【254】 武豊泊りでの思い出

武豊線は車掌時代にいつも乗務していた線区でした。
私が乗務していた昭和50年代、この武豊線の終点である武豊駅で夜を明かすキハ35で編成された列車が3本ありました。武豊駅のホームは1本だけなので、最終列車はそのままホームに着いて乗客を降ろした後は、ホーム先端付近まで移動するだけでしたが、その1本前と2本前の列車は、側線への転線入換がありました。当時はまだ貨物輸送の関係で、機関車の付け替え(機回し)ができるような線路配置になっていました。

先日ひさしぶりに訪れた武豊駅の構内を見ると、キハ35を留置した側線は2本とも現存していましたが、線路は終端側(南側)の一部が撤去されてしまい機回しはできなくなっていました。
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また、上の写真では、2本の側線の向こうには住宅が並んでいますが、その部分には貨物用の側線と積みこみのための設備があったのですが、広かった構内はかなり狭くなっていました。

武豊駅は終着駅ですが、その先に貨物専用線があったので現在のような行き止まり型でなく、ホームの終端より南方へ線路が伸び、構内のはずれを通る道路には踏切がありました。
下の写真は駅ホームから南方(線路終端方向)を見たものです。線路終端付近には電化工事のための資材がたくさん置いてありました。自動車が写っているところが道路でに本線の延長線上と交わるところに踏切がありました。
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3本の列車が滞泊するので、運転士と車掌も各3人ずつが武豊に泊まりました。運転士も車掌も、出先の宿泊は乗泊と呼ばれる「乗務員宿泊所」を利用しますが、この武豊乗泊は前述の踏切の近くにある木造民家の2階の間借りでした。風呂は使わせてもらえませんでしたので、我慢するか直前の乗務列車への乗務前に大府駅の風呂を借用して入っておくしかありませんでした。
武豊駅に着いて転線入換作業を終えると、ホーム上の乗継詰所にカバンほかの携行品を置いてから、その民家まで歩いていきました。門扉を開け、玄関から黙って入りました。夜も更けているので「こんばんは」とか「おじゃまします」とか挨拶するでもなく、静まり返っているその家に勝手に上がり込んで、2階への階段を昇りました。2階には襖で仕切られた2つの和室があり、それぞれの部屋に車掌3人と運転士3人が寝泊りしました。ふとんは家の人が敷いておいてくれました。階段を昇った脇、玄関の真上にあたる部分に、別に小さな和室が一間あって、そこにはお湯と湯呑みが用意されていて、白黒テレビも置かれ談話室として使われていました。最終列車の運転士と乗務員が来るまで、その部屋で近くの酒屋で買った缶ビールを飲みながら、テレビを見たり、お客さんが車内に捨てていった夕刊を持ってきて読んだり、喋って過ごしたものです。最終列車の運転士が車両の留置手配をしてくるので一番遅くここへ来ますので、それまでは玄関も施錠されておらず、物騒な家ではありますが、その最終列車の運転士がその家の玄関を施錠することになっていました。最終列車の車掌が、酒屋へ缶ビールを買いに行っていたりして、運転士より遅れてしまい閉めだされたという笑い話もありましたが、テレビがある和室には「鉄道電話」が置かれ、緊急の連絡はこの電話によっていました。閉めだされた車掌はホーム上にある乗継詰所から「おい、カギ開けてくれ!」とここへ電話するわけです。

先日、武豊へ行ったときに現況をみてきました。
前述の踏切があったのはこの場所です。その踏切跡から武豊駅構内方面を見たものです。
道路は名鉄の知多武豊駅のほうへ行く道です。
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乗泊として利用していた民家は現在もそのまま建っていました。(個人の住宅ですので写真は掲載しません。)外壁を張替えたり補修されていましたが、表札もそのままで、二階の窓は開け放たれてふとんが干してありました。今もお住まいになっておられるようでした。全く他人の家なのに、室内の様子がわかってしまっているのは非常に不思議な感覚です。当時は深夜と早朝しか出入りしない私たち乗務員と、この家の住人とが顔を合わせることは稀で、たまたま1階のトイレに行って出くわすくらいしかありませんでした。いまさらご挨拶に行くこともないでしょうからそれは省略としました。
夜、乗務が終わってからその踏切を越えて少し行ったところにあった酒屋さんも健在でした。
下の写真画面の道路の奥が前述の踏切があったところです。
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ここで、以前のブログ記事「【61】釜戸泊りでのできごと(1)」に書きましたのと同じように、最初に武豊へ着く車掌は、事前に始発駅の大府の詰所で後続列車の車掌に「ビールいる?」と聞いておいて、まとめて買ってくるのですが、「キンキンに冷えたのが飲みたいで、自分で買いに行ってくるでええわ」という人もありました。

この酒屋さんは地酒専門店として営業しておられるようです。この日は訪ねませんでしたが、次に来るときには、ここで酒を買ってみたいと思っています。

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この記事へのコメント

  • デキ501

    はじめまして、何時もブログ楽しく拝見させていただいております、私も国鉄から現JRまで二十数年間列車掛や
    車掌を経験し大変懐かしく思いコメントさせていただきました。特に今回の缶ビールは最高ですね、今では冷房車全盛の時代ですが、国鉄からJR移り変わり頃は緩急車は勿論、電車も165系くらいしか冷房は効いてませんでした(運転席は効きませんが)そんな乗務後の楽しみと言えばやはりビールでした、乗泊近くの酒屋で買ったり、夕飯がてら顔見知りの店で生ビール乗務中の暑さも吹っ飛びました。
    ホントあの頃は乗務していても楽しかったです。これからも楽しく懐かしいブログお願いします。
    2012年03月05日 21:10
  • しなの7号

    デキ501様 はじめまして。
    国鉄時代はその日の乗務が終わるとビールも飲めて良い時代でした。出先によって、乗務員が集まる店が決まってましたですね。缶ビールは小さな町では酒屋さんで買ったり、駅のKIOSKでも買ってました。
    「ホントあの頃は乗務していても楽しかったです。」のお言葉、なにか真実味がありますが、世の中が四半世紀の間に動いてきたということなのでしょう。
    これからもよろしくお願いします。
    2012年03月05日 21:44
  • 貨車区一貧乏

    こんばんは
    民家の間借りの乗泊があったんですね。
    私の場合は、車掌区、貨車区、電車区、駅、などで委託は残念ながら無かったです
     しいてあるとするなら、宿泊駅舎工事のため半年くらい駅の向いのビジネスホテルを利用したときくらいでしょうか
    個室で冷暖房完備で、購入すればカード式の○○ビデオが見れる・・・なんて区内で話題になりましたが根が小心ものなので、見れませんでした(;一_一)

    ちなみに武豊ではどのようにして起きたのですか?
    起床装置の利用ですか?素朴な疑問です。
    2012年03月05日 22:42
  • しなの7号

    貨車区一貧乏様 おはようございます。
    私が経験した「民泊」はこの武豊だけでした。当時は他に瑞浪(中央本線)が同様でしたが、その組に所属しませんでしたので、駅舎が新築されたときに駅の2階に乗泊設備が造られ消滅してしまい、私が泊る機会はありませんでした。
    それにしてもビジネスホテルとは破格ですね(゜o゜)
    ○○ビデオも見れる乗泊なんぞ前代未聞。これは楽しみ
    乗泊で一番豪華だったのは、見習で泊った新潟乗泊でした。上越新幹線開通で新築された乗泊は2段ベッドでないのが画期的で、ホテルみたい!に思えたものでした。

    武豊も起床装置でした。最初の列車で来た車掌は同室になる他の2人の分も起床時刻をセットすることに決まっているわけでもないですが、そうしていました。
    起床装置については、一般の方にはわかりにくいので、いずれブログ記事にしなくてはいけませんね(^_^;)
    2012年03月06日 07:24
  • 野良太郎

    お邪魔します猫

    国鉄時代は僕のバイト先には勤務終了の職員さんが集中してましたよ!米子駅のすぐ横でしたから、特に夏は生ビールが飛ぶ様に出ましたね~exclamation車掌区関係はもとより、当時の管理局関係、機関区関係、駅関係、国鉄御用達でした!夕方などは勤務終了のビール片手に宴会は日常茶飯事、毎度の事でした!一番の強者は急行○○○○で朝一番米子で片道乗務終了の○○車掌区の車掌長さんです夜の最終乗務まで時間があり、朝から生ビール大ジョキで最低5杯はのんで乗泊で寝る方でした!そしてしっかりした足取りで歩いて乗泊に歩いて行かれました!僕は感心しまくりでした!
    2012年03月07日 17:40
  • しなの7号

    野良太郎様

    今のオフィス街隣接の飲食店街と同じで、大きな国鉄駅には多くの現業機関が集まっていて、国鉄職員で流行っていたものですね。車掌区もその一部でした。
    酒だけでなく、朝っぱらからパチンコ屋に通うのも国鉄職員だったりしましたが、深夜勤務で朝仕事を終えるという一般に理解しにくい勤務形態ですから国鉄職員は悪い者たちのように思われるのも無理はないですが、必ずしもそういうものではなかったと思っております。
    今は駅前商店街とともに衰退したところが多いのでしょうね。
    2012年03月07日 19:45
  • hmd

    しなの7号さん、こんばんは。此方は三寒四温で、週末は気温が下がりそうです。
    当時のリアルな乗泊のお話、鉄道雑誌では読めないお話なので、興味深く拝読しました (^_^) 一般の乗客の方は、ダイヤ運行のために、乗務員が自宅・自寮外で宿泊すると思っていないでしょうから、その様子は驚くのではないかと思います。男の仕事的な何かを感じた次第です (^_^) また参ります。
    2012年03月07日 23:09
  • しなの7号

    hmd様 おはようございます。
    天気予報は晴れでしたが、どんより曇った朝です。

    ご覧いただきありがとうございます。駅員と違い乗務員は毎日泊る場所が違い、同じ場所であっても到着時刻や起床時刻も乗務列車によって常に異なるものです。
    こういう勤務形態は今でも変わらないと思いますが、その宿泊施設の様子は昔とは変わってきているのだろうと思います。
    もう私はこんな勤務形態には耐えられないだろうなと思っています^^;
    2012年03月08日 06:22

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