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zoom RSS 【879】 幼児期の暮らしと鉄道の記憶(後篇)

<<   作成日時 : 2018/05/14 06:10   >>

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幼いころの記憶は、ぼんやりしているものの、毎日汽車を見ていたから多少は残っている。
準急色のキハ55の列車を見たような気がする。もし、記憶が正しいとすれば、時期的には、昭和36年まで多治見機関区で受け持っていた気動車急行「しなの」だったと思う。はっきりと記憶にあるのは、キハ55に代わって登場したキハ57やキハ58だったが、美乃坂本駅には停車しない急行をよく観察することはできなかった。「明るく鮮やかな2色塗りの車体は、かっこよかった」と書くべきかもしれないが、個人的には煤けた車体だった印象がある。中央西線と篠ノ井線にはトンネルが多く、気動車自身の排気のみならず、蒸機列車がトンネル内に撒き散らし残していった煤煙のせいで薄汚れていたのではないかと思う。
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ずっとあと、小学生になってからのことになるが、急行にはキハ57とキハ58、キロ27とキハ28の2種類があることを知るが、その違いはさっぱりわからなかった。1等車キロ27は在籍車が1〜7の7両しかなく、数字の桁数が少なかったので、7が連続するキロ27 7があったことが記憶に残る。こういうことで覚えやすい特定ナンバーの車両を意識するようになる。急行列車に乗る機会などなかったが、急行形車両は普通列車にも使用される例があったので、わざわざ急行列車に乗りたいという気持ちはなかったし、いつ見ても同じ編成、同じ車体色で現れる気動車急行よりも興味をそそったのはD51が牽く客車列車と貨物列車だった。
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上の画像は、それからずっとあと、中学生のときに中津川で撮影したもの。

客車列車は、たまに中津川や恵那に行くと乗るから身近に感じたし、貨物列車は1本ごとに編成が違っていて、どんな貨車が連結されているのかが楽しみだった。前にも書いたように、たいてい貨物列車の最後部に後押し補機のD51が付いていたし、これも小学生になってからのことではあったが、上り普通客車列車で、思いがけず三重連を見たことがある。おそらく、そのうちの2両のD51は回送だったのだろうが、出発の汽笛が3つ鳴り、昼下がりの駅から出ていくのを見送った記憶は、今もはっきりと脳裏に焼き付いている。

以前、【405】父の遺品 〜貯金通帳〜 で、79円しか残高がない貯金通帳の話を書いたが、それは美乃坂本駅に近い借家に住んでいたころのことで、父の給料だけで生活していたから、我が家でいちばん生活が苦しい時期であったと思われる。家には真空管式のラジオと、そのアンプに接続させてレコードを聴けるプレーヤーがあったが、テレビも洗濯機も冷蔵庫もなく、水道も風呂もなく、銭湯は近くにはなかったから、ときどき母に連れられて中津川まで列車に乗って銭湯に行ったし、夏場は行水ですませていた。中津川市街地にあった父の実家の風呂に入らせてもらうこともあった。その当時から父の実家には白黒テレビと洗濯機があった。冷蔵庫もあったような気がする。テレビを観せてもらい夕食もごちそうになるような時間まで長居をしてしまうと、帰宅する列車が限られてくるし、バス停留所がすぐそばにあったこともあって、バスで帰ることもあったが、バスは通勤客で混雑しタバコ臭く、エンジンの点検蓋ごしに漏れるエンジンの油と床に引いた油の臭いも入り混じっていて、国道筋から離れると未舗装路が続いてよく揺れたので、家の最寄り停留所に着くころには、いつも乗り物酔いで気分が悪くなった。

母は名古屋市内で育った人で、もともと貧乏住まいではあったものの、都会暮らししか知らず、名古屋市内の会社で働いていた人だったので、田舎に嫁いだことをいつも後悔していた。薄給の国鉄職員と結婚したことを悔やんでいるというより、農家の割合が高い集落での「しきたり」と、閉鎖的な村社会になじむのに苦労したということなのだと思う。

昭和38年に、駅から1km以上離れたところに新築された市営住宅の抽選に当たり、転居した。
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画像は我が家ではないが、同型の市営住宅。2軒長屋になっていて、この画像は1世帯分。その右側に間取りが左右対称でもう1世帯があった。そういう木造平屋建て住宅が4棟あって8世帯が住んでいた。
場所は、線路からは600mくらいは離れていたので、もう家から汽車を見ることはできなかった。あきらかにそれまで住んでいた駅のそばより、さらに田舎であって、そこから数百メートル歩くと水車小屋があり、時期になるとゴットンゴットンと音を立てて稼働していた。
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上の画像は、その市営住宅内の道路から見た隣の農家。こんなところだったが、父はそこで畑を借りて家で食べる野菜を栽培していた。左下はその農家の家畜舎で、その上に少しだけ我が家の軒が写っている。
この市営住宅には風呂場はなく、各自で風呂場を増築して風呂桶と薪焚きの風呂釜を買わなければならなかった。しかしこの住宅の台所に水道があって、カランをひねるだけで水が出るようになったから、井戸水を汲み置きするためのバケツと柄杓は、とりあえず不要になった。


その水源は市営住宅共用の井戸で、そこからポンプで水を汲み上げて8戸に配水していた。増築した風呂場には配管がなく、台所の水道蛇口から長いビニールホースをつないで風呂桶に水を入れて沸かしていたから、シャワーはもちろんなかった。

このころの田舎では、兼業農家が多くなり、三ちゃん農業(主人は仕事に出て、かあちゃん・じいちゃん・ばあちゃんで農業をする)と言われた。そういう農家の奥さんは、日中は家の周りの田畑で農業をしながら、家事をしている人が多かったわけだが、市営住宅の住人は当然に非農家だったので共働きで外へ働きに出る家庭が多く、近くにあった電気関係の作業所で働く奥さんが複数いて、私の母もそこで働き始めた。しかしあいにく保育園は定員超過で私は抽選漏れとなり、入園できなかった。当時は公立幼稚園が校区内になく、その翌年、つまり私が小学校に入学した年に開園したから、私は幼稚園にも行けなかった。中津川市街地まで行けば私立幼稚園があったが、我が家にそんな経済的余裕があったとは思えない。近くに住む公務員の親を持つ兼業農家の子が、その幼稚園まで通っていたが、そんな田舎まで幼稚園バスでは送迎してくれなかったとみえて、たしか路線バスで通学していたように記憶する。そんなわけで私は小学校に入るまで団体生活を経験していない。

このころから、全国的に共働きの家庭が増えて「鍵っ子」という言葉が生まれたが、田舎では施錠する習慣がほとんどなかった。我が家では、夜間だけは施錠していたが、日中に留守になるときや、子供だけを留守番で残すときも、玄関の施錠はしても裏の掃き出し窓には施錠しなかった。そんな状態だったので、私はもちろん、ほかの子たちも首にカギをぶら下げている子は一人もいなかった。私のほかにも、市営住宅には国鉄職員の子もいて、その子は親から日中に両親とも不在のときの来客対応用のセリフを親に叩き込まれていたらしく、誰かが家に来ると「かあちゃん工場(こうば)、とうちゃん駅」と、いつも同じセリフを鼻水を垂らしながら言っていた。あのころ洟垂れ小僧はいくらでもいた。うどんが鼻の穴から出ているように見える子もいて、洟をすすると、うどんをすすっているように、うどんが鼻の穴に引っ込むのが面白かった。自分のことは記憶にないが、きっと同じだったのだろう。記憶にあるのは他人のことだけだ。




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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
今晩は。この連載記事は特に楽しく読ませていただいております。
三重連の件ですが、私は見たことがありません。ヨンサントオ以前にはまれにあったようですね。書籍「D51と中央西線」にも載っておりますが、それは下り列車であります。今回記事では上り列車とのことですので、いろいろなパターンがあったのでしょうね。後部補機付きの貨物列車の最後尾にもう1両機関車が付く変則三重連は、定期でも存在したようですけれども。
余談ですが、関西本線のDD51が所定重連の列車に必要な機関車を回送するため四重連貨物列車となったことが、最近あったそうですねえ。
ところで、鼻からうどんを垂らしたようなシーンについては小学生時代に見た記憶があります。確かに自分はそうでなかったという証明はできませんが。ほかに頬が赤い子どもも居ましたねえ。
北恵那デ2
2018/05/15 20:24
北恵那デ2様 こんにちは。
自分が三重連を見た列車は、14時台の上り名古屋行だった記憶で、43.10直前の時刻表を紐解きますと628列車ということになっています。この列車には荷物車がなくオハ・オハフだけで組成された列車でした。それより前にも三重連を1度見たように思うのですが、そちらは記憶自体が怪しいです。また、貨物列車の変則三重連を見た記憶はありません。

関西本線のDD51四重連を見た!という某知人から、証拠画像付きでメールをいただいたので、私も知りました。今後似たような状況が起こったとしても、DF200との三重連になってしまうのでしょうね。

頬が赤い子は寒冷地に多いような?… しもやけ、あかぎれも普通にありましたが、今どきは外遊びが少ないからなのか、そういう子を見かけなくなりました。今どきはベビーローションなるもので、日常的に肌をケアするんだと、孫ができて初めて知りましたわ(゚д゚)!
しなの7号
2018/05/16 12:58
しなの7号様 こんばんは。
確かに自分もハンカチちり紙を持つ習慣がないので、いまだに手を洗った後にズボンで拭いて家族によくしかられますが・・・
鼻から疑似うどんは小さいころから見たことがありません。

ということで、いまからどん兵衛(東)を食べます。
やくも3号
2018/05/16 21:19
やくも3号様 こんにちは。
私も自分では何もできない人なので、小学校入学後は出かける前に必ず母に「鼻紙ハンカチ!」と言われて登校しました。その一言がなければ持ち物検査はパスしなかったと思われます。
そのころ、うちでは白いチリ紙を使っていましたが、安物のチリ紙はネズミ色でゴワゴワザラザラでした。
うどんが見事な鼻提灯に化けたことがあって笑ったこともありますが、そういうこともなかったのでしょうね。近年は健康上の理由で、夜食やカップ麺をNGにしてます。どん兵衛は西のほうが、ほんのわずかですがカロリー塩分少なめだったような。
しなの7号
2018/05/17 08:21
しなの7号様お早うございます。
私は幼少期、国鉄とはほとんど縁がなく、父が毎号買って来てくれる鉄道ファン誌の写真の中での世界でした。ロクに文章も読めず、巻末のカツミ模型店の宣伝が憧れの的でした。
そう言えば小学生時代、同級に鼻を全然掃除しないのが居まして、耳鼻科の検診では校医さんが、検査出来ひんなあ、なんてこぼされていました。
私の実家は借地で、産まれてから独立するまで手直しすることなく、雨漏りはするわ、冬は吐く息も白く、それでも住めば都で、引っ越ししたいとは思いませんでした。ただ、今は交通至便なところに住むようになり、余計に他へ移ることはしたくなくなってしまいました。
NAO
2018/05/17 08:35
NAO様 こんにちは。
鉄道雑誌の存在を初めて知り、その日、鉄道ファン誌を手にしたのは小学3年生の終わりころです。それまでは鉄道に関する書物は絵本や図鑑だけでした。正確に言えば父が車掌試験を受験するために持っていた参考書が家にありましたが、絵や写真がない参考書など小学生には読む気にもなりません。じかに鉄道を見ていなければ鉄道趣味とは無縁だったかもしれません。

学校で耳鼻科の検診ってあったかどうか記憶にないですが、校区内には内科と外科の医院が3つあっただけで、そのすべてが校医になっていました。中学生時代に中津川市街地にある耳鼻咽喉科に長期間通うことになり、部活を長期休んで毎日放課後に列車に乗って通院するのが楽しみでした。その結果、ついに卒業まで幽霊部員になってしまいました。

冬場には台所に汲み置きした水に氷が張ることはよくありましたし、枕元に置いた湯呑のお茶が、朝起きたら凍っていたということも経験しています。住む場所も生活様式も変わっていく中で、どこまでが必要で何が不必要なのかを線引きするようにしていますが、いったん便利さに慣れてしまうと戻れない弱さがありますね。そして田舎暮らしのいいところには惹かれるものもありますが、不便で困ることも経験しているだけに戻ることはないでしょう。住めば都、次に転居するところは老人ホームのつもりです。
しなの7号
2018/05/17 10:49
しなの7号、こんばんは。
『行水』、今の若い方々は意味がわからないでしょう。私の家族が通っていた近所の銭湯は『金曜定休』でした。『金曜』は2番目に近い銭湯まで足を延ばすか若しくは『行水』してましたね。銭湯のようにノビノビと入浴できませんが、不思議と不便さは感じずキレイさっぱりした記憶があります。

私の場合ですと2歳前後の頃、最寄りの京阪の踏切によく足を運んでいました。母親、祖母からすれば男の子だから電車見せたら喜ぶだろうという事だったのでしょうか、しかし私は電車は眼中に無く、興味があったのは、遮断棒の竹の節が詰まっているか?という事で、遮断棒が降りる度に先端から覗き込んでいました。今でも当時の記憶がありますが…何故遮断棒に着眼したのか理由は未だにわかりません。
京阪、近鉄にはさほど興味を示さない反面、山陰線の気動車、客車は好きな、端から見れば変な男の子でした(笑)
京阪の遮断棒と山陰線が私の鉄道ファンの源流と言えそうです。

身近ではない優等列車より鈍行が好きでした。
鈍行>急行丹後>特急あさしお
男の子なら優等列車に憧れを持つのですが、改めて、変なヤツでしたね(今もですが…)
はやたま速玉早玉
2018/05/23 00:16
はやたま速玉早玉様 こんにちは。
そもそも若者たちが「行水」「柄杓」の漢字が読めないのではないかと。
乗務の出先などでは、どこの乗務員だかわからない人たちと一緒に足を伸ばして風呂に入れましたから、銭湯の雰囲気はわかりますが、田舎では銭湯が早くから消滅しましたので、家に風呂場を造ってから、これまでに街中の銭湯に入ったことはたぶんないです。

幼児の興味の対象が、大人とは違うことは自分が親になってわかり、大人の常識に慣らされた自分を発見しました。踏切で気になったことと言えば、警報器のアナログ警報音の間隔が線路の反対側の警報機のそれと微妙に違うのを気にしていた人は多いと思います。そういう警報機は今は見かけなくなりましたが。

田舎では見る鉄道を選べませんでしたが、客貨車、気動車と種類が多かったのは、国鉄の面白さだったと思います。小学5年生のときに1日1本気動車特急が走るようになると異常なくらいの興味を持って見ていました。それまでなかったものだったからでしょう。中学生になってカメラを持つようになると、わざわざ特急列車の写真を撮りに行くようになりましたが、高校生になるとローカル私鉄など生活感あふれる鉄道の良さに目覚めていきました。
しなの7号
2018/05/23 08:24

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