この鉄道に関する直前の記事は「【180】北恵那鉄道13:その廃線跡(11)中津町へ 」です。
中津町駅は北恵那鉄道の起点駅でした。
時刻表には連絡駅として「中津川」と表示されていましたが、実際には国鉄の中津川駅とは離れていて、国鉄から乗換の乗客は直接乗換ができませんでした。
それも国鉄の中津川駅から、駅前広場を横切って市街地を左に曲がり右に曲がりといったことを繰り返し、ついには中央西線のガード下をくぐって駅裏にのほうへ出るとこの中津町駅にたどり着くという、たいへん乗換には不便な駅で、6~7分くらいは歩かねばなりませんでした。
この駅にはまるで学校か役場のような木造2階建ての駅舎があって2階は北恵那鉄道の本社でした。
現在は駐車場として使用されていて、面影は残っていません。
駅からはこの地方のシンボル恵那山が見えました。
現在も駅裏には製紙工場がありますが、北恵那鉄道ではこの製紙工場の専用線的な役割も担っていて、貨物専用ホームがありました。旅客用ホームは駅舎前の1本だけでした。
国鉄の貨車が乗り入れて、専用ホームで積込作業が行われていました。
乗客は前述のように国鉄との乗換には歩かねばならないのですが、貨物は専用の連絡線が設けられていて、機関車または電車が国鉄中津川駅まで乗り入れて貨車の授受をしていました。
下はその連絡線を中津町駅側から撮ったものです。途中1か所に手動の踏切がありました。自動車がその踏切で貨物列車の通過を待っています。
駅に隣接して下付知寄りには車庫と変電所がありました。
廃止後も車庫はそのまま残され、その隣には台車を外された電車が木工作業場として置かれていましたが、いずれも現存しません。
下の写真はそれらが健在であった頃の写真です。車庫建物の左側に電車を利用した木工作業場が見えます。
1993年の撮影です。
現況は下のとおりで、土間コンクリートだけが残っていました。木工作業場として残っていた電車は不幸なことに不審火で焼失してしまったということです。
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長々と終点下付知から中津町に向かって駅跡を中心に廃線跡を巡ってまいりました。
廃線跡を巡るブログ記事やサイトは多くあろうかと思いますが、自らが実際に見た場所に再び立つということで、現役時代と対比した形での廃線跡のご紹介を中心にして、全くこの鉄道をご存じない方にもわかりやすくしたつもりですが、全く同じ場所で同じ角度で同じ焦点距離でという撮影は困難で、必ずしもうまく表現できなかったという反省点はございます。お付き合いいただきました皆様方には謹んでお礼申し上げます。
北恵那鉄道につきましては、思い出話や車両のご紹介など、まだまだアップしたいことが多く残っています^^;
廃線跡についてはこれで終了となりますが、いずれ近い将来にはアップしたいと考えております。
この記事へのコメント
京阪快急3000
北恵那鉄道の記録、大変興味深く、拝見しました。
中津町駅の駅舎は「木造駅舎」で、貨物駅もあったのですね。
このような鉄道会社が存在していた事は、私は全然知りませんでした。
こちら関西ならば、1994年に廃止された、最後は阪神の小型車が運用されていた野上電気鉄道が、雰囲気的には近いかなと思いました。
また思い出話など、聞かせて下さい。期待しています。
しなの7号
お読みいただきありがとうございました。
中津町駅は国鉄線とは無関係な感じの野上電鉄の旧日方駅と立地はよく似ていますね。車両や設備にも似たような雰囲気があります。
投稿時刻が7月7日7時になってますね。コメントありがとうございました。
南駒ケ岳
しなの7号
コメントいただきありがとうございます。
国鉄中津川駅から中津町駅への道も、この写真を撮った時久々に歩いてみましたが、くたびれていましたねえ。
特に中津川は国鉄の現業機関がたくさんあって、北恵那鉄道も含めると、直接間接を含め鉄道に関わる人たちが大勢働いていたこともあって、街に活気があったのだと思います。
私も中学校の時に、学校から貸切の北恵那バスで付知峡へキャンプに行きました。まだ国道も未整備で、すれ違いが困難な道路がほとんどでした。北恵那鉄道が日中の運行をバスに移行したのは1972年(昭和47年)のことです。
hmd
今日は陽が落ちてから、少し涼しくなって来ています。
北恵那鉄道廃線跡レポート、おつかれさまでした (^_^)/
ウェブ公開されている廃線跡レポートは現在の写真のみ紹介が多いので、今回のしなの7号さん秘蔵の現役時代の写真との現場対比は非常に面白かったです。
こう見ていくと町や鉄道の移り変わりも、まるで自然の一部になっている様な感じもして、不思議な印象も感じました。
国鉄と私鉄の距離のある乗り換え駅も、以前は当たり前だった様な気がします。
駅と駅との間の門前町、ならぬ駅前町?も今以上に活気があり、当日の訪問先への果物などの贈り物を買った思い出があります。
こちらも殆どの主要駅は駅が移動して隣接するようになりましたが、それも昭和の風景になりつつありますね。
起点駅に変電所も珍しいかと思いました。終点付近の電圧降下は大丈夫だったのでしょうか?
またの廃線跡シリーズや車両編も期待しております (^_^)/
くろしお1号
前回は、先走った疑問をコメントしてしまいましたが、やはり中央線とつながっていたのですね。当時の旅客輸送、それにも増して貨物輸送が、如何に鉄道を中心としていたかが偲ばれます。
今回のシリーズは、hmd様のコメントにもありましたが、単に廃線跡の現状レポートでなく、貴重な在りし日の姿をきちんと保存され、それに現在の様子を重ね合わせてストーリーを進められたので、私のような北恵那鉄道ビギナーにも理解しやすく、まるで過去に乗ったことがあるかのような錯覚さえ覚えました。
執筆にあたっては、資料整理、現状の踏査、文章の推敲と、多くのご尽力をいただいたものと思います。毎回楽しく拝読させていただき、ありがとうございました。
これからも、こちらに寄せていただいては、古き佳き昭和の鉄道に想いを馳せたいばかりです。
しなの7号
北恵那鉄道廃線跡の連載も中断したりしましたが、お付き合いいただきありがとうございました。
北恵那鉄道廃止直後に国鉄中津川駅前にダイエーのFC店が開店したのですが、それさえ今では閉店して久しく、十年以上経ってしまいました。民営化によってJRの中央西線の列車も増えて便利になったにもかかわらず、駅前の活気はあまり感じられず、地方都市の駅前商店街も昭和の風景として過去のものとなっていくのはさびしいものです。
変電所の件ですが、本文では触れませんでしたが中間駅の美濃福岡にもう一つの変電所がありました。それでも2両の電動車編成だと電圧降下が甚だしかったそうです。
しなの7号
縁もゆかりもない地方の小私鉄の話にお付き合いいただきありがとうございました。
できることなら現役時代をしのぶべく、保存車輛があったりするとイメージが膨らむのですが、叶いませんでしたので、下手な写真との対比で現役時代をご想像いただければと思って紹介しました。
記事中のウェブりマップの航空写真で駅跡を中心にマークしてありますので、ご訪問の際には、航空写真をクリックしていただいて地図の表示にしていただければ場所の特定は容易にしていただけますのでご活用の上、ぜひ訪問してみてください。木曽川鉄橋くらいならJR中央西線で中津川から徒歩でも可能です。木曽川以北だと自動車の利用がお勧めです。
その奥にある付知峡は秋の紅葉も見事ですよ。
ラモス
皆さんがコメントされているように、今昔の写真を並べ、地図を併記されるなどとても分かり易く、興味深く拝見させて頂きました。
しなの7号様は瀬戸市民公園に保存されている同型(560型?)はご存じでしょうか?
何年か前に見に行きましたが想像よりずっと大きい印象でした。
当時働いていた車両達の事も、また続編がありましたら是非ご紹介下さい☆
ありがとうございました。
しなの7号
コメントありがとうございました。
そうでしたね。瀬戸市民公園の名鉄モ766が北恵那末期の主力車モ560形と同形でした。家からは近いので、ずいぶん前に見て写真も撮りましたので調べましたら、それは20年も前でした。それからご無沙汰しています(^_^;)
その時の写真を見るとヘッドライトが屋根上から車体正面中央に移設されていまして、現役末期とは印象が変わってしまっていました。新製時の様子に戻したのでしょうが、自分としては見慣れた屋根上のヘッドライトのほうが好きです。
その存在も忘れかけていましたので、また様子を見てまいります。ありがとうございました。
車輛の紹介はしばらく先になると思いますので悪しからずご了承願いますm(__)m
しげぞう@
今日は休みなので、ゆっくりブログを拝見してます。北恵那鉄道の貴重な記録、興味深く拝読しました。残念ながら、営業中の記憶は全くないのですが、現在地との比較写真もあり、大変分かりやすかったです。
廃止される頃だったでしょうか、付知と明知を教えてくれた叔父さんを思い出しました。車両のお話も続編を期待してます。また宜しくお願い致します_(._.)_
しなの7号
ご覧いただきありがとうございました。
何十年もしてから同じ場所に立つと、面影が残っていたりまったく変わり果てていたりと、場所によっていろいろですが、車両、建物はいちばん早く失われ、鉄橋がいちばんの遺跡ですね。しばらく廃線跡も見に行っていないので、そのうちに出かけなければと思っています。
付知と明知。どちらも鉄道の終点となった街でしたが、明知のほうには鉄道が残りました。鉄道利用者は少ないながらも鉄道を活用した活性化に努力しておられるようです。せっかく残った財産が末永く利用されますように。
ぺん66
北恵那鉄道のブログを懐かしく拝見させていただきました。北恵那鉄道には、たまに夏の付知川あそびの遠出で乗るくらいでしたが、現役当時の中津町駅前をいつも横切って通学していました。おかげさまで忘れていた古い記憶が呼び起こされ感慨ひとしおです。ありがとうございます。
ところで上記のコメントで私の記憶と異なる部分があったので調べてみました。北恵那鉄道廃止後にFCダイエー店開店とありますが、Wikiによると1971年開店のようです。実際私もダイエーのゲームコーナーで遊んだ記憶がありますが、その時はまだ北恵那鉄道は現役でした。北恵那鉄道は1978年廃止ですし、きっと勘違いされたもの思われます。
ともあれ、このような素晴らしい記事をUPされたしなの7号様には感謝あるのみです。
しなの7号
ご覧いただきましてありがとうございました。
生活の中にあった鉄道風景は何十年経っても記憶には残るものですね。
FCダイエー店についてもお調べいただきありがとうございました。
Wikiを見ますと、たしかにFCダイエー店の開店は1971年になっていますね。私も正確な開店日を知らないので、少し調べましたら「駅前再開発事業は1976年5月起工」「1978年10月完成」(以上、「」内は1987年8月中津川市企画商工部企画広報課刊の市制35周年記念中津川市勢要覧より)とされていましたので、Wikiにある1971年には開店していないと思います。
FCダイエーエコーはその駅前再開発事業のなかで駅前ショッピングの中核となったビル(D棟)として建設されましたので、私が考えるには、要覧にある「1978年10月完成」は駅舎も完成してすべての再開発事業が完了した時期を言っているのであって、ご記憶のように北恵那鉄道営業中にFCダイエーエコーは市の再開発事業完成を待たずに開店したものと考えました。事実、私の撮影した北恵那鉄道中津町駅の画像に、その背後にそのビルが写っているものがありました(*_*;。そして1975年前後には駅前で再開発工事開始に伴う国鉄物資部の移転が行われていた記憶もあるのでWikiで書かれている開店年は怪しいですが、北恵那鉄道と並存期間があったということは間違いないように思います。ご指摘いただきありがとうございました。
88414
北恵那鉄道拝見しました。
地元で何化できないかと、北恵那鉄道「デ2」型のペーパークラフトを作りました。
Webで無料公開中です。
よろしかったら、作ってみてください。
https://h88414.blog.fc2.com/blog-entry-5.html
これからも、北恵那鉄道をよろしくお願いいたします。
しなの7号
リンク先ページ拝見いたしました。
特徴がよく捉えられていますね。時間に余裕ができたら作成してみようと思います。うまく完成できたら拙ブログでも紹介させていただくかもしれません。