昭和の鉄道員ブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 【820】 撮り鉄12か月…1973年8月「九州一周蒸機巡り」+今思うこと

<<   作成日時 : 2017/08/07 06:40   >>

ナイス ブログ気持玉 20 / トラックバック 0 / コメント 18

毎月1回第1月曜日に、その月に行った撮り鉄の話を、そしてその週の木曜日には、その月に行った乗り鉄の話をアップしています。 今回は今から44年前に九州と山陰本線の西端部分に蒸気機関車末期の姿を撮影しに行ったときのことを書いてみます。

この年の夏休み前、地元中央西線からD51が引退しました。私は高校生でしたが、まだ蒸機に対する熱い余韻が冷めやらぬままで、友達の誘いもあって2人で8日間に及ぶ初めて九州の蒸気機関車撮影に出かけました。
一週間も家を空けるのは初めてでしたが、2人ならいいだろうということで親の同意も得てのことでした。

【1日目】
名古屋―(急行「桜島・高千穂」▲)―折尾

EF58が牽く旧形客車。ナハフ11のボックス席で一夜を過ごしました。

【2日目】
筑豊本線で撮影後、後藤寺△

筑豊本線中間駅を発車する香月線から来た124列車
機関車は88622(若)。ナンバーが何か不自然と思ったらペンキ書きでした。
画像


【3日目】
田川線で撮影後、門司港―(急行みやざき▲)―高鍋

田川線 崎山〜油須原間の1493列車
機関車は39682(行)。石炭車が連なる筑豊らしい列車だと思いました。
画像


【4日目】
日豊本線で撮影後、宮崎△

日豊本線 南宮崎〜宮崎間の大淀川を行くC61が牽引する536列車
もう少しまともな写真を撮ればいいのに、雑誌に紹介されている場所に来れただけで満足していました。
画像


【5日目】
日南線・志布志線で撮影後、京町△

今はなき志布志線。安楽駅を通過する志布志行C58260(志)が牽く貨物1396列車
国鉄時代に廃止されてバスに転換された線区にはほとんど乗れていない私にとっては、このとき志布志線に乗っておいてよかったと思います。
画像
画像


【6日目】
吉都線、肥薩線で撮影後、西鹿児島―(急行かいもん3号▲)―熊本

吉都線 京町〜加久藤間の622列車。C57 124 (吉)
今の吉都線の時刻表を見ても列車本数そのものは大して変わらないですが、役者は全く違います。機関車はC55、C57、D51。客車はオハユニ付きで6両があったと思えば、気動車にはキハ20単行列車もありました。
画像


【7日目】
高森線で撮影後、熊本―(急行乗り継ぎ▲)―下関

高森線のことは以前に【697】鉄旅1973年8月「高森線のC12」で書きました。画像もその使いまわしです。混126列車で機関車はC12241(熊)ですが、この日は貨車が連結されていませんでした。
大好きなC12が牽く列車に乗れたのは大きな収穫でした。この路線が地震の甚大な被害に巻き込まれることになろうとは考えもしませんでした。完全復旧と将来の観光鉄道として活用されますよう祈るばかりです。
画像


【8日目】
山陰本線で撮影 小串でD51803(長)
D51とDF50が走っていました。夏の暑い日、2日間連続の一部夜行+駅寝で、そうとうくたばっていたので注意力散漫で力が入りませんでした。
画像

この後、下関―(特急しおじ53号)―岡山―(ひかり96号)―名古屋

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以上、行程の1日ごとに1枚ずつ蒸機の画像をピックアップしました。蒸機以外にもっと撮影しておけばよかったのですが、持っていったフィルムは1日1本程度の割でしたから、電車列車や気動車列車の画像やスナップ的な記録はは少ないです。けれど、そういう何気ない普通にあった風景そのものこそ、今になってみると残しておきたかったと思うものです。そして、この旅の行程と一連の画像を見ると、高校生のころの自分に会いに行ったような気もします。

下の画像は直方機関区構内に架かる跨線橋上から撮影したものですが、ヘルメットもなしで、シャツ1枚の旗振り氏。いかにも筑豊の人らしいなあ…バリバリの国労or動労組合員だろうと思うのは、変な先入観でしょうか。
画像


そして日豊本線の田野駅を発車していくC55のキャブの機関助士氏。目が合いました。
画像
右腕には組合の赤い腕章。 「団結!DL化による首切り反対!! 国労○○機関区分会青年部」などと書いてあったのかな???

そのとき、世間知らずの高校生はこういうことに何も感じませんでしたが、今更ながら「俺たちが汽車を動かしているのだ!」という鉄道職人魂と、美しさをこの人たちに感じます。 
その後、撮影した高校生は国鉄に就職しました。3年後の夏には、汚い濃紺の作業服を着て、ズック靴を履き、軍手の掌にはしっかり手鉤が握られ、鉄格子のような保護棒のついた灼熱地獄の荷物車の中で、何百もの手小荷物と格闘していました。その姿はお世辞にも格好いいと言えず、囚人と間違われてもおかしくない仕事でしたが、国鉄で過ごした11年は良くも悪くも、今になってみれば、ほかの誰もが認めることがなくても自分だけの大きな無形財産だと思うのです。この方々はあの昭和62年に、どんな進路を選ぼうとしていたのか。そして今は何しておられるのか? できればこの人たちに会ってみたいものです。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 20
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!)
面白い

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(18件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。
しなの7号様の昭和48年の九州旅行、小生の立ち回り先?と一致しておりまして大変懐かしく拝見しました。

プレートが盗難にあったらしい若松区の88622号、室木線で見ました。
http://lbxnydr.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/8-721f.html
油須原、大淀川、安楽、京町、高森・・・ひょっとして何処かでお会いしていたかも?と思うほどで、当方も小学生の夏休み気分です。
参考文献の雑誌も多分同じですね。
ありがとうございました。

3RT生
2017/08/07 15:47
3RT生様 こんにちは。
詳細な観察と、記録もきちんと取り保存されておられるのはさすがですね。驚きました。88622のナンバープレートが盗難されていたことは後日雑誌で知りました。遠賀川にはこの年の冬休みに行きましたが、室木線に乗ることはできませんでした。九州のメジャーな撮影地を巡ると誰しも似たような行程になるのでしょうね。情報源はSLダイヤ情報しかなく、このとき持って行ったのでボロボロになった状態で、今も手元にあります。
安楽駅の入場券の日付でそれぞれの撮影地へ行った日は想像していただけるかと思います。と、いうことで、貴殿がアップされている室木へ行かれたときの乗車券の日付を拝見するに、私のほうが2週間くらい先に来たのだろうと想像します。
ちなみに44年前の今日8月7日のこのコメントを書いている頃、私はは吉松機関区の見学をしていたんじゃないかと思われます。このあと肥薩線を南下し、途中下車した隼人駅の駅員氏に鹿児島弁で話しかけられましたが、2回聞き直しても意味が分からなかった思い出があります。
しなの7号
2017/08/07 17:27
ごぶさたでした。いや懐かしい・・
昭和48年、中学2年生の夏休みに同級生2人と、鹿児島県串木野市(現・いちき串木野市)の親戚宅へ遊びに行きました。行きは憧れの20系寝台特急「あかつき」、帰りは急行「高千穂」でした。蒸機もたくさん居ましたね。ハチロクにキューロク、C11にC12、C55、C57、C61。C56にC58。もちろんD51も・・あの宮崎機関区の情景は生涯忘れないでしょうね。そして4年後、ぼくは鉄道車両メーカーに就職。あと2年で定年です。
つだ・なおき
2017/08/07 19:53
残暑お見舞い申し上げます。(この時点で、台風5号の無事通過を願っています)
70年代半ばの九州を感じさせて頂きました。私は、小5の頃で、「子ども図鑑」で見る鉄道に物足りなさを感じつつも、どうしていいかわからなくて悶々としていた時期です。
この記事を拝読した後、昭和47年の復刻時刻表で、追体験してみました。昭和を懐かしんでいますが、まもなく、平成を懐かしむ時代になりそうです。
門ハイ
2017/08/07 19:54
つだ・なおき様 こんばんは。
うわ! 20系とはいいですね。私はついに公私ともに乗る機会がなく、停車中に車内見学しただけに終わりました。しかし、田舎住まいで見ることさえできなかったなかった20系に、この旅では何度か出会えました。帰路が桜島でなく高千穂というのもマニアックですね。
メーカーさんの立場だと送り出した車両には思い入れがあると思います。転職後、私は鉄道でなくてもいいから、かかわった仕事がモノとなって残る職種がしたかったと思いますが、あいにく技術系でもなく、これまでやった仕事で目に見える形で残っているものがありません(・ω・)
しなの7号
2017/08/07 20:56
門ハイ様 こんばんは。
東海地方は蒸し暑い日が続きますが、台風接近中で強い雨が降ったりピタリと止んだり、風は今のところ大したことはありません。

昭和48年、西九州のほうはDL化が完了していて、もしC11の「さくら」がまだあったのなら行ったのでしょうが、SLダイヤ情報によれば、唐津線の9600が残っていただけでしたので出かけておりません。けれど、このころの時刻表を眺めると、全国の主要線区には夜行急行があって、自由席を宿代わりに行程を組めたことがわかりますし、各線とも読み甲斐がありますね。
残暑厳しき折ですが、平成時代の鉄道の記録頑張ってください。 (従来どおり「会員用リンク付コメント」からのご投稿で構いません)
しなの7号
2017/08/07 20:57
しなの7号様、こんばんは。

たびたびすみません。

昭和48年の8月7日、小生も実は吉松辺りにおりまして、当時のメモによりますと、

・・・栗野(433D)吉松14:07/14:10 (836レ) 人吉 (混843レ) 吉松17:38/19:01 (835D)・・・

となっておりまして、相当ニアミスですね。
吉松機関区は8月4日に見学し、京町には8月8日に泊まっていました。
3RT生
2017/08/08 00:00
3RT生様 こんにちは。
当時の時刻表がなく残っているのは、何月号の時刻表から書き写したか不明な行程メモだけなので、時刻に怪しいところがありますが、その日、
・・・西小林(625D)吉松13:55/14:04 (831レ)
栗野(630D)吉松16:08/19:01(835D)隼人・・・
と、移動しています。
まず、 14時過ぎに貴殿と吉松ですれ違い、夕方、もう一度吉松に同じ時間帯に滞在しただけでなく、19:01の同じ肥薩線下り835Dに乗っていますね。これはびっくり。あいにくその835Dの記憶はなく、この日の午後、栗野で山野線から来るC56貨物を撮影後に帽子を忘れてきてしまったので意気消沈していました(´;ω;`)
しなの7号
2017/08/08 08:27
こんばんは。
申し訳ありません、時刻はしなの7号様のが合っていました。
大変失礼しました。
小学生の私は、一体いつの時刻表で旅行していたのでしょうか?(汗)

機関区などの現場で、お世話になった(ご迷惑をお掛けした・・)方々の写真をお送りするため、お名前を伺いますと名刺をくださることがよくありました。なかには、

「国鉄動力車労働組合鹿地本○○支部 副委員長」

(うぁー、偉い人だったんだ)

小学生の手紙にも丁寧な返信をいただき、以来年賀状の交換もさせてもらっていました。
数年前には再会を果たすことができ、当時のこともよく覚えておられ感激したものです。



3RT生
2017/08/09 00:00
しなの7号様こんばんは
筑豊は私が生まれたところでして
伊田駅近くの高台の炭住(三坑)でした
住宅の名前がいかにも産炭地ですね
中小の炭鉱はほとんど閉山していましたが三井田川坑はまだ頑張っていました
香春岳一ノ岳もまだ高かったですね
伊田や後藤寺機関区はよく連れていってもらった記憶があります
池尻駅の専用線の入れ換えも近所のボタ山に登り見ていました
中学生になって久々にボタ山に行ったら雨による侵食で低くなっていて愕然としました
田川線のお写真は超有名撮影地ですね
重量列車は前重連+後補機とかありました
志布志線は国鉄時代に乗りましたがあくびが出るような線区で眠気と戦いながらの乗車でまったく覚えていません
乗ったのはキハ26 600番台だったと記憶しています
600番台でもオールロングシートではなく
中央部分の転換シートが残されているタイプでした
桜島近辺の観光地用でクロスシートが残されていたそうです

機関助士の腕章
機関士とか機関助士って書いてある職用の腕章という可能性は?
ヒデヨシ
2017/08/09 01:19
3RT生様 こんにちは。
お調べいただき恐縮です。記憶では相方が最新の時刻表を買い、私は買いませんでしたので、メモの時刻について調べようがありませんでした。(ふだんは、父親が持ってきてくれる月遅れの時刻表を使いましたが、すべて廃棄処分済)
この旅での機関区見学は志布志と吉松だけでした。そういえば、このころSLマニアのマナーが問題になり、立入禁止となる機関区が各地で続出した時期でした。組合の役員さんは面倒見の良い人が多かったです。私は国鉄時代に地上職はなく乗務員をしていましたので名刺を持つことはなかったですが、
【356】 思い出の乗務列車18:上り大垣夜行340M 〜車掌のサイン〜
http://shinano7gou.at.webry.info/201303/article_3.html
で、サインをした方など、今はどうされているのかなあと思ったりはします。
それにしてもそのころ関わった方に再会できるとは、ほんとうに鉄道趣味冥利に尽きるといってよろしいかと思います。長くやっていればこそですね。
しなの7号
2017/08/09 11:19
ヒデヨシ様 こんにちは。
九州は当時の高校生にしてみれば、珍しいものばかりで、特に九州入り初日と2日目の印象は強く残っています。機関車の装備の違い、石炭車群、高さが低い駅ホーム、異様な山容の香春岳にボタ山。後藤寺にはその年の冬に再訪し、同じ駅前旅館に宿泊しています。
田川線の前重連+後補機のセメント列車も、その夏に撮影しましたが、線路際の有名撮影地には夏草が伸びてしまい、夏ゆえに煙はスカスカで逆光と、まともな写真になりませんでした。録音もしましたがブラストは安全弁の音にかき消され、こちらも失敗作になりました。
私が志布志線で乗った2本の列車はどちらもキハ17でした( ˘•ω•˘ ) 中央西線ではキハ17といえども、当時は座席背もたれがモケット貼りに改装されていたのに、ここではまだビニール製の背もたれのままでした。
機関助士の腕章を私は見たことがありませんが、動力車乗務員である機関士や運転士の腕章が運規で「白地に黒文字」と規定されていますから、機関助士の赤腕章は存在しないと私は思っています…
しなの7号
2017/08/09 11:20
しなの7号様、こんにちは。
中学卒業直後に4泊5日車中泊の四国乗り鉄に行ったことがありますが、我が家からは中京-南九州ほどの距離ではないのか、一人旅の認可が出ました。
現役機ハチロクのプレートが無いのは心許ないですね。他にもこのようなことがなければいいのですが。
拝見させていただくにあたり、九州の天候は良かったのでしょうか、というよりさぞかし暑かったでしょうね。そのようななかでお撮りになった写真、素晴らしい構図です。
直方の陸橋からのD51、倉庫群といいますか、駐車場の中を強力機が静々走るようで面白いですね。
帰路のしおじ号は冷房が効いて別天地だったのでは? でも就職されてからは灼熱地獄で、しかもクイチまで.....。これも鉄道職人魂と、美しさだと思います。
NAO
2017/08/09 13:31
NAO様 こんにちは。
中学生のころまでは地元に蒸機があったので、泊りがけで出かけたいなどと思ったことはありませんでした。この旅は中央西線から蒸機が消えた直後のことでした。行程中、一時的な雷雨はあったものの台風もなく朝から暑い日の連続でした。通信手段は公衆電話の一方通行ですし、送り出す親も心配だったのではないかと思いますが、案外そうでもなく鉄道旅行なら心配ないと思ったのか、母は今その頃の話は何もしません。
稼働中の蒸機がナンバープレートなしで走っているのはこの時初めて見ました。直方のD51は跨線橋上から機関区内を撮影したものです。貨車を牽いていることから、石炭や砂を供給するための材料線だと思われます。
帰路のしおじ53号は14系客車で、最後のお楽しみということで往路に千種駅に立ち寄って特急券を買っておきました。下関を昼過ぎに出て岡山で新幹線に乗り継いで名古屋に21時過ぎの到着でした。新幹線博多開業は、この1年半先で、このころの九州は遠いところでした。そして入社した国鉄でも、まだ宅急便が全国展開されていないころでしたから、いろんな面で今の常識とは違っています。
しなの7号
2017/08/09 15:13
しなの7号様、こんばんは。
昭和43年生まれで蒸気時代に間に合わなかった(ぼんやりした記憶しかない)世代の私としては諸先輩方の蒸気追っかけ紀行を読むと羨ましくて仕方ありません。北九州は両親の故郷で子供の頃は毎年帰省していたので懐かしいです。ディーゼルに代わってもしばらくは若松機関区や旧駅舎、石炭積み出し桟橋は残っていて往年の姿を残していましたが、現在はすっかり様変わりしてしまっています。
しなの7号様の写真の腕前もすごいですね。私の中・高生時代の写真などとても人様に見せられません。写真部長だったのですが…。
特にC5557号機のキャブを流し撮りでアップにした写真、惹きつけられてしまいました。私だったら門デフと細身のボイラーが魅力的なこの号機の記録写真を撮ろうとするはずで、乗務員まで気持ちが回らなかったと思いますが、この誇り高き乗務員の姿、同業者として考えさせられてしまいました。携帯が普及してよく写真を撮られるようになりましたが、疲れてやる気のない私の姿が写ってないか気になります。もちろん不平不満はあっても誇りは失ってないつもりですが。
門鉄局
2017/08/28 17:24
門鉄局様 こんばんは。
生を受けた時期があと少し早かったらという思いは、たぶん誰にでもあり、私も記憶にある未電化時代の地元中央西線の日常を画像で遺しておけたならと思わなくはないですが、今はそれほど考えなくなりました。その時代時代ならではの貴重な体験をして見てきているはずですから。門鉄局様も次の世代の方々から、同じように思われていることは間違いないことですね。

この時代の画像を見るにつけ、どうしてこんな撮り方をしたものかと、その行動と判断は疑問だらけで情けなくなりますが、写真は事実を語っていますので、稚拙な技術に対しては、トリミングや傾き補正等々ごまかしながらアップしたまでです(*^^)
このC55の画像は田野発車のときで、まず三脚に固定した一眼に望遠でモノクロを1枚。そのあと貴重なカラーを装填したコンパクトカメラで1枚、そのあとにもう1枚、目の前をキャブが通り過ぎる際に、たぶんナンバーを写しこむ意図?で視線を感じつつ撮影したコマで、少なくとも人物を中心に撮影したわけではありません。ネガのまま長く眠っていた画像ですが、鉄道員を経験して年を経て改めて画像を見ると、自らの目の付けどころもかわってくるものだなあと思いました。

今、私の乗務中の失態画像がアップされても処分されないでしょうからまあいいですし、それよりも自らの失態を書き込んだりしているわけなのですが、自分の知らないところでそういうことが公開されていないとは限らないので気にはなります。現実に「不届きな国鉄職員!」とばかりにリンクで記事を引用されていたりします(^^ゞ
しなの7号
2017/08/28 20:21
しなの7号様、こんにちは。
C5557は小生の一番好きな機関車で、ご紹介の田野の流し撮りのシーンは私も惚れ惚れします。こんな流麗な写真は手許にありません。
当時吉松区のC55/C57共通運用の仕業が一往復宮崎まであり、このシーンは上りの貨物ではないかと思いますが、C55が入っていたら大喜びして午後の1527列車を待ったことでした。←某雑誌そのままですね(汗)

吉松の乗務員さんとの思い出話ですが、昼休みに機関区から湧水の素麺流しに連れて行ってもらったのは、その夏でした。機関士さん?の運転するクルマに乗り、駅前の通りで若い女性を見かけると・・・
“ピー ピー ピー”
機関助士さんたちの指笛の嵐でビックリした小学生でした。

ソーメン流しは今もありますが、吉松はすっかり寂れてしまい残念に思います。鉄道の町だったのだと思います。町おこしに転車台の発掘をしたことがありましたが、もう7年前のことでした。

3RT生
2017/08/29 12:02
3RT生様 こんにちは。
そう、このとき吉松区のC55とC57は共通運用で、C55に出会えるかどうかは運次第でしたね。
田野のC55貨物列車の撮影日は、本文【4日目】で、お見込みのとおり午後の上り1590列車です。私はその日の夕方、大淀川に行って宮崎で折り返すC55牽引の1527列車を撮影しています。本文に掲載したC61牽引の536列車も逃したくなくて、たしかダイヤに乱れがあって、下りC55と上りC61どちらが先に来るかわからなかったので、国道の橋から上下列車とも狙える中途半端な位置で構えていたように思います。【6日目】の京町でも、朝の一番列車620列車でC5557に出会えました。
私が大切にしている長谷川宗男著「動輪の響き」に、「汽笛で若い女性を振り向かせる」とあるのですが、お話からそのことを思い出しました。吉松には一昨年再訪しましたが、当時の駅前の様子を思い出せず、初めて来た街のような感じでした。転車台の発掘をしたことは存じませんでした。
【651】あの場所は今…2015年(1)吉松
http://shinano7gou.at.webry.info/201512/article_5.html
しなの7号
2017/08/29 17:18

コメントする help

ニックネーム
本 文
【820】 撮り鉄12か月…1973年8月「九州一周蒸機巡り」+今思うこと 昭和の鉄道員ブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる