昭和の鉄道員ブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 【877】 幼児期の暮らしと鉄道の記憶(前篇)

<<   作成日時 : 2018/05/07 06:30   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 19 / トラックバック 0 / コメント 16

中央本線美乃坂本駅。特急停車駅である中津川と恵那に挟まれた小さな駅が、永く私と鉄道との接点だった。
画像
(画像は近年撮影)
そもそも私の両親は瑞浪市内に住んでいたが、私が生まれると共同の水場でオムツを洗うことができなかったという理由で父の実家があった中津川市街地に転居したという。上水道下水道ともなかった田舎では、オムツは川で洗濯していたわけで、半世紀以上前のこととはいっても、都会育ちの人にはわからないことだと思う。その中津川からこの美乃坂本駅に近い借家に引っ越したのが、たぶん昭和35年ごろだった。それから昭和62年までの約27年間に2度転居をしているが、その間ずっと最寄り駅は美乃坂本であった。昭和62年とは国鉄分割民営化と同時に私が国鉄を退職して転職に伴って愛知県内に転居した年で、つまり幼少時から国鉄を退職するまでを美乃坂本駅の利用者として生活していたことになる。

私は国鉄に就職してから自動車運転免許を取得したが、それまで我が家での交通用具は原付バイクと自転車であった。
画像

さすがに昭和50年ころになると、町内で自家用車がない家庭はわずかになっていたが、昭和40年代前半ごろまでは自家用車がない家は珍しくなかったから、このような小さな駅でも人が集まったし、駅前には小規模ながらも商店街があって、別に汽車に乗る目的でなくても日常生活に必要なものは徒歩や自転車で行けば手に入ったから、駅周辺は経済活動の中心でもあった。
画像
(画像は近年撮影)
しかし隣町の中津川や恵那(昭和38年まで駅名は「大井」)に行けば、比較にならない大きな商店街やスーパーマーケットがあったし、美乃坂本駅周辺にはなかった総合病院や耳鼻咽喉科・眼科・小児科といった専門科目を診る医院があったので、汽車かバスに乗って隣町へ出かけることがよくあった。そのころが鉄道やバスの全盛期だったように思うし、地方における公共交通機関が今より人々の日常生活に密着した存在であり得た時代だったと思う。
画像

私の父は国鉄職員で、勤務先は中津川であった。父の実家は中津川市街地にあって、父方の祖父もまた国鉄職員であったが、私が4歳くらいのときに亡くなり、それまでも寝たきりだったので話をした記憶がない。祖父は機関区の管理職だったということで、稲沢・米原・中津川の機関区を転々とし、そのたびに一家は転居を余儀なくされ、父も転校を繰り返したという。
父の実家があった中津川は古くから中山道の宿場町として発展したところだったが、中央本線が開通すると、駅に付随して機関区・客貨車区・保線区をはじめ、上の画像のように鉄道診療所など鉄道の現業機関が集まっていたから国鉄職員は多く、鉄道に関係する仕事で生計を立てる人々は多かったと思われる。煤けた感じはしていたが活気がある街だったという感想を持つのは、ずっと後になってのことであって、中津川の市街地に住んでいたころの記憶はまったくない。乳母車に乗せられて銭湯へ行った帰りには、機関区が見える線路端で汽車を見たと母は言うけれど、その場所は私が高校生のころ、帰り道にいつも立寄った場所でもあるので、そのときの記憶が上書き保存されてしまったようだ。
そこがこの場所。(画像は近年撮影)
画像

下は中学生時代に撮影したほぼ同じ場所。
画像

その場所から本線を挟んで中津川機関区の検修庫が建っていた。
画像
今ここは住宅用地になっている。
その後、半世紀以上経っても私が鉄道に愛着を持ち続けているのは、幼児期の環境が影響しているのかもしれないし、母は私が生まれる直前の月まで、当時住んでいた瑞浪から中央西線で大曽根までSL列車、そこからさらに名古屋市電に乗って2時間かけて通勤していたというから、母に言わせると胎教の結果らしい。
記憶がたどれるのは、中津川から美乃坂本駅にほど近い借家に引っ越した昭和35年ごろからになる。その家は、厩だか牛舎だかを改築した家で、上下水道はなく、庭に掘られた井戸から竹棒の先につけた小さなバケツで水を汲んで生活用水としていた。風呂はなく、目の前には小川が流れていたので、洗濯は母がその川で手洗いした。今から思うと信じがたい環境であったが、一面の田園風景が広がって、そのはるかかなたには、日本百名山のひとつである恵那山が聳え、自然環境には申し分がないところであった。自然環境より良かったのは鉄道の姿が庭先からほんの数十メートル先に見えたことで、毎日、美乃坂本駅を発着する列車を眺めることができた。
画像

このころの中央西線は旅客・貨物とも、主にD51が牽いていた時代で、貨物列車の最後尾には、たいてい補機が連結されていた。上り列車が田園風景の向こう1kmくらい先から駅に到着するまでを見通すことができたので列車の全容がわかったし、下りの場合は、発車の汽笛のあと、続いて遠くからもう一つ汽笛が聞こえると家の中にいても貨物列車の発車だとわかった。家から外に出れば、数十メートル先には煙を噴き上げる本務機。ゆっくり本務機が動き出し白いドレンと力強いブラスト。その後に続々と貨車が続き徐々に加速していく。風向きによっては見ている私も煙に巻かれた。本務機が遠ざかっていき二軸貨車中心のダンダンというジョイント音が続く中、家々の屋根の向こうから後補機の煙とブラストが近づいてきてジョイント音がかき消され、後補機D51の炭水車の後姿が遠ざかって二条の煙が中津川方面に向かっていく光景が日常生活のなかにあった。
近年撮影した同じ場所。
画像

少し線路に近付くと保線区の詰所があった。その跡地がここ。ここから先は絶対に行ってはいけないと両親に言われていた。
画像

詰所では、ときどき保線区員と思しき人たちが外に出て来て、相対する2人で交互に曳く大きな鋸で廃枕木を切る規則正しい音が響いていた。廃枕木は廃棄せずに暖房用の薪になったようで、のどかな鉄道風景がそこにあった。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 19
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス ナイス ナイス
面白い 面白い
驚いた
ガッツ(がんばれ!)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(16件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。中津川は通り過ぎただけで記憶にはありませんが、鉄道の町というのが所々にありましたね。
鉄道病院や診療所も各地にあったようで、福利厚生が充実しているのも国鉄の良さだったのかもしれませんね。
大宮や長岡にも物資部ストアーというのがありました。
中津川にもあったかと思いますので、何か想い出があれば教えてください。
うさお
2018/05/07 21:35
しなの7号様 こんばんは。
なるほど、貴兄の鉄道好きは胎教+幼少時の英才教育のたまものというわけですね。
私もまだ赤ん坊だったころ、理髪店に行くと泣きじゃくっていたそうですが、線路沿いにあるその店のおじさんはわざわざ店の外に出て向日町の電車を見ながら散髪してくださっていたようで、そうするとぴたりと泣きやんでいたそうです。そのお店は今もありますが、全く記憶がありません。
その後、父の仕事で八日市に転居しました。3歳児には近江鉄道の踏切を渡るのがあまりにも長かったという記憶がありましたが、近年そこを訪れてみましたら、ひょいっとまたげるくらいのあまりにも小さなものだったことにたいそう驚きました。(自分が巨大になりすぎたのかもしれませんが)
やくも3号
2018/05/07 22:27
色々なご不便はあったと存じますが、のどかな自然と身近に鉄道に接することができた環境を羨ましく拝見しました。小生は蒸機の現役時代を経験しておりませんので、尚更のことです。

小学4年の時、西宮の東海道線近くに住む同学年の子と文通をしていました。国鉄への思いを共有していたのです。その子が「夜寝る前に機関車の汽笛を聞くことがあります。その時は、ものすごく気持ちがいいです」とハガキに書いてきたことがありました。あの頃のことを覚えているかな、とふと思いました。
なはっ子
2018/05/07 23:43
うさお様 こんにちは。
鉄道病院や診療所、その存在意義は国鉄には危険な職種が多かったとも言えると思います。稲沢鉄道寮にいたころは風邪をひくと無料で診てもらえる診療所へ行きました。診療所の医師も国鉄職員なのですから、「安月給の国鉄におる医者は大したことないが、薬は一流で、それを腹ふくれるくらいたくさんよこす。」と言う人もいました。
物資部は中津川にもあり、DPEを扱っていたので高校生のころにはいつも下校途中に機関区や北恵那鉄道の駅の様子を見てから、撮影したフィルムを物資部に持ち込んでいました。フィルムは国鉄物資部指定のカメラ店へ送られるので、出来上がりまでの日数が市中のDPE店より1〜2日余計にかかりましたが、物資部を通すと安かったです。店内ではいつもCBCラジオの番組を流していました。
しなの7号
2018/05/08 15:10
やくも3号様
胎教はともかく、英才教育ではないものの、「汽車」との関わりは深かったと思います。子供にとって、あんな大きなものが動くのを見れば不思議に思うし存在感の大きさはいかばかりか。大人になってそういったものに心を奪われたことを忘れて無感動になり、今の日常を当然なこととして暮らしている私は、子供のころに戻って今を見つめなおさねばと思うことがあります。踏切の長さの感覚にも通じますが、煙を出さず高速で待つほどもなく乗れる鉄道は、感覚的な距離感を確実に縮めてくれたことに対し、感謝しなければなりません。水道もない家に暮らせば、蛇口をひねると水どころかお湯まで出る今の生活についても同じで、当然のことが当然でなかったあのころを忘れてはいけないと思うのです。
しなの7号
2018/05/08 15:11
なはっ子様 こんにちは。
10年ひと昔と申しますが、自分で思うに5年遅く生まれたら、幼少時の鉄道の記憶と日ごろの生活水準は大きく変わっていたと思いますし、時期的に言っても国鉄にも入れなかった可能性は高いですから、自分の人生がまったく違ったものになっていたでしょう。
都会の子が見る東海道本線と、田舎者が見るローカル線。両者の国鉄の印象は違ってくるでしょう。都会の子はSLブームでもなければ田舎の鉄道を見たいと思うことは少ないと思いますが、田舎の子は東海道本線の電車を見たいと思いますがどうでしょう。
実家でも汽笛が聞こえてきました。長くなるのでそのことは、少し後に記事に書きますが、だいたい上下1時間に1本程度の列車密度ですと、汽笛も時計代わりになりました。
しなの7号
2018/05/08 15:11
しなの7号様こんばんは。中津川も鉄道の町だったのですね。中央線だと塩尻辺りが次の要衝だったのかなぁとも考えてしまいました。話はそれますが、静岡駅近くの新幹線沿いに東海鉄道印刷という会社があり、そこは昔、静岡局報やらスタフやらを印刷していた会社の流れなのかなと横を通るたびに思います。
うさお
2018/05/08 20:17
うさお様
高校生だったころの学校の名簿を見ますと、昔のことですから保護者の職業がちゃんと載っていまして、ほぼすべてのクラスに国鉄職員の親を持つ生徒が複数人いました。そのくらい中津川周辺には国鉄職員が多かったです。
名古屋鉄道管理局に採用された者としては、静局のことは存じませんなあ。もちろんJRのことも。 それにしてもそう思わせる商号ですね。
しなの7号
2018/05/08 20:31
こんばんは。しなの7号さんと同級生である私にしましても、知り合ったのが高校生になってからですので、それ以前の詳細につきましては、全く知りません。
特に、昭和35年頃に移り住んだ美乃坂本駅近くの借家というのは、伺った記憶が無いような気がします。
それはともかくも、世の中の移り変わりを感じながらの楽しい記事として読ませていただいております。続編が楽しみです。
北恵那デ2
2018/05/08 20:53
北恵那デ2様 こんばんは。
私も、就学前のことをお話しした記憶はありません。中津川市街地にお住まいの方より確実に不便な生活だったと思いますし、駅構内や機関区にたむろする機関車が見られるような環境にはなかったわけですが、しいて鉄道好きな子供にとって美乃坂本でよかったことと言えば、買い物とか通院で中津川や大井(恵那)まで出かけなければならないことが多く、鉄道やバスに「乗る」機会が多くなったことでしょうか。

顧みるに、私どもが知り合ったころ、つまり中津川にD51の姿があった時代までが日本の高度成長期だったわけで、幼少時に水道もテレビもなかった時代から日々の生活は変化を続けましたし、中央西線も単線非電化から複線電化に発展した時期に一致します。自分自身も含め多くの人が今の生活に慣れすぎてしまって忘れがちになるのは、国鉄があったころの時代背景ではないでしょうか。
あまり期待されると困りますが、子供のころの鉄道との関わりの話はしばらく続けるつもりです。なにぶんにも半世紀前の話になりますので、記憶違い等お気づきになりましたらご指摘くださいますようお願い申し上げます。
しなの7号
2018/05/08 21:56
こんばんは。
補機付きの貨物列車、保線区詰所の様子など、国鉄が輝いていた昭和の光景が目に浮かびます。
小生の乳〜幼児期、鉄道との接点は母親に連れられて行ったヤードの風景で、結婚して見知らぬ街に来た母親にとっては、故郷につながる線路を見て望郷の念を募らせることもあったのでしょう。
入換作業を見るのも好きだったようで、最も鮮明に覚えているのは宇高連絡船への貨車搭載作業です。以前は船尾の甲板から船腹に積み込まれる貨車を眺めることができました。可動橋を進んでくる2軸車のジョイント音、連結の時次々と当たる自連の音、可動橋を巻き上げるモーターの唸りが怖かったこと等々・・新造船になってこの光景が見えなくなり、がっかりしたものです。
伊予丸型が就航したのは昭和41年ですので、幼稚園に上る前のことになりますね。
小学生時代の記事も楽しみにしております。
3RT生
2018/05/10 00:44
しなの7号様
ご無沙汰しております。私は国鉄末期の15年位しか記憶に有りません。しなの7号様の現役時代の東海道本線を行来する貨物や旅客列車は母方の実家に行った時に線路沿いや駅で眺めていました。
私の実家は駅から3qも離れていたので、日常的にはあまり縁が無く、鉄道と言えば新幹線の方が身近に感じました。新幹線は学区内を東西に横切り、小中高と学校から眺められましたから、100系登場やこだまや一部ひかりの12両編成化の変遷を授業中ぼんやりと眺めては先生から教科書で頭を叩かれた思い出が有ります。
どなたかが東海鉄道印刷のお話をされていましたが、おっしゃっていた通りで今も継続して部内の印刷を手掛けているそうです。国鉄時代の指定券申込み用紙の右下に“東鉄印納 ”と印字されていましたので、そういった部内や部外向けの印刷を自前でやっていたのですね。国の機関は自前で補える様にしてどうしても出来ない事は部外に委託するといったスタイルが昔は普通だったと記憶しております。国鉄時代に駅業務も一部委託されていた覚えが有ります。手荷物関係は中部鉄道用品と書かれた小豆色のトラックで拠点駅まで運ばれていたり、駅員さんは退職間際の方かな日本交通観光と書かれた名札をされていた覚えが有ります。長々とすいませんでした。
111TC-112MC-113TMC
2018/05/10 12:40
3RT生様 こんにちは。
航空機や船舶は幼少時にはまったく縁のない乗り物だっただけでなく、地に足が付かない不安定さを感じて体質的にも受け入れられませんでした。おのずとそれらを避けたことで、航空機やフェリーを許容し利用するようになったのは40歳ころからなので、子供のころに鉄道連絡船を見たことも乗船したこともなく、初めて四国や北海道に上陸したのは連絡船が廃止されてからでした。そんなわけで、今更ながら悔やまれる結果になっています。
それに私は国鉄就職直後の2年半は四国各線から宇高連絡船を介して汐留まで直通する荷物車(東海道本線 荷36列車)に東海道本線内で日常的に乗務していたのに、連絡船で航送される貨車搭載作業を見たことさえなかったわけで、そういう連絡船のご記憶は輸送システム上の重要なポイントでの作業だけに貴重だと思いました。
貨車の入換作業のことは、さすがによく覚えているだけでなく、実務でもやりましたので、大人になってからの記憶とともに忘れることはないでしょう。昨日も某鉄道展示施設へ行く機会がありましたので、保存車の自動連結器や空気ホースに触れ操作して昔日の記憶を呼び起こしてまいりました。
しなの7号
2018/05/11 12:34
111TC-112MC-113TMC様 こんにちは。
学校から鉄道が見えたのは小学校と高校で、そのことは、
【114】 中央西線を走った車両1:181系気動車(1)
http://shinano7gou.at.webry.info/201012/article_9.html
【120】 中央西線を走った車両5 :181系気動車(5)
http://shinano7gou.at.webry.info/201012/article_16.html
で、少し書いています。小学校と高校どちらとも、廊下の窓から線路が見やすく、授業中座った状態では線路が見えませんでしたが、小学校のほうは、教室の窓から身を乗り出すようにすれば、遠くにその先の線路が見えました。授業中に列車の走行音は聞こえるので、気になることがありましたし、時刻もわかりました。

印刷会社についてのご教示ありがとうございました。私の収集物のうち国鉄名古屋鉄道管理局で使用された某用紙の右下に小さく印刷された納入業者名?の表示を見ましたら、名鉄印刷・宝納・加藤印刷納・静鉄弘印納・静弘納・静印納と種類がありました。「静」の字は3種類ありますが、表記が違うだけで同じところなのかもしれないです。コメントでは静岡にある会社ということですから、この会社が商号変更あるいは他社と合併したものか? 

この美乃坂本駅を含む多くの駅で日本交通観光社が駅業務を受託していて、通称は「日交観」でした。また「小豆色のトラック」は私が国鉄に就職した直後あたりから荷物列車からのトラック代行輸送が進められたことで急速に増えました。この荷物輸送会社の通称は会社の頭文字をとって「マルナカ」で、作業帽や作業服には「〇に中の字」が入った社章?が入っていました。荷扱関係乗務員の先輩で定年退職後にマルナカへ再就職されるケースは多かったです。
しなの7号
2018/05/11 12:35
しなの7号様、こんばんは。
私は上下水道は当たり前に使用できる、ガスを着ければ当たり前にお湯が出る環境で育ちました。無かったのはお風呂位で、中学3年の半ば迄は銭湯に通っておりました。自宅のリフォームでお風呂が完成、何時でも入浴できる喜びを知りましたが一つ欠点が、
『湯船の中で、足が伸ばせない』
この点、銭湯ではノビノビと入れましたがね〜。

平成も30年が経過した現在、格段に便利な社会になり有り難いなとおもう事がある反面、そこまでしなくても、とおもう事もあります。時代に逆行は不可能ですが、ちょっと立ち止まってみるのも悪くはないのではないでしょうか?過剰な便利さは我々人類に跳ね返り、時として歪みを起こしてしまいますからね。個人的には、車の自動運転はヤリスギではないかと感じでおります。

私も『当たり前に便利な』土俵の上で生活してきたので偉そうに言えませんが…
はやたま速玉早玉
2018/05/14 00:39
はやたま速玉早玉様 こんにちは。
風呂は父が自前で増築しましたから、薪焚きながら小学校入学前から家にありました…というのは本日アップした後篇に書きました。銭湯が近くにはなく、鉄道かバスに乗って行かなければならないので、田舎では家風呂は不可欠だったということになりましょうか。
そんなわけで銭湯に行ったのは幼少時だけですが、国鉄在職中には汚損職場ゆえに職場や宿泊施設には風呂がありましたから、仕事が終われば、足が伸ばせる大きな浴槽にはいつも入れました。

時とともに常識は変わりゆくものですね。これは便利!と感動できるのは、それがなかったときの不便さを経験した者に限られます。おっしゃるように、今の過剰な便利さに慣らされたことに対して疑問符を付けたくなることは多く、本音を言えば頭の固い頑固親父だと若い人たちに言われるだろうなと自分で思うようになりました。自分が若いころにそう思っていた昔の頑固親父もまた、戦中戦後の不便さが当然として生きてきたからこそ、常識の基準が違い、頑固だったのだろうとようやくわかる年頃になりました。

今の時代、新幹線はあたりまえですし、街にコンビニがありすぎですね。それでも私は新幹線は必要な時にしか乗らないし、緊急時以外にコンビニで買い物をすることがほとんどありません。先月、津山に日帰りした時も、食糧飲料はすべて家から持っていきました。地酒を物色するためコンビニには入りましたが買うべきものもなかったので、その日使ったお金は、津山まなびの鉄道館の入場料300円だけでした。こういう感覚は今の人から見れば異常でしょうし、逆にそこまでしなくても…と思われることでしょう( *´艸`)
しなの7号
2018/05/14 15:48

コメントする help

ニックネーム
本 文
【877】 幼児期の暮らしと鉄道の記憶(前篇) 昭和の鉄道員ブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる