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zoom RSS 【885】 中央西線複線電化工事が行われていたころの記憶

<<   作成日時 : 2018/06/04 06:20   >>

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東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)、私は小学1年生になる。1966年には名古屋〜瑞浪間が複線電化され、さらに2年後の1968年には中津川まで電化が完成し、一部を除いて複線化も完成した。その工事期間と私の小学生時代が、ほぼ一致する。複線化は部分的に少しずつ工事が行われ、その部分が完成するたびに非電化のまま複線として供用されるということを繰り返し、そのあと電化工事が進められていった。
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当時私が住んでいた美乃坂本駅付近では1965年(昭和40年)頃に複線化工事が始まった。家から小学校への通学路には、中央西線の掘割区間に架かる道路橋があった。廃レールを柱として再利用した4トンの重量制限がある華奢な橋で、その上からは複線化工事の進捗状態がよく見え、3台の黄色いブルドーザーによって掘割区間の片側の土砂が削り取られてゆき、その土砂は築堤部分へ運ばれ、それが盛られていく様子が見えた。工事が進むと、単線用の掘割に架かったその道路橋は撤去され、複線用の新しい鉄筋コンクリート製の道路橋が架けられるまで、通学路は近くの踏切道に迂回することになって、踏切では汽車には十分気を付けるように言われた。下は、そのときに架け替えられた複線用の新しい道路橋の現況。
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このころには自転車を買ってもらったので、学校から帰ってから、いっしょに遊ぶ友だちがいないときは、線路端の工事現場の近くまで出かけるようになって、単線(現在の上り線)の築堤に腹付で土が盛られ、現在の下り線ができていく工事の様子を観察していた。下の画像は、その築堤を行く下り貨物列車を最近撮影した画像。この付近にはリニア中央新幹線の高架橋が並行することになっているらしい。
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いつも友だちと魚獲りにいっていた小川にも下り線用の新しいコンクリート橋が架けられた。下の画面がそのとき造られた下り線用の橋。奥に単線時代から使用されている石積みの古い橋も見えているが、複線化後も上り線用になって現在まで使用されている。
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私が複線化工事の進捗状態を見ていた美乃坂本駅の前後約2qは、複線化が電化より2年ほど先行して完成している。その中津川寄りの単線部分との接続地点には与ヶ根信号場が、恵那寄りの単線部分との接続地点には二軒屋信号場が、それぞれ1966年3月に同時開設されている。両信号場とも一坪ほどの転徹小屋が線路端に建てられていただけで、もちろん無人。要するにただの単線と複線部分との分岐点に過ぎず、両信号場の信号機と転轍機は美乃坂本駅で遠隔操作していた。形態としては美乃坂本駅の行違い設備が前後に広がったようなものであって、単線時代に美乃坂本駅で行き違い待ちをしていた列車は、対向列車が手前の信号場を通過したら、その列車が駅へ到着をするのを待たずに発車できるようになったわけだ。下り列車が、美乃坂本駅から2q名古屋寄りの二軒屋信号場を通過して、複線区間に進入すると、美乃坂本駅から上り列車が発車する。前述の新しく架け替えられた道路橋の上からは、線路を1qほど見通すことができたので、遠くから軽快に近づいてくる下り列車と、美乃坂本駅を発車して爆煙を吐くD51に牽かれ加速してくる上り列車とのすれ違いがいつでも見ることができた。複線になって中央西線が偉くなったように思ったし、毎回微妙にすれ違う位置が変わるのも面白かった。
その道路橋から名古屋方を見たところ。
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そして、その反対側(塩尻方)を向いて、上の画像に写っている同じ列車を後方から撮影したのが下の画像。この画像を撮影した位置で、D51が牽く上り列車の煙幕に巻かれ石炭の香りに包まれたことは数知れない。
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前述の道路橋架け替え中に迂回路になった踏切は、上の画面中央部付近を左右に横断する位置にあったが、この道路橋が架け替えられた後にその踏切は廃止されている。画面左側はその踏切に続く道の名残りで、現在は行き止まりの袋小路となっている。
余談になるが、この画像の中央奥の山のあたりから左手前方面にリニア中央新幹線の岐阜県新駅が建設される。

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複線化が完成したあと、電化工事が始まって、沿線にコンクリートポールが置かれ、穴あけ〜建植が始まり、駅前広場には大きな木製ドラムに巻かれた架線や、碍子などの資材が置かれるようになった。電化工事が完成するまでの工事の一つ一つの工程を眺めていると、「東海道本線」のように、近い将来にはわが町に電車が走るようになることが伝わってきてうれしい思いがしていた。
連日、駅や沿線に自転車で出かけて、その工事進捗状況を確認している変な子供は目立つらしく、駅の人にも知られる存在となって、ある日、父に
「きんのう、おんし駅におったやら?。(東濃弁で『昨日、おまえ、駅にいただろう?』の意味。『おんし』は『御主(おぬし)』が語源になっているらしい)今朝、明けで帰りょおったら、駅の奴が、おんしんとこの息子が、きんのう駅前に積んだる碍子見てニコニコしとったって言っとったぞ」
と、言われたこともあった。父は人に「うちの坊は『汽車き〇がい』やもんでよう」と言っていた。それは今思うと、自分の職業を息子が好きであることがうれしく思っていたようにも思える。それでも鉄道趣味などというものは、あのころの田舎の人には理解できなかったはずだ。幼児期を過ぎれば、汽車ポッポは卒業するものだろうから、「知〇遅れでないの?」と母に進言する近所のオバサンもいたらしい。
そして、1968年10月、ヨンサントオと呼ばれるダイヤ改正があり、中津川まで複線電化され、70系電車、EF64電気機関車、そして181系ディーゼルカーによる特急「しなの」が登場する。
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この小学生時代の数年間で、生活は大きく変わっていった。小学2年生のころテレビが家に来た話は以前に書いたが、LPガスの2口コンロを導入したのもその1〜2年前だった。それまで使っていた灯油コンロが壊れたことがきっかけだった。母はガス爆発は怖いと言って慎重に扱っていて、毎晩寝る前に室内の元栓を閉めてから、さらに外に出てガスボンベの栓を閉めていた。
その後、我が家では洗濯機、冷蔵庫と、次々と新しい電気製品を買う時期に入って生活が変わっていった。それは母が働くようになったことと、高度成長が著しい時期であったこととの相乗効果だったものと思う。
電気製品だけではない。父は原付バイク(スーパーカブ)を買ったし、そのあと1968年夏、つまり中津川までの複線電化工事が完了したのとほぼ同じころに、父は住んでいた市営住宅の近くに家を建てるために桑畑を買った。以前にアップした画像の使いまわしだが、ポンプ室の向こう側に生えているのが桑の木であるが、冬場の撮影らしく、葉が付いていない。
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今の子たちには桑と蚕の関係から説明しなければわからないかもしれないが、そのころの小学校では先生が児童たちに「お蚕さんをやってる家の子いますか〜」と教室で聞くと、まだ手を挙げる子はいたが、養蚕農家はかなり減っていた。蚕はふつうに「お〜さん」付で「おかいこさん」と呼ばれた。
そういうわけで桑畑も減りつつあったから、そういう不要になった桑畑を買った父は公休日や勤務明けに桑の木を根から掘り出したあと、ツルハシとスコップと一輪車を使って、一人で傾斜した畑を水平な宅地にした。中央西線の複線化工事を見たあとだったから、そんな小規模な工事であっても、土地の様子が変わり新しいものができていく過程を興味を持って見ていた。小学生だから役には立たなかったが、手伝ったりもした。そして複線電化が完成した翌年の昭和44年に平屋建の小さな家が完成した。
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この家にはLPガス焚きのホーロー浴槽が付いた風呂場があった。1人で使える子供部屋もあった。その時点で、やっと今の生活に近いレベルになったと思うが、今から約50年前のことになる。
その家は線路からは離れていたが、列車の音はよく聞こえた。その話は次週にします。



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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
自分は武並駅でD51牽引列車を待っている時に181系を見ました。金属音が印象的だったので覚えているんですが多分試運転列車だったんだろうと思います。
中央西線
2018/06/04 07:54
中央西線様
前にも書いたことがありますが、私はキハ91系がそのまま特急に転用されてデビューするものと思っていたくらいですからキハ181系を43.10前に見たことがなかったと思います。43.10前にはキハ91を使った夜の上り急行が美乃坂本で運転停車したので、それを自転車で見に行ったことがあります。これが特急になるのか…どう見ても急行仕様だけどと思いながら。それが美乃坂本駅の前後それぞれ2q程度だけ複線化されていた時期にあたります。
しなの7号
2018/06/04 12:34
私が初めて国鉄の特急列車に乗ったのは181系上り「やくも」でした。ほとんどが単線だった伯備線をクネクネ行くのは楽しくもあり、特急料金が惜しいような、なんだか特急車両料金を払っているような気もしましたが、備中高梁以南と山陽線を快走してからは納得でした。倉敷を出るとレチチさんの岡山駅接続放送が入ったのですが、それぞれの新幹線の停車駅を案内されたのがカッコ良かったです。
中央西線も伯備線も181系DCから381系ECバトンタッチしたのですね。
NAO
2018/06/09 10:45
このブログで”機関車D51と中央西線”なる書籍の存在を知り上前津の古本屋で入手しました。武並駅を発車し槙ヶ根に挑むD51三重連は見てみたかったです。山口線で活躍中のD51200の青ナンバーの中津川時代の写真もありました。
中央西線
2018/06/09 15:39
NAO様 こんばんは。
特急のほかにもD51・EF64など伯備線と中央西線との共通点は多いですね。
他線区で使い古した車両が多かった中央西線でしたが181系気動車は新車でもあり、新形式の特急が地元を走る。毎日見られる。そのことだけで満足していました。181系しなの号に乗ったのは1度だけで、そのことは
【117】中央西線を走った車両3 :181系気動車(3)
http://shinano7gou.at.webry.info/201012/article_13.html
で書いたのですが、乗ると外観は見られませんし、カーブで窓を開けてクネる列車を見たくても窓が開かないので、痛し痒しでもありました。
しなの7号
2018/06/09 20:17
中央西線様
”D51と中央西線”は、たしか父の職場で国鉄物資部の注文受付があって、発行翌年に入手しました。この数年で多くの物を処分しましたが、この本は今でも手元に置いています。45年以上も経ちますとさすがにシミや汚れがひどくなって、状態がわるくなってきました。今そのページを繰りますと、ほかに記録されることが少ない昭和30年代の写真には、自分の記憶にないことと、怪しい記憶を正しいものと裏付けてくれることが混在して貴重な記録だと改めて思います。
しなの7号
2018/06/09 20:17
しなの7号様、こんにちは。
普通に考えれば、本数が増えて、スピードアップも望め、おまけに都会っぽく変身できる複線電化、偉くなるとの表現、ああなるほど!と、おもいます。現在、中津川在住の方々もリニア新駅開業に対し『偉くなるぞ』と感じていらっしゃるでしょう。果たして新駅の名称は『新中津川』でしょうか?

前にもコメント致しましたが、小学生の頃『京都〜園部間・山陰線複線電化』の話を聞かされた時は、まあ確かに偉くはなるけども…複雑でしたね。言い換えれば、旧客やキハ47とのお別れを意味しましたから。

『山陰線き⚪がい』の小学生でしたが、異常に行動力が欠如していましたから、写真はあまり撮っておりませんでした。タイムマシンがあれば当時の私に『何しとんねん!今のうちにどんどん乗りに行かんかい』とお説教したいところです。未だに汽車ポッポを卒業できない46歳からの『喝!』入れです(笑)
はやたま速玉早玉
2018/06/29 12:35
はやたま速玉早玉様 こんばんは。
自分は小学生時代に、古い客車や機関車たちとの別れより、明らかに電化され新しい特急が走ることのほうに気が向いていました。情けないことですが、それは田舎者の劣等感だったのか、単なる自分の幼さだったのか、たぶんその両方だと思います。末期になってSLの撮影に行った中学生後半ごろから、少しずつ失われていくものとか、振り向かれることが少ないローカル鉄道などに目を向けるようになりました。『喝!』入れに昭和40年代まで遡って行ってやらんとあきません。
(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
我が故郷の駅周辺は偉くなれるのかわかりませんが、今はやりのカタカナ表記とかのカルい駅名を名乗ってほしくありません。
しなの7号
2018/06/29 21:59

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