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zoom RSS 【895】 槇ヶ根越え 《中央西線 恵那→武並》

<<   作成日時 : 2018/07/09 06:20   >>

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子供のころ、中央西線では蒸気機関車が牽引する列車が多かった。冷房はもちろんなかったし、扇風機さえもない客車がふつうにあったから、夏場には窓を開放しなければならなかった。そういえば機関車の煙突からけむりといっしょに排出された粉塵が目に入って痛い思いをしたことだって何回もあった。旧形客車の中には、煙から出る粉塵除けの網戸が装備されていた車両もあった。
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(画像はリニア鉄道館の展示車)
窓からは煙が入るから窓側に座った人がトンネルに入るたびに窓を閉め、出れば開けなければならなかった。
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オハ31とオハ60の窓割だと、トンネルに出入りするたびに、4人掛けのボックス席に背中あわせに乗っている乗客同士がお互い後ろを振り返って、示し合わせて窓を開閉することになる。中央西線のようなトンネルが多い線区では煩わしい。そんなとき振り向いた前後のボックスが無人だったり、私のような幼児が乗っていると、大人が背ずりの上から手を伸ばして前後のボックスの窓を開閉したりした。オハ35系やオハ61系の広窓車では、言うまでもなく相席になった窓側の2人で協力して開閉しなければならなかったが、お互いの力の入れ具合によっては、窓枠が斜めになってしまって、うまく開閉できないこともあった。
子供のころに、中央西線をよく利用したが、私は山間部の中津川以北の蒸気列車に乗ったことはほとんどなかったから、それほどトンネルや勾配区間を経験することはないだろうと思われる方がおられるかもしれないが、そうでもなかった。
参考として昭和40年10月1日改正の名古屋鉄道管理局発行の列車ダイヤに記載された名古屋〜中津川間における各駅間の標準勾配の数値を見ていくと、木曽方面に登っていく下り列車に対して釜戸〜武並〜恵那〜美乃坂本間が22.0〜25.0‰である。それはいいとして、反対に名古屋に向かって下っていくはずの上り列車に対しては、中津川〜美乃坂本間と恵那〜武並間が25.0‰となっていて、意外にも急な上り勾配があることがわかる。
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盆地である中津川と恵那の前後はどうしてもアップダウンが伴う。木曽谷のような長い勾配区間がひたすら続くわけではなかったが、発車直後からいきなり25‰という急勾配になることは蒸気機関車にはけっこうきついわけで、特に恵那・武並間にある延長730mの槇ヶ根トンネル内は名古屋方に向けて登る片勾配になっていて、名古屋方出口付近がサミットになっていた。つまり名古屋方面へ向かう上り列車にとって難所となった。
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上の画像は恵那を出て25‰を上ってくる上り急行赤倉号である。中央のくぼんだあたりが恵那駅で、その高低差が少しはお判りいただけるだろうか。
このあと谷筋に分け入り、国道19号線と並走する。下の画像の赤線を入れた部分に線路が敷かれている。これは現在の様子であるが、左の山腹に中央自動車道ができたほかに周囲は当時とそれほど変わっていない。
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地形としては、槇ヶ根トンネルの名古屋方出口付近を境にして、中津川方が木曽川水系で、名古屋方は庄内川水系に分かれる。山間部を最短距離で京都に向かう旧中山道と、名古屋に向かう下街道とが分岐するのもこのあたりである。

鉄道の思い出ではないが、槇ヶ根越えの思い出がある。まだ未就学のころだと記憶するから昭和38年ころのことだったと思う。町内会の日帰りバス旅行で、上の画像付近の国道19号線工事現場でバスがぬかるみにはまって立ち往生したことがあった。崖を削って現在のような片側1車線ずつの舗装道路に拡幅するための工事だったように思う。そのときは乗客がみな泥だらけの道路に降ろされ、大人たちがみんなで後ろからバスを押して脱出した。国道と線路と並行しているところだったから、工事をしているのを列車から見たこともあったので、この場所に間違いないが、画像を見ても、そんなところとは想像がつかない。急速に道路が整備され舗装道路が増えていったころのことで、そのころまでが鉄道が陸上交通の王座でありえた時代だったということだろう。

その鉄道の方にも思い出はある。この槇ヶ根越えでは機関車が苦労して登っていることが乗客として乗っていた小学校低学年の子供にも伝わってきた。上の画像撮影地点から振り返ったところに槇ヶ根トンネルが口を開けている。下は、現在の上りしなの号が槇ヶ根トンネルに入るところを列車の後方から撮影した画像。
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蒸機時代は、トンネルに入るときの汽笛を合図に窓側の乗客がいっせいに窓を閉めるが、トンネルに入ってしまえば、閉めた窓の隙間から、客室の前後にある仕切り扉の隙間から、そして天井のベンチレーターから、わずかな隙間からでも煙はもうもうと入ってきて、車内はたちまち煙で充満した。
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現在の恵那側の槇ヶ根トンネル入口。

窓ガラスの外は灰色の煙で覆われて、機関車の煙突から煙とともに排出された蒸気が水滴になって窓ガラスの外側を曇らせ、真っ黒な煤がこびりついているはずのトンネルの側壁など見えなかった。そして列車によっては一段と速度が落ちて、よそで経験したことがないような客車が前後に短い周期で振動することがあった。その振動は大きくなり、また小さくなるといったことが数秒おきに繰り返された。そのたびごとに客室の前後にある仕切り扉がその振動で音をたて、ガタガタガタガタ・・・・・ガタガタガタガタ・・・・・という音が繰り返されていた。こういうときは速度がかなり落ちていて煙も濃いので、窓を全部閉めていても室内灯が霞んで見えるほどになった。貨物列車であれば機関車が空転をして、前進が困難になったこともあったのだろう。槇ヶ根トンネルは名古屋へ向かっての片勾配だから、トンネルを出るまでの730mの我慢会になる。外の光が客室の前部から「徐々に」射してくると、その我慢会が終わる。その通過時間の長いこと。トンネルを出ると、一斉に窓を全開した。これは電車しか知らない方や平坦線しか乗ったことがない方にはわからない感覚だと思う。

この区間は複線化にあたって、新設された下り線は3倍以上長い2761mもある新槇ヶ根トンネルを経由する別ルートになった。一時的にその新トンネルが単線運転として運用され、その間に槇ヶ根トンネルの電化に伴う改修工事が行われ、完成後はそのまま上り線として供用されている。工事完成後、決して新しくもない70系電車に乗った時に、その勾配は変わらないのに平坦地と遜色のない速さで勾配を上り、まるで別のトンネルではないかと思うほどの短時間で一気に槇ヶ根トンネルを列車が抜けていくことに驚いた。それまでも運行されていた気動車列車でもそんな速度は出ていなかったし、排気ガスが室内に侵入していた。近年は実家へ往復することがなくなってしまったが、たまにここを通ると蒸機時代にむせた煙の匂いを懐かしく思いだす。
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画像は槇ヶ根を越えて武並に下ってくる上り赤倉号。
蒸機時代の時刻表で恵那〜武並間の上り普通列車の所要時分を見ると、客車列車で最短の列車が10分で、現行では5分である。蒸気列車といってもトンネルを出てからの下り勾配では速度がかなり出たはずだから、蒸気列車のトンネル内での速度は今の3分の1以下だったのではないかと思う。




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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
今晩は。記事の通りかつては上り勾配のトンネルに入ると短いショータイムでしたね。
中津川ー落合川間の第一落合山トンネルも上り列車に対して25パーミルの上り勾配で出口付近が峠になっており、槇ケ根よりこちらの方が若干短いでしょうがよく似ていました。D51の牽く定期旅客列車最終日の昭和46年4月25日に826レに乗車し体験しました。牽引機はD51 903で車内音の録音もしましたが、マイクロフォンが風を受けてゴボゴボ音が多すぎ台無しでした。前にも同じこと書きましたっけ?
ところで客車配置表の件ですが、名古屋の鉄道書籍出版社のサイト「鉄道図書館」で再度確認しますと、昭和46年3月末の名ナコにオハ61が12両在籍してます。全て電暖車です。どうしてこの年に増えているのか不思議です。
また訂正ですが、スハ32と33も少数ながら昭和46年に残ってます。ハニはありません。
北恵那デ2
2018/07/09 20:52
峠越えの蒸機列車、懐かしい光景を見事に表現してくださいました。ありがとうございます。
SL独特のあの前後動と、ビリビリ、ミシミシいう旧型客車の乗り心地、匂いと熱気は、今では味わうことはかないませんね。
網戸はシンダー避けだったのですね。九州の客車には10系も含めて(よろい戸の車は除いて)殆ど装備されていましたが、当時は九州は蚊が多いから?と思っていました。それだけ無煙化が遅れていたということなのでしょう。そういえば幼いころ、母親と乗った山陽本線の10系寝台(「しろやま」か?)の寝台側の狭窓にも網戸があったのを思い出しました。
3RT生
2018/07/09 23:46
初めまして。
車両などに疎い私です。
記事を拝見して緑豊かな「中央西線」を旅してみたくなりました。

私のSL体験は、子どものころスキーや夏旅行で利用した信越線。軽井沢から先がD51だった記憶…上野を夜行でたつと、軽井沢から朝焼けの高原を長野に向かって快走していく。
次は上野駅の両大師橋から眺めた常磐→成田線経由の成田行きSL牽引列車。
3つ目は高崎〜水上のD51(高崎〜上野はEF58)イベント列車です。
電車と違い「ガッツーン」と音をたて発車する機関車が牽く列車が懐かしいです。
103系
2018/07/10 07:46
しなの7号様おはようございます。
中央本線の複線化は線形の改良も兼ねて一気に複線の別線で作られているところもありますが結構上下線で別ルートを形成しているところもあります。
古くからのトンネルは味わいがありますね。
お話にあるように名古屋へ向かっての登り勾配があるのも意外です。
蒸機列車は私が小学生のころ地元筑豊では数多く残っていましたが客車列車はほとんど乗った記憶が無いです。
当然走っていますがかなり気動車化が進んでいて旅客列車は先行していたようです
貨物列車はまだ全部蒸機牽引でした。
と言うことで窓の開け閉め少ないながらやったことがあります。
小さかったので楽しかったですし煙が入ってくるのも石炭の薫りも面白かった。
窓を開けていて構内入れ換えか何かで隣合わせになった機関車の乗務員からお菓子を頂いた思い出があります。
ヒデヨシ
2018/07/10 07:49
北恵那デ2様 こんにちは。
無煙化、ルート変更、冷房化、高速化などによって、確実に快適な移動ができるようになった今、あのころの槇ヶ根越えを含むいくつもの「ショータイム」が今、同じ線区を走っていても味わえなくなりました。
そういえば第一落合山トンネルも片勾配ですね。私は中央西線のまともな車内録音は一つも記録できていません。睡眠導入用の音は、SL関係ですと倉吉線C11・高森線C12・田川線9600の3つで賄っています。あんまりワクワクするとかえって寝られなくなるかもしれない…

名ナコのオハ61についてお調べいただき、ありがとうございました。
全て電暖車ということと、マヌ34の運用が終わったあとであることから、中央西線用のように思えますね。昭和45年頃といえば、部活とか鉄道以外のことに時間を費やしていたはずですから、気にしていない間に電暖化直後に名ナコのオハ61も地元を走っていたのかもしれないですね…。オハ35系とかの電暖化までのつなぎ役だったですかね?
しなの7号
2018/07/10 15:17
3RT生様 こんにちは。
旧客は気動車や電車にないものを人の五感に伝えてくれますね。
停車中にまったく音がしなくなった車内で、いきなりミシミシッと音がしてびっくりしたことがあります。かえってそういうときに客車列車の静けさを感じるものです。あの静けさがよかったりします。
本文に「オハ35系以降に網戸」と書きましたが、戦後の鋼体化普通車に網戸はなかったと思いますので、誤りと思いましたので訂正しました。ブラインド装備車にはあったということですかね。「10系寝台の網戸」で思い当たったのが古い鉄道ジャーナル誌の表紙で、確か家にあったはず…と探したら1982年12月号でした。2連になったハネの窓の大写しに、ばっちり網戸が写ってます。
しなの7号
2018/07/10 15:18
103系様 はじめまして。
ご覧いただきましてありがとうございます。
自分は…と顧みるに、SL夜行列車に乗った経験がありません。早朝の高原を走るSL列車は最高の思い出ですね。浅間山を背景とした189系時代の「あさま」が掲げていたトレインマークの図柄の風景が思い浮かびます。
上野から成田線直通のC57も有名でしたが、写真撮影を始めたのは、それよりあとだったので、雑誌でしか見たことがありません。あのころからSL人気が高まってきたような。
その気になれば、今でもSLと旧形客車を組み合わせた列車に乗れるということは、人気だけでなく動く文化財として認められているわけで、ありがたいことと思います。
中央西線は、この上のほうにあるヒデヨシ様のコメントにもあるように、複線でも並行せず別ルートだったりしますし、車窓をぼんやり眺めているだけでも楽しい路線だと自分ではいつも思っています。ただし、特急で通過してしまうにはあまりにあっけないし、普通列車でも今は高速なので見どころを一瞬で通過してしまい、短編成化されたこともあって快適に過ごせる保証がないのが難点です。
しなの7号
2018/07/10 15:18
ヒデヨシ様 こんにちは。
おっしゃるように、中央西線では上下線が離れたり、段差があったり、単純に並行していない区間がけっこうありますね。それに現在線に切り換えられ打ち捨てられた旧線跡や廃トンネルもところどころに残り、線路周辺を見ているだけでも飽きないです。
中央西線ではけっこう早い時期から気動車が導入されていましたが、準急・急行列車中心で、普通旅客列車の主力はD51牽引でした。一部には普通気動車列車もありまして、アルミサッシのキハ20系以降の窓が軽くて開けやすかったのに対して、キハ17とか旧客の木製窓枠車は、子供にはうまく開閉できないことがありました。
窓越しにお菓子をもらうとは、なかなかない面白いご経験をされていますね。鉄道も社会も大きく変わった今、信じられないことですね。
しなの7号
2018/07/10 15:19
しなの7号様、こんばんは。
ヒデヨシ様もコメントされていましたが、私も中央西線の車窓からは、別ルート区間が多いなぁと感じ、紀勢本線の複線区間に似ているなとおもいました。直線区間の長さ、トンネルの長さや造りで新線旧線の判別が可能ですが、旧線の方が楽しいですね。旧線を走行するのも、新線を走行中に旧線を望むのも、どちらも良し!なのですが。

昭和30年代は、日本の道路事情は低水準で米国からは『日本の道路は信じがたいほど悪い。工業国にして、ここまで道路網を無視してきた国はない』と酷評されていたらしいです。昭和30年代後半から全国各地で国道の都市部バイパス化、道路拡張が進められたようです。
私の身近には国道9号、24号がありますがこの両者、京都市内の旧道は『えっ?これが現役の国道だった…?』と信じがたいレベルです。9と24ですから、かなり若番号の国道、こんな格上の国道でも低水準の有り様でした(旧道沿線がヘボいという意味ではありません、道路網として低水準という意味です、誤解を招いてはいけないので念のため)。

結果、全国で道路網が充実、しかし反比例して鉄道網の衰退を引き起こしてしまいましたね…
(幹線道路の旧道区間をのんびりと歩く旅はとっても愉しいです)
はやたま速玉早玉
2018/07/17 00:45
はやたま速玉早玉様 こんにちは。
おっしゃるように、線増区間では一般的に単線時代からあったほうの線路のほうが、トンネル区間が少なく眺めも良いですね。それとは別に、単線時代の線路を打ち捨てて新線を建設した区間から、廃線部分が分かれ、また寄ってくるのを眺めるのもまた一興です。

木曽区間に入りますと、並行する国道19号線と、その旧道、さらに古い中山道も絡み合う様子を眺めるのもまた、自分にとっては車窓の楽しみの一つになっています。鉄道より道路のほうが歴史が古い関係上、中山道沿道には史跡が多いのですが、中央西線は明治時代に全通した古い鉄道で、愛岐トンネル群のように旧線跡が歴史的遺産として認知されつつあることは良いことだと思います。

幼少時から高校生になるまでの間に、近くの国道19号線は鉄道の複線電化同様に大きく発展していきました。商店街部分以外は舗装道路で狭い道だったのが舗装され、次いで別ルートで現国道が完成。中央自動車道が開通するまでになりました。昭和40年代はそういう時代でしたが、昭和50年代に入って自分が国鉄に就職して自家用車を持つと、自動車の便利さに取りつかれ、移動は自動車中心で、職業とした鉄道は通勤と乗務以外には使わなくなってしまいました。国鉄を退職した平成時代には、鉄道に積極的に乗り歩くようになるわけですが、今も自動車は生活に必需品です。
しなの7号
2018/07/17 17:18

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