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zoom RSS 【883】 昭和40年代前半、中間駅の留置車両…駅、そして家の水事情

<<   作成日時 : 2018/05/28 06:40   >>

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とかく交通事情のみならず、日常の生活に対して、当たり前の便利さを享受していると、そのありがたさを忘れてしまいがちな自分を戒めながら、今回も子供のころの鉄道の思い出とともに、そのころの生活に関連することを書いていきます。

*********************

単線時代の美乃坂本駅には、行違い可能な上下本線に並行して貨物用の側線があった。構内の苗木街道踏切には、踏切警手が配置されていたように思うが、その記憶は曖昧で、アナログのチンチン踏切が自動的に鳴るのが不思議に思ったことは記憶にある。その前には踏切警手が常駐していたことになるが、その曖昧な記憶の裏付けとしては、のちに私が車掌になった時、同じ職場の車掌長氏と話をしていたら、「ああ、あんたの家はミノサカ(部内での美乃坂本駅の通称。通称については「【250】駅の通称名(乗務員編)」で触れています。)かあ。わし、車掌になる前に、あの踏切の踏切警手をやっとったわ」という人に出会ったことがある。ひょっとしたら私の記憶にない幼少時代にお会いしたことがあったのかもしれない。

下の画像は、時代が経過して複線電化された後の苗木街道踏切。通過していくのは、明知線に回送される逆向きのC12で、1973年の撮影である。手前の地面は、側線跡らしい雰囲気が残っている。
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下は近年の同じ場所で撮影した画像。
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私はこの駅で貨物営業をしていたころの記憶はないから、昭和40年代には美乃坂本駅では貨物取扱が廃止されていたらしく、名古屋方にあった引上げ線と側線は赤錆びていた。それでも、上の画像で言うと踏切の先、左側に少し写り込んでいる白っぽい建物のあたりに残っていた側線に、2軸タンク車が1両だけ長期間留置されていることがあった。以前、写生大会で入賞したことを書いたが、その作品のうち1つは、その留置されているタンク車を描いた絵であったから、その時期は1965〜1966年の間であったことは確実である。
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そのタンク車の積荷は父の話によれば水だったようで、水が積荷なら、その貨車の形式は「ミ」を名乗るだろうとおっしゃる方があるかもしれないが、間違いなく「タム」であった。父が言うには、水の用途は駅の生活用水で、なんでも駅の井戸水がよく枯れたとのことであった。現場を見るとたしかに黒いゴムホースがタンク車から駅本屋のほうに軌道敷脇の側溝に沿ってつながれていた。

参考までに下の画像は「ミム」
1973年12月 筑豊本線二島駅
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そのころ私が住んでいた市営住宅でも、共用で使っている井戸水がよく枯れた。ポンプで汲み上げ、各戸の台所まで配管され蛇口から水が出たから、体裁は普通の水道と同じだったが、井戸の水位が下がると、蛇口から茶色に濁った水が混じった空気が出た。そのままだとポンプのモーターが壊れるので、異常に気が付いた住人がポンプ室の電源を切りに行った。ポンプ自体が故障することもあって、水が出なくなると市営住宅の住人が三々五々、ポンプ室の前に出てきて、「井戸端会議」が始まって、ポンプの故障なのか井戸水の水位が下がったのか判断し、あれこれ対策を練った。
画像はそのポンプ室。「室」というには高さが低く「覆い」と言った方が正解か。脇にある電柱には、メーターとヒューズボックスが見える。そのヒューズボックスで電源を入切した。井戸そのものはさらに数十メートル離れた畑の中にあった。
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日中だと奥さんたちだけではどうにもならず、そういうときに活躍するのは夜勤明けや夜出出勤で、日中に家にいる父で、ポンプにヤカンから呼び水を差したり応急処置をした。そういうときは、井戸水は時間限定で飲用だけに使うことにして、申し合わせてポンプの電源を入れる時間を区切って使用時間を限定してしのいだ。最悪の場合、近所の農家にバケツやヤカンを持って水をもらいにいったこともあった。そういう水不足のときの風呂水は、数十メートル離れたところを流れる用水路までバケツで水汲みに行って、風呂桶に入れた。風呂が沸かせる水位になるまで、用水路まで両手バケツで7往復しなくてはならなかった。数年前に空き家になった実家の物置から、あまり使った様子がないブリキのバケツが2つ出てきた。そういうときのためにきれいなものを常備していたのかもしれない。
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今は上下水道が完備している。

水不足のときに限らないが、洗濯機を買う前、母は用水路で洗濯ものを手洗いしていた。その用水路は農業用水であったが、ところどころに切り出した石を組んだ洗濯場が造られていた。乳児がいる家ではオムツを洗濯する人もあったらしく、下流の人から不衛生だと苦情が出て、本流の水路から分岐した水路に汚物を洗う場所が指定された。そういう汚水は、どのみち木曽川の支流にそのまま流れ込むので、川は汚染されつつあった。トイレはどこでも汲取り式であったからバキュームカーは来てくれたが、ゴミの収集サービスはなかった。その川の支流の河原には地区で決められたゴミ廃棄場があって、生ゴミから割れたガラス瓶など不燃物まで、粗大ごみを除くゴミが分別されることもなく捨てられていた。その周りは生ゴミ臭がして蠅や蚊がたむろしていたが、下の方は堆肥化して、そこを掘るとミミズがたくさん生息していたので、父は魚釣りの餌として、そこでミミズを採って魚釣りに行った。おそらく昭和30年代には、ほとんどが農家ばかりで、生ゴミは自分の畑などで堆肥にするから捨てたりしなかったのだろうが、非農家が増えてきて、ゴミ公害みたいな問題が起きるようになったのだろうと思われた。大雨が降れば、河原に溜まったゴミは増水した濁流とともに下流に流れ下っていくこともあった。小学校には当時プールがなく、子供は夏はその川で泳いだし、春から秋にかけては魚獲りもしていたから衛生上の問題のほか、廃棄され川底に沈んだ割れた瓶のかけらで大ケガをした例もあって問題になり、山からの湧水を利用したプールが造られた地区もあり、川での水泳は禁止されるようになっていった。

冬場には用水路の表面に氷が張るような寒い時もあって、洗濯をする母の手のあかぎれがひどいことになっていた。寒い朝には、洗濯物を手で絞って干しているうちにすぐ凍りついていき、物干し竿の洗濯ものはゴワゴワに凍ったが、そんなときも母は、寒い日ほど川の水は暖かく感じると言った。

美乃坂本駅にあった側線のうち、前述のタンク車が留置されていた上り名古屋方の側線は早くに撤去されたが、下り側は遅くまで残っていて、ときどき保守用車が留置されていた。そこで車両が停まっているのを最後に見たのは、いつだったかはっきりわからないが、状況は記憶している。
朝の名古屋発長野行普通825列車の荷物車でブレーキ緩解不良事故が発生し、この駅で切り離された。
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緩解不良だったというのは、父が職場で聞いてきた話だから間違いないと思う。たしか列車がかなり遅れダイヤが大きく乱れたので、新聞にも載った記憶がある。当日はその列車の荷物車2両が留置されていたように思うのだが、翌日には1両だけになっていて、車番はキリのいい番号のマニ60 600であったことを覚えている。藤田吾郎著ネコ・パブリッシング刊「RM LIBRARY138 マニ60・61形スユニ60・61形(上)」に収録されている車歴表によると、この車両は1973年2月にオヤ61 28に改造されている。
留置されていた場所は下の画像の6両停止目標の先の草叢のあたりで、側線は2本あった。
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機関車に惹かれる子供は多いと思うが、中間駅で列車を見ている私が興味を持ったのは客車と気動車であった。機関車はどの列車もD51ばかりで、もちろん個々の機体に個性はあったはずだが、私には個々の機体の特徴が判らなかった。それに対して普通列車の客車と気動車では、さまざまな形式の車両が共通で運用され、全体の外観、窓の大きさ、車体色などの違いがあり、乗車すると車内の様子が1両ごとに大きく異なっていて面白く思っていた。オハやキハという形式称号は父が教えてくれた。そのころ父は、国鉄部内の車掌試験を受けるために部内の通信教育を受講し、試験を受けて車掌になったばかりの時期にあたり、そのための勉強をしていたので知っていただけで、決して鉄道趣味があったわけではなかった。
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そして父は車掌になっても、本人の希望で貨物列車にしか乗務していなかったから、客車と気動車の形式別の特徴などは全く知識がなく、肝心のことを教えてもらうことはできなかった。形式別の詳しいことは、高学年になってから書物によって得ることになる。
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これは小学校5年生の時に書店で取り寄せてもらって入手したもの。
数少ない鉄道好きな級友が、「〇〇君が『鉄道アルバム』っていう“しなの号”が表紙になった本を買って、それを見せてもらったぞ! まだ出たばっかの本で、キハ91の写真も載っとった!」と言った。あいにくそのとき、私は〇〇君と仲違えをしていて、物言わずの状態だったので見せてくれなんて言えなかった。そういう状況もあったから何が何でも欲しくなった。歩いていける範囲に書店は一軒しかなく、鉄道雑誌が店頭に並ぶような大きな書店ではなかった。家でその話をすると、店頭にない本でも取り寄せてもらえるのだと初めて母に教えてもらい、出版社はわからず、「子供の科学」の別冊であることもわからず、わかることは、最近出版されたばかりの本で、表紙の写真がしなの号で「鉄道アルバム」というタイトルだということだけではあったが、その書店でそれを伝えたところ、かなり待ったが入手できた。
つい最近発売されたばかりの鉄道ピクトリアルNo.947 2018年7月号のキハ181系しなの号の表紙を見て、そのときの本のことを思い出したが、こちらは書店でチラッと見ただけで、これ以上モノを増やさない方針だから購入していないし、約50年前のその本も、少し前に廃棄して、今は表紙だけを保存している。





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コメント(24件)

内 容 ニックネーム/日時
こんばんは。昔はどこの駅も側線が多くありましたね。40年位前の東海道線藤沢駅も旧客(42系)が何両も留置されていたのを記憶しています。そして153系が廃車になった際は川崎駅に留置されていたと思います。今は常磐線の高萩駅はJR後の特急車両などが留置されていますね。
うさお
2018/05/28 22:00
うさお様 こんにちは。
川崎駅に留置されていた153系は記憶にあります。廃車前提の車両が疎開留置される駅は地元でも西小坂井とか木曽川とか、いくつかありました。一方で、事故や災害で目的地の駅まで運転できなくなった荷物列車や貨物列車を計画的に抑止して、開通まであまり使われない副本線に取り込む駅もいくつかありました。そういう時には、例えば「愛知御津でドボン食らった」という言い方をしていました。
しなの7号
2018/05/29 14:21
しなの7号様こんにちは。途中駅で車両切り離しは規程集では読んだことはありますがあるのですね。今は中線も側線も減っているので取り込みというのも難しそうですね。JR貨物のHPにある運転状況には24時間手配やら48時間手配というのもありますが、そのような場合はダイヤの乱れを少なくするため1日繰り延べとかもあったのでしょうね。荷主さんはつらいですが・・・。
うさお
2018/05/30 09:33
うさお様 こんにちは。
荷物列車の24時間手配を私ども乗務員は「1日落とし」と呼んでいました。編成そのまま留置する場合と、客貨車を留置した後は機関車だけを単機で運転するケースもあったと思います。
そういう煩雑さと、2〜3時間程度の遅れが24時間に増幅するところは鉄道の泣き所ですね。

 
しなの7号
2018/05/30 13:26
しなの7号様ありがとうございます。また、国鉄物語編復活の際は1日落としなどのイレギュラー勤務の話などもお教えくださいませ。
うさお
2018/05/30 18:12
うさお様
イレギュラー勤務の話ではないですが、相当前に
【423】 思い出の乗務列車31:東海道本線 荷41列車(3):積載方と急送品
http://shinano7gou.at.webry.info/201310/article_7.html
の下のほうに少し関連することを書いています。
しなの7号
2018/05/30 19:41
しなの7号様 ありがとうございました。
急送品の1日落としは今と違ってチルド輸送などといったものはないし動物さんが荷物だったりでさぞ大変だったと思います。報道用原稿もかな・・・。
うさお
2018/05/30 21:42
うさお様
ご覧いただきありがとうございました。
いずれ、荷物列車関連の記事は書き残したことを書くつもりですが、果たしていつのことやら…当面は子供の頃のことを集中して書いていきます。ごめんなさい<(_ _)>
しなの7号
2018/05/30 21:59
こんにちは。
公私とも列車には何度も乗ってきましたが、途中抑止のシーンはほとんど見たことがなくて、小学5年生のときに親子テツだった友人の父親に連れて行ってもらった京阪100年号上りぐらいでしょうか。EF65一般型が12系を牽いて行ったのと擦れ違ったこと、C57は貨物列車の後ろ側に留置されたもののケムリ隠せずで、近くの商業施設立体駐車場から見下ろしました。
今から考えるとEF65の手配がやけに早くて、あくまでも憶測ですが、C57を隠すために貨物列車まで抑止、その電機を外して12系に付け換えたのかもしれません。貨物の先頭に機関車が付いていたかどうかまで確認しませんでしたが。
NAO
2018/06/02 11:19
NAO様 こんにちは。
11年も前の話で恐縮ですが、青春18きっぷで東海道在来線大垣から米原行普通列車乗車中に、関ヶ原で下り1番に抑止中の特急銀河を追い抜いたことがありました。米原に着いてから京阪神区間で人身事故があったことを知り納得しました。その時点で現場では運転再開されたようで、しばらくしてから米原駅で、さきほどの銀河が追い付いてきました。人身事故が多い昨今は2時間程度の抑止にはよく遭遇しますから覚悟してプラン作成しなければなりません。
しなの7号
2018/06/02 13:26
当時の水事情、ご苦労が多かったものと拝察します。小生の育った所では、お隣の風呂を借りに行った経験がある程度で恵まれていたと思います。
ポンプ小屋の電気引き込み柱に、陶器製のヒューズボックスが写っていますね。お父上が撮影されたのでしょうか。こうした記録が残されているのも貴重なことと思います。
うちの小学生時代の社宅にもあって、「ヒューズが飛ぶ」ことがありました。碍子配線や白熱電球などと合わせて、姿を消した昭和の光景ですね。
九州の黄帯の「ロミム」ですが無煙化後も運用があり、SGは蒸気機関車より水質にうるさかったため、わざわざ運んでいたようです。水源が井戸水だったのかは聞き漏らしました。
3RT生
2018/06/03 20:25
3RT生様 こんばんは。
市営住宅8戸に井戸が1つというのには無理があったものと思いました。
そういえば、昔はヒューズが飛ぶと、陶製のヒューズボックスの蓋を開けてヒューズ交換しましたね。市営住宅内の共用道路には笠付の裸電球が付いた街路灯が1つだけありましたが、今のように暗くなったら自動的に点灯するわけでもなく、当番を決めて夕方になるとスイッチを入れに行きました。朝も切りに行くのですが、周囲には羽を広げると12〜3pほどもある大きなクスサンという蛾がたくさんいました。
九州のロミムはSL廃止後も失業しなかったのですか。SGのために必要だったとは盲点でした。ご教示ありがとうございました。ロミムを見たのは、このときが最初で最後でした。特定の地区に行かないとみられない形式を見るとワクワクしたものです。
しなの7号
2018/06/03 21:21
こんばんは。

今でも側線が残っているのを見ると栄枯盛衰というか
一抹の悲しさを覚えますね
中部天竜にも貨物ホームともども残っていたように思いましたが
見間違えでしょうか?
113系静シスT編成万歳!
2018/06/03 23:47
113系静シスT編成万歳!様 こんにちは。
ストリートビューで中部天竜駅裏の道から駅構内を見ると、駅本屋の豊橋方に隣接して貨物ホームの屋根がありますね。中学生のころ、初めてカメラを持った翌月に、まさにこの貨物ホームにパンタグラフを降ろして停まっているED17の写真を撮っています。田舎に行くほど側線やその敷地がそのまま残っているのを見かけることが多いですが、その駅の昔の姿を知っていると、なおのこと寂しさを感じます。
しなの7号
2018/06/04 12:50
しなの7号様おはようございます。
ミムのお写真良いですね
実物は見たこと無いので嬉しいです
水質が悪いところに水をとどけるという用途も現在では想像も出来ませんが線路から離れられない以上駅だけの運用でしょうからほぼ事業用ではなかったのかな?
筑豊本線二島駅
ピンと来なかったのですが折尾〜若松の駅でしたか
伊田にいたときも家族と出かけ飯塚・新飯塚から乗って折尾で乗り換えていたのであまり身近でなかったです。
当時は当然若松〜原田での運転でしたが今は両端が枝線のようになってしまいました。
ヒデヨシ
2018/06/15 07:34
ヒデヨシ様 こんにちは。
水運車の用途は事業用中心だったのでしょうね。おそらく今は運搬せずとも浄化装置を介せばボイラーにも対応できそうに思いますし、工業用水道も普及しましたので、必要な場面は考えられないように思えます。災害時の給水には便利かもしれませんが、今では駅に側線がないところがほとんどで留置もできないでしょうから、救援車や操重車が消えていくのと同様に自在に走れる自動車の活動領域になったといえますね。

二島駅へ行ったのは高校生のときで、↓
【832】 撮り鉄12か月…1973年12月「山陰・北九州蒸機巡り」
http://shinano7gou.at.webry.info/201712/article_1.html
で書いたようにD60の撮影が目的で、そこから若松までと、桂川〜原田間の筑豊本線両端がそのまま長く未乗のままで残りました。
しなの7号
2018/06/15 14:19
しなの7号様、こんばんは。
蛇口を捻れば当たり前に水が出る、洗濯は洗濯機が(スタートボタンを押せば)当たり前に行ってくれる。おまけに断水を経験していないので年配の方々の水に対するご苦労、私からは想像もできません。

小学校低学年の頃はお墓参りで井戸水を汲み上げた事がありますが、高学年になる位でしょうか?井戸は取り壊され、水道に変わっていました。
今年2月に瑞浪の酒蔵見学で、仕込みの井戸水に触れさせてもらいました。小学校低学年以来の経験ですから恐ろしく久々の出来事です。夏はヒンヤリですが冬は意外にも冷たさを感じない、そこに懐かしを感じました。

水事情から少〜し脱線しますが…
温泉施設で浴槽にドバドバとお湯が流入、豊富なお湯に身を委ね贅沢に湯あみを愉しむひとときは、まさしく至福です。お湯という天然資源を利用させて頂いている事への感謝や、お湯を提供されている施設の方々への感謝、これらも忘れてはいけませんね!
はやたま速玉早玉
2018/06/26 00:20
はやたま速玉早玉様 こんにちは。
雨乞い神事というものが日本古来からあるように、地域によっては水飢饉は何度でも経験してきたと思います。以前書いた恵那にある笠置山の神様も雨乞いで有名なのだそうです。私が住んでいた恵那地方には溜め池が多く、昔から水は豊富とは言えないところを開拓した場所が多いのかもしれません。
国鉄に就職したころだったか、上水道が引けましたので井戸水と併用していた時期がありますが、井戸水のほうが季節による水温変化は少なかったようです。また、この恵那地方では花崗岩が地表へ露出している場所をよく見かけますが、地下は放射性元素を多く含む花崗岩の岩盤になっているといわれています。はやたま速玉早玉様は温泉好きなので書いておきますが、恵那地方は、その関係でラジウム鉱泉がたくさんあります。「岐阜 放射能泉」でネット検索するとそれらしいサイトに行き当たります。ただし冷泉ばかりですので沸かし湯です。また、私は試したことがありません。

ラジウム鉱泉ではありませんが、昨年北陸で泊まった沸かし湯の某温泉(源泉27〜28℃くらい?)では、他に客がなかったのに展望大浴場に湯を張ってくださり、贅沢な思いをさせていただきました。おかみさん曰く、「燃料費は一晩で3000円くらいかかるんですよ」だって。
しなの7号
2018/06/26 15:48
しなの7号様、こんばんは。再度コメント失礼いたします。
貸切状態の展望大浴場は、贅沢ですなぁ〜。
一晩3000円の燃料費ですか…客側からは決して見えない部分でのご苦労、頭が下がります。『客を泊めるんだから旅館としてのサービスを提供するのは当然だろう』なんて考えは温泉マニア失格!感謝の気持ちを忘れてはいけませんね。

恵那の温泉を調べてみたら、確かにラジウム鉱泉の宝庫ですね。恵那近辺の温泉は未体験ですが、先週、倉吉市内の放射能温泉である関金温泉へ行ってきました。大量の放射能は被爆を引き起こしますが、微量であると逆に健康に良いらしいです。湯気を吸うのも効果があるのだとか。
はやたま速玉早玉
2018/06/26 22:09
はやたま速玉早玉様 こんにちは。
貸切状態だった旅館は個人経営?の小規模な施設でしたので、客に言うべきでないことも話してくれたのでしょうが、そこがドライな大幹線鉄道にはないローカル鉄道の良さに似ています。

倉吉線関金駅には、昨年「【832】撮り鉄12か月…1973年12月「山陰・北九州蒸機巡り」で、高校生のときに行ったときのことを書きましたが、もちろん関金温泉には立ち寄っていません。もし泊まっても、「あなたたちが泊るところじゃなかったわね」などと言われたかも

しなの7号
2018/06/27 07:40
しなの7号様、こんばんは。再度すみません。
【832】の記事を拝見させて頂いた時は、関金温泉の存在は全く知りませんでした。先週訪問した際は、倉吉線が近くを走っていた事が脳内に無く、完全にノーマークでした。
改めて調べてみると、廃線跡を徒歩で辿れそうです。嬉しい事に一部区間ではレールも残されています。

『お造りには日本酒⚪⚪が合うなぁ』『天ぷらには日本酒●●が、ええわぁ』など…旅館では毎回子どもみたいに、ワイワイはしゃぎながら夕食を頂いています。ひょっとしたら旅館の方々に『あなたたちが泊まるところじゃないわよ』なんて思われていたりして(笑)
はやたま速玉早玉
2018/06/28 00:29
はやたま速玉早玉様 こんにちは。
そうでしたか。私はそのSL撮影のときに参考にした撮影ガイドの雑誌で、倉吉線撮影のときに使える宿泊施設として関金温泉の存在を知りましたが、もちろん高校生が泊まるべき宿ではありませんでしたし、放射能泉であることは、はやたま速玉早玉様の書き込みで初めて知りました。
旅館の格式にもよりますが、ワイワイはしゃぎながら旅を楽しんでくれる客こそが最高の客でしょう。自分が泊まるのは常に安宿ですが、気楽に過ごせるほうが好みです。ときどきハズレくじを引きますが…
しなの7号
2018/06/28 10:51
しなの7号様、こんばんは。
【関金温泉に入る→かつては倉吉線の関金駅も存在していた→その倉吉線ではオハニ36なる旧客が活躍していた】

脳内で不必要(?)な連想ゲームが起こってしまい、オハニ36に物欲が沸き購入に至ってしまいました…
はやたま速玉早玉
2018/07/18 23:17
はやたま速玉早玉様
オハニ36入線おめでとうございます(^O^)/
私が倉吉線に行ったときにはオハニ61の時代で、気動車列車に混じって客車列車が6往復(すべて区間列車)ありました。こうした合造車はローカル線にはよく似あいますが、オハニ3に限定すればテールマークを装備した特急から1〜2両の超ローカル線まで違和感なく組み込めるオールマイティ客車ですね。
しなの7号
2018/07/19 17:20

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