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zoom RSS 【893】 小学生時代に見た旧形客車の記憶 2

<<   作成日時 : 2018/07/02 06:00   >>

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先週からの続編として、中央西線を走っていた客車のなかで、特徴があって今でも記憶にはっきり残っている車両について書いている。私が小学生のころのことなので、写真もないし記憶があいまいな点もあるので、誤りなどあったらご容赦いただき、ご指摘を願いたい。

<スハニ31の記憶>
スハニ31は、同じ「31」の形式名を名乗る17m級のオハ31とはまったく異なる系列の客車であって、スハ32の系列で20m級の客車である。後期車はシングルルーフであるが、初期の20両がダブルルーフで、車体のリベットも多くたいへん古めかしいスタイルをしていた。1966年ごろを最後に中央西線でオハ31を見なくなった後も、ダブルルーフ車のスハニ31前期車が残っていて見ることができた。このNゲージ模型は欲しいと思っているが、あいにくMODEMOから長く再生産されないので入手していない。画像加工でシングルルーフ車の屋根だけを他の画像に置き換えて、そのイメージを再現したのが下の画像
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はっきり覚えているのはスハニ31のトップナンバーがよく連結されていたことで、前回同様「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション16 国鉄の客車1950〜1960」掲載の1964年4月1日現在の名古屋客貨車区の配置車両の確認をすると、スハニ31は5両(1,2,7,14,15)が在籍している。この車両に乗ったのは一度や二度でなく、その特異な室内も記憶にある。屋根構造以外の特徴は、室内灯は白熱灯ながら、オハ61系の大きく角ばった灯具とはちがい、ガラス部分がやや小さく、丸みを帯びた半球形であった。座席背ズリはモケット張りでなく板張りであったが、オハ61系のような額縁状の木枠ではなく、オハ35系のモケットが張られた部分を、薄い板張りに変えたような構造で、背中が当たる部分が外枠より出っ張っていて厚みがあって、その部分にベージュ色の塗料が塗ってあった。このように他の客車とは違った特徴があるダブルルーフのスハニ31は特急「燕」や湘南列車用として誕生した由緒正しい客車であることを知ったのはずいぶん後のことであったから、その当時は、古臭いただの超ボロ客車と思っていた。ふつうなら乗りたくない車両に分類されるはずであったが、半室荷物車という性格上、列車の最前部や最後部に連結されることが多かったので、中央部の車両よりも空いていて混雑を避けることができ、ボックス席の独占も可能。場合によっては半車分の客室が貸切状態になるという理由でよく乗った。
「場合によって貸切状態」とはどういうことか、ご説明しよう。中央西線では、これら合造車の向きは不特定で、向きによっては荷物室側が隣の客車側に来てしまい、客室が荷物室によって隔離され不貫通状態になった。
画像

こうなると連結位置が編成の端部であるがゆえに、他の客車の乗車率はよくても、隔離された客室だけは貸切状態かそれに近い状態になりやすかった。子どもにとっては、他の大人に干渉されることなく遊べてうれしかったわけだが、同伴する母にしてみれば防犯上不安を感じたのか、そういう状態を嫌っていた。

当時の半室荷物車にはダブルルーフのスハニ31のほかにも、シングルルーフの後期型のスハニ31、スハニ32、オハニ61が共通運用で使用されていた。まれに車体外部色が茶色ながら室内はスハ43系に準じ、化粧板貼りの近代化改造工事も施工された急行阿蘇号用と思われるオハニ36が連結されたことも記憶にある。
画像
上から、スハニ31(丸屋根車)、スハニ32、オハニ36、オハニ61

中央西線の客車列車に併結される荷物車(合造車を含む)は、塩尻方に連結されることが多かったが、一部に名古屋方にも連結されていた列車もあった。その列車は中津川を17時ごろに塩尻方面から名古屋に向かう列車で、機関車の直後にスハニ又はオハニが1両連結されていた。古い時刻表を見ると1968年10月のダイヤ改正で列車番号は830から832列車に変わっている。その列車には中津川から乗ったことが何度かあって、中津川では客車(オハフ・オハ・オハフ)を3両増結する入換作業があった。増結車の連結位置は最前のスハニまたはオハニの後で、つまり中津川に着くと機関車(DD51だったと思う)に乗客を乗せたままのスハニ又はオハニが連結されたまま、本編成から切り離されて入換作業が行われた。この列車に中津川から乗車するときは、到着時に待ち構えていて必ず機関車直後のスハニ又はオハニに乗った。そうすれば、ふだんは入れない側線に入れて、スイッチバックのような体験ができることが面白かった。
画像

画像は中津川駅の上り方で、いつも増結用の客車が留置されていた場所である。画面奥に止まっているEF64の手前にプラットホームが見えるが、到着した列車は機関車がスハニ又はオハニ1両を従えて画面左(名古屋方)へ引上げ、増結車3両が留置してある側線に押し込まれて連結。再び画面左へ引上げ、本編成に連結して発車する手順で行われた。
しかし、ダイヤ改正(1968年10月だったと思うが、自信がない)で、中津川から先を担当する機関車(EF64)が、列車到着前にあらかじめ留置されている増結車3両を連結して引上げ線上で待ち構えるようになった。中津川までけん引してきた機関車は単独で切り離され、引き上げられたあとに待ち構えていたEF64と増結車とを連結するだけの単純な入換作業に変わってしまい楽しみがなくなった。そのため中津川から先の編成は、スハニ又はオハニが編成の中間にサンドイッチされる変な編成になった。
「EF64+オハフ+オハ+オハフ+スハニ(オハニ)+オハフ+オハ+……」

 *********************

<オハ34の記憶>
大阪から乗り入れ、スハ43系主体の急行「彩雲」〜「ちくま2号」を除けば、当時の中央西線のローカル客車列車の「ハ・ハフ」は、牽引定数の関係からか、重量が軽いオ級が主に使用されていたので、中央西線用として配置された客車が電気暖房化される前にスハやスハフという形式を地元の普通列車で見た記憶はない。スハニ31はスハ32の系列だということは、さきほど書いたが、その系列で1ボックスに2つの狭窓を持つ2等車スハ32、スハ33、スハフ32も地元では見たことがなかった。下の画像は塩尻に行ったとき、出会った中央東線(西コフ)のスハ33。狭窓の「スハ」が珍しく思えた。
画像


そして下の画像は、スハ32の模型。
画像

類似した狭窓車両で、オハ34、それもトップナンバーが、いつも走っていた。1964年4月1日現在の配置表によれば、オハ34は、その当時に全国で11両在籍しており、長モトになぜかトップナンバー1だけが1両配置されている。スハ32とスタイルは似ていて、構造や台車もスハ32と同じように見えるので、定員が少なくなった分、重量が軽くオハになったものだろうか。両形式ともに1ボックスに2つの窓割で、オハ34はスハ32よりシートピッチが広いということは、のちに本を読んで知ったことで、ネット上にアップされた実車画像などでを改めて見直してみると、オハ34のほうはスハ32よりも2連になった窓の座席間部分の支柱間隔が少し広いのと、定員が減った1ボックス分の窓が2個少ないことがわかるが、スハ32や33を見る機会がなかった当時の私には、そういう違いが全くわからなかった。ただ、狭窓車の「オハ」が珍しかったことと、トップナンバーだったという点で、記憶にはっきりと残っている。そして小学校4年生のとき、誠文堂新光社から出ていた「客車・貨車ガイドブック」に出会ったことで、オハ34が特急「富士」用3等車として使用された車両であることを知ったので、さらに印象が強く残った。
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私の感覚では「富士」と言えば20系寝台車の時代であったから、私にはオハ34の全盛時代をまったく想像できなかったし、今でもそうだ。ところで、前述の特急「燕」用でもあったスハニ31については、「客車・貨車ガイドブック」には何も触れられておらず、実車写真さえも掲載されていなかったので、前述のように、その由緒を知らぬまま古臭いただの超ボロ客車だとずっと思いこんでいた。
オハ34とスハニ31は狭窓車ながらも、1ボックスに2個の窓が割りつけられていて、オハ31やオハ60のような3連窓でなかったので、乗った場合に後述するように扱いやすく、個人的には嫌いではなかった。見た目にはオハ35系やオハ61系の広窓車のほうがスタイリッシュだが、子どもには、1メートルもある大きな窓を開閉するには力が必要だったし、なにより相席になった向い側の人に気兼ねなく開閉できることをうれしく思っていた。窓は開くものであったからそう思うのであって、今時の窓が開かない車両で育った方々にはわからない感覚であろう。それだけでなく、なぜ窓を開け閉めしなければならないのかがわからないと思うが、続きはまたこの次とする。








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コメント(14件)

内 容 ニックネーム/日時
しなの7号様こんにちは
Wルーフ車にお乗りになられたとは羨ましいです。
私が列車によく乗るようになった頃には国鉄線上にはもう救援車くらいしか残っておらず乗車体験は出来ませんでした。
それでも、何でもいいからWルーフとならば明治村の蒸機牽引客車と京都市電と別府鉄道のホハです。
別府鉄道は明かり取りもベンチレータもキャンパスで埋められていました。
元から無かったのかもしれませんが。

NのWルーフ スハニ31は旧中村精密の板キットを未開封で持っています。
確か当時シングルルーフがほしかったけど在庫が全てWで仕方なく買って台車が入手出来なくなり手を付けなかったと思います。

中津川構内の画像
形式など判りませんが
妻面までシル・ヘッダーが回った随分古い荷物車ですね
側面に光を反射して白く光るものは何でしょうか?
普段乗ることが出来ない構内の側線を車両で乗ることが出来るのは楽しいです。
私も稲沢駅工事で稲沢線を通って稲沢駅ホームを通らない快速にわざわざ乗ったことがあります。
刈谷駅構内も三河線への出入の名鉄貨物列車に乗らないと通れない渡り線のみ乗れなかったです。
ヒデヨシ
2018/07/06 15:19
ヒデヨシ様 こんばんは。
ダブルルーフ車には、オハ31とスハニ31のほか、配置車両の顔ぶれから考えると、無意識のうちにオハフ30にも乗ったと思われます。ただ、明り取りの窓から外光が入ってきたという記憶はありませんので、塗りつぶしか閉鎖されていたと思われます。ベンチレータは外観からわかるように生きていて、車内側で下に開く開閉蓋があったことと、トンネル内ではそこから蒸機の煙が侵入してきたのは記憶しています。

私の場合、旧中村精密のスハニ31板キットは、店頭在庫が丸屋根車だけしかなかったので、ダブルルーフのスハニ31は未入手のままです。

中津川で撮影した画像にある荷物車風な車両は救援車で、2両とも戦災復旧車オエ70です。中津川客貨車区(名ナツ)所属車両で、通常はこのうち1両が本線の反対側にある中津川機関区に常駐していました。この日は交番検査だったのか、めずらしく客貨車区側へ移動し2両が連結されていたので撮影しました。この2両が当時の名ナツ配置車両のすべてでした。オエ70の側面中央部に光っているように見えるのはサボ受けに掛かったサボで、白地に「救援車」と書かれていた記憶です。

中津川駅でも北恵那鉄道が接続し、貨車の連絡運輸が行われていましたから、直接旅客車両に乗ったまま国鉄から北恵那に乗り入れたいという思いはありましたが、もちろんそれはかないませんでした。
しなの7号
2018/07/06 22:26
おはようございます。客車側から見た考察はそのとおりでしょう。私は機関車側から見た記憶しかありません。
昭和43年10月ダイヤ改正からの832列車は、中津川駅で3両増結の記憶もあります。それ以前にあったというスハニに乗っての側線行きのイベントは楽しそうですね。ただ、この列車は、木曽福島から中津川までD51重連で、中津川から多治見までEF64重連、多治見からEF58というコストパフォーマンスの悪い列車でしたので、そちらの記憶の方が強いです。重連と言ってもどちらも前機が回送ということになってましたのですが。
832列車が中津川駅の上り本線に到着しますと、2両のD51が切り離されて2両のEF64が3両の客車を押して行って連結する光景を何度も見ました。ところで中津川まで先頭になっている客車がスハニまたはオハニだったのはいつまでなのでしょうか。私が写真を撮り始めた頃にはオハフになっていたと思いますが。
北恵那デ2
2018/07/07 08:24
北恵那デ2様 こんにちは。
この43.10改正後832列車は、以前にもコメント欄で話題になりましたね。高校生になってからは通学やSL撮影帰りにも、この列車を使ったことがあります。総括重連ではなかったので、回送のEF64にも機関士が乗務し、「―・・」の汽笛合図がありましたので、それを狙って全線電化前に最前部オハフのデッキで中津川〜美乃坂本間の走行音を録音したことがあります。そのころすでに中央西線に「ハニ」の運用がなくなっていたのは確かですが、じゃあいつごろまで運用されていたのかと問われると、「43.10以後の早い時期」としか私には特定できません。本文にも書いたように、旅客を乗せたまま増結作業のための構内運転をしていたのは中津川で機関車の付替えがないDD51だった記憶ですが、あるいはD51だったかもしれません。もしも機関車運用がお判りなら、当該列車の牽引機が中津川をスルーする通し運用だった時代までという結論になるはずです。
しなの7号
2018/07/07 10:31
年をとってくると「くどくなる」ということで、同じことを何度もコメント欄に書いているのだと思います。申し訳ありません。
ところで、話題に出ている狭窓の客車は、車体の塗色が多分ぶどう色2号だったのですよね。私が撮影を始めた頃には青色15号の客車が多くなっていた記憶です。荷物車や客荷合造車は全部がぶどう色2号の塗装であるのに普通車まで同色というのはまずお目にかかれなかったと思います。
電気暖房装着と青色15号への変更がほぼ同時期ということなのかな。マヌ34が昭和44年4月位からは動いてないでしょうから。
なお、オ級の客車がほとんどでしたが、まだD51の時代にも電暖付きにはなっていましたがスハフ42は見かけましたね。
北恵那デ2
2018/07/07 22:39
北恵那デ2様 こんにちは。
1年前のコメントを確認したら、実は私もまったく同じことを返しコメントに書いていました( *´艸`)
まあ、それだけあの列車は特徴があって忘れられない列車と言えるかと。しかし、何度も同じようなことを書いたり書かれたり?していると、つい調べ物をしたりするきっかけになって、新たな事実にたどり着いたりします。というのは、あの夕刻のEF64重連旅客列車について、本文で「古い時刻表を見ると1968年10月のダイヤ改正で列車番号は830から832列車に変わっている。」と書いていますが、その後1972年10月のダイヤ改正で再び830列車に戻っているといった事実に気が付きました。つまり私が高校生になってから通学やSL撮影帰りに使い、車内音を録音したときのEF64重連の列車は830列車であったということになります…先ほど古い時刻表を見て気付いたことです。
そのころになると中央西線の客車は、名ナコ車の多くが近代化改造車で青15号塗装だったのに対し、たとえば朝の通学で使った825列車などに運用された長モト車はぶどう色2号の車両が意外に多かったと記憶しています。怪しい記憶を確認するために1973年版の配置表を紐解きますと、オハ61系普通車が名ナコに配置がないのに対し、長モトの普通車の約半数がオハ61系で占められています。もちろん狭窓車は両区所ともに1両もありません。
(続きます)
しなの7号
2018/07/08 15:39
(続きです)
本文中に書きました「客車貨車ガイドブック」によると、旧客の近代化改造が本格化したのは昭和38年以降のようです。私が小学生低学年の頃にも青15号塗装の旧客は走っていましたから、中央西線に限って言えば電暖化改造より近代化改造が先行していると思われます。

自分がスハフ42を中央西線の普通列車で見たり乗ったりしたかどうか、実は確たる記憶がありません。当時の名ナコにはスハフ42も配置されていましたから、普通列車に使われる機会はあっておかしくはありません。逆に軽量客車ナハ10やナハフ10は目立ちましたので時々編成に紛れ込んでいるのを見ましたし乗りました。
牽引定数に理由があったとしても、オ級の代わりにス級を入れても、編成中の別のオ級の客車をナ級に差し替えればよいことですし、現に名ナコにはナハやナハフ、スハフ42各形式はすべて配置されていましたから、スハフ42が中央西線の普通列車で運用することはあったという事実に異議を申し上げるものではございません。誤解のなきようお願いいたします。
しなの7号
2018/07/08 15:42
配置表をご覧になったということですので、私も見ました。きりがありませんが再度のコメントをします。昭和44年3月末には、名ナコにスハ32や33が配置されてますが、少数ながら電暖車がありますね。客荷合造車には電暖車は皆無のようです。推測ですが、スハニなどは昭和44年10月頃に中央西線には来なくなったと思います。その後はスハ32や33、客荷合造車は配置なしになってます。また、オハ61系は長モトに多かったのは、その通りですが、昭和47年には名ナコにはオハ61が結構ありますが、主に関西本線方面用だったのか、中央西線にはあまり来なかったですね。ところで、昭和47年12月24日にD51 348牽引で旧客10両連結の臨9835レというのが走り中津川から車内音を録音しましたが、これの1両目の客車がスハフ42 2304であるとのメモがありました。
北恵那デ2
2018/07/08 21:17
すみません、前文の昭和44年3月末配置というのは昭和43年3月末配置の、昭和47年配置というのは昭和46年3月末配置の誤りです。
北恵那デ2
2018/07/08 21:27
こんばんは。
小生には国鉄のダブルルーフ客車の乗車経験がありません。東北にいたスハフ32や、変わった所ではスヤ37あたりが最古参客車です。
旧客の話題になってワクワクしております。九州で反対向きのオハニの経験もありますが「二」室は使われておらず、通り抜けできていました。
地元では昭和57年までぶどう色2号のままのスハフ42がありました。体質改善工事の[T]表記のある車でしたが青色ではなかったです。「ながさき」の佐世保編成(門モシ)にはニス塗りのスハフ42もあって、宿代わりに好んで乗りました。急行に運用する近代化改造と内容は異なるのでしょう。
3RT生
2018/07/08 21:46
北恵那デ2様 こんばんは。
訂正の件も了解です。
やはりスハフ42は定期列車ではなかったのですね。単機牽引で10両編成だと速度種別は低かったと思われ、録音としては絶好の条件だったのではないかと想像します。

昭和43年3月の配置表は手元にあるのですが、そのあと数年間の配置表が手元にないので、スハニの運用がなくなった時期の推定さえできませんでしたが、お調べいただきありがとうございました。
これまで私が検索等して閲覧した画像のうち、中央西線の合造車ハニが写っている最新の画像が昭和44年でしたから、ハニの運用がなくなった時期は御説と合致します。

昭和43年3月、名ナコに配置されていた電暖車は波動輸送の北陸線方面直通急行用でしょうかね。
ところで、昭和46年3月末に名ナコにオハ61が配置されているというのが、ちょっと腑に落ちません。おっしゃるように中央西線でその時期は見かけることがなかったですし、手元にある昭和43年3月の配置表では、オハフ61が4両配置されているものの、オハ61は配置がありません。どこかから流れてきたのでしょうか。また、その後の昭和48年3月の時点ではオハフ61、オハ61とも配置なしとなっています。
しなの7号
2018/07/08 22:13
3RT生様 こんにちは。
スヤ37って職用車ですね。見たこともないです。私の場合は小学生時代に遠出することがなかったので、地元でわずかに運用されていたダブルルーフ車や狭窓車しか知らず、同時に偏見のようなものがありました。どうせ乗るならよい設備の新しい客車に乗りたいという一般人的?な感覚でしたから、鉄道が好きだった者としては未熟でした。青い客車がよい客車=乗りたい客車でした。しかしそうとも限らない客車があることに小学生が気付きました。その話は来週、アップします。

身近に価値ある貴重品があったことがわかるようになったのは中学生以降で、SLブームになって鉄道雑誌を読むようになって視野が広まってからでした。同じ形式でも仕様の違いが見えてくると、けっこう意識しましたが、国鉄就職後には、また遠方に出かけることが少なくなって、全国から旧形客車がなくなっていきましたが、乗務する機会があったことはこの上ない思い出になっています。今思うと特にスハフ42の車掌室側が最後尾になって、去り行く駅を監視窓から見て、後部オーライと確認するときが最高に幸せな時だったかもしれないです。今の車両のように車両の向きが固定されていないのが不便でもあり、面白味でもありました。逆向き「ハニ」のニ室通り抜けは中央西線で経験したことがありません。二室では、そのとき荷扱いしていたのか、締切だったのかも思い出せません。
しなの7号
2018/07/09 10:38
しなの7号様、こんばんは。
荷物室側が必ず先端に来るように『ハニ』の向きをきっちり揃える事は行わなかったみたいですね。繋がってさえいれば、それで良し!って感じでしょうか。マニア的には面白味があります。
面白味と言えば、編成の中間に『ハニ』が挟まったパターン、これもマニア心をくすぐります。

意図的に荷物室の向きで、乗客の往来を妨げたパターンもあったみたいです。かつて東京と和歌山を結んでいた寝台列車ですが、和歌山線内は鈍行に連結されていたとの事で、
【牽引機-ハネ-『ハニ』-以下ハザ数両】
荷物室をハネ側に向けて、和歌山線内の乗客をハネに乗車させない工夫を施していた。私が産まれる以前の話ですが、知った時には『ああなるほど!そんな技があったのね』とおもいました。

即線に入るスイッチバック体験、こんなのが体験できれば鳥肌モノ、マニア心がゾクゾクしてこれは堪りません(*≧∇≦)ノ 

以上、全て私は未体験(オハニもスハニも出逢えず仕舞い)です。全てが合理化された現在、マニア心をくすぐる現象もめっきり減ったようです。
はやたま速玉早玉
2018/07/13 23:13
はやたま速玉早玉様 こんばんは。
電車や気動車は電気的なことなど制約が多くて、編成単位で運用されるようになりましたが、 旧客は向きを特定する必要性がないですね。長距離運用や、宮原のような車両基地に入るルートによって、運用中に向きが逆転するケースもあったのでしょうか。
乗客の往来を遮断するため?荷物室をあえて中間に連結するようなこともあったのですか。そういえば例の紀勢本線名古屋行924列車も、和歌山市始発の亀山行オハフを和歌山〜亀山間で最前部に連結していた時期がありました。本編成のスユニが邪魔をして遮断された状態で走っていていました。あのスユニの向きはニ室が亀山方でユ室が天王寺方に揃えてありました。
今は見ることも体験できないこともたくさんありますが、旧客の時代を知っておられることは、それだけで大切な思い出、財産だと思いますよ。
しなの7号
2018/07/14 21:09

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