のスーパーにお買い物に行かれるケースが生まれたそうです。スーパーの生鮮売場の他、調味料売場にも地域差は顕著に現れますね。

はやたま速玉早玉
2017/07/04 22:52
北恵那デ2様 こんにちは。
私は記憶力に自信がない者ですので、特に尾小屋鉄道のように数人で行ったことは記憶にあってもメンバーは特定できません。記念集合写真なんか撮りませんから画像にも残っていないし、録音するときも皆無言で協力してくれましたから声も入っていないので、同行者情報はほとんど記録が残らないのです。一方で、通番を付けてあるネガ袋から写っている列車や場所がわかり、撮影順すなわち時間経過が特定できて、これに遺した乗車券、駅弁の掛紙、乗車メモ、録音内容も併せて見たうえで、それを検証するための当時の時刻表をたどると、日付や乗車列車、撮影列車などがけっこう明確に浮き上がってくるものです。もちろん他人様にとってはどうでもいいことですが、自分の足跡がはっきりするとうれしいものですよ。

うちのパソコンも「かながそ」と入力したら「観音下町」と候補が出てきました。「町」はいらんのだけど、GoogleEarthで見たら、よくこんなところに鉄道が…と思いました。尾小屋駅跡も確認できました。前から何もなかったけれど、今はもっと何もないようです。
しなの7号
2017/07/05 08:41
はやたま速玉早玉様 こんにちは。
緩急車は最後部に連結するのが原則で、編成の両方に連結しなければならないわけではありません。関西本線ではこの223列車列車だけに見られた編成でした。
石榑峠は国鉄在職中に買った林道ツーリングガイドに載っていたので、行きたいと思いつつ行けずにいてそのままでした。以前はそういうワインディングロードの峠ファンでしたが、今の軽自動車ではダメです。先月、伊那谷と木曽谷を結ぶ権兵衛ンネルを通り抜けましたが、トンネル開通以前に石榑峠みたいな林道で峠越えしたことがあります。昔、伊那谷から、米作が難しい木曽谷へ米を運ぶ道として峠道の開削に尽力した人物の名前が峠の名前になっていて、今もその歴史を伝えます。トンネルと峠道の関係は、新幹線とローカル列車との面白味の関係に似てますね。快適・便利になれば、歴史ある旧道は廃れ忘れ去られますが、その功績は忘れてはならないですし、何より峠越えのとき、走るクルマのすぐそばで鳴く鶯の声、はるか下に今来た道や街並みを見下ろす気持ちよさは新道トンネルでは味わえません。
しなの7号
2017/07/05 08:41

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