【420】 思い出の乗務列車30:東海道本線 荷41列車(2):乗務するまで

荷41列車の乗務に当たっての出勤時刻は名古屋駅発車の50分前の6時25分でした。私のように岐阜県から名古屋の職場まで通勤していた者にとっては、一番列車で出勤しても間に合わない時刻でした。そのためこの行路の前日は非番日となっていて、原則的に前日職場に出勤して宿泊することになっていました。

この部分の交番表(乗務割表)です。
画像
マス目一つが1日を表しています。
前日は乗務列車がなく非番日。(実際には夜職場へ出る)
翌日は名古屋から荷41列車の乗務で6時25分は出勤時刻。
7時15分は名古屋の発車時刻。
その次の日の朝8時43分に名古屋へ荷36列車で戻ってくる。

という勤務です。

この荷41列車を始めとして、深夜に仕事が終わる人や、翌朝までの勤務間合いの人たちの休養のため、車掌区には人数分の寝床が確保してありました。しかしその場所とは、新幹線高架下にあった車掌区のなかにある30畳くらいの畳敷きの大広間で、そこに20人くらいの布団が敷いてあるだけのことでした。その大広間は2室あり、昼間には組合の集会や、出勤予備者の待機など多目的に使われる和室で、初乗務前の机上講習も私はここで受けたのでした。
宿帳に記名しておくと、車掌区の内勤の人が翌朝の出勤時刻の5分くらい前になると起しに来てくれました。新幹線の高架下のため、終列車までは騒音で寝付かれず、そのあとはいびきの大合唱。ひどい環境の寝床でした。寝ぼけ眼で出勤印を押すと、一緒に乗務するメンバーが顔をそろえます。そのなかでシャキッとしている人は、家がこの車掌区に近い人で、車掌区で泊まらず早朝に家から出勤してきた人だったりしました。

私は都市部の国鉄職場に勤務する職員は遠距離通勤者が多かったように感じていました。都市圏では国鉄のように夜勤があって給料も安い仕事は、敬遠されていたのではないでしょうか。逆に農業があるような田舎の人は、この8行路の前日の非番日のような日には、家で農業ができます。さらにこの行路の勤務明けも午前中早い時刻ですから、勤務明けの日もまた半日は家で農業ができるわけです。そんなことから兼業農家の人には国鉄は人気があって、都市部には職員自体が少なくて遠距離通勤が多かったのではないかと思っているのです。うちの父親は、まさにその理由で戦後国鉄に入ったようです。ただし遠距離通勤にはならず、徒歩通勤という恵まれた通勤事情だったようです。

さて、この行路では、朝食は列車に乗ってから仕事がない時間帯に車内でレチ弁(レチ弁については過去記事「【260】レチ弁」をご参照ください。)を食べることになるので、乗務前に専務車掌(荷扱)氏が、「弁当いるか?」と聞いてくれます。専務車掌(荷扱)氏が個数と代金をとりまとめてくれていました。家から出勤して弁当を持ってきている人は、「わしはいらん」ということになるので、レチ弁はこの荷41列車の名古屋駅の場合、市販の駅弁を半額で購入する方法で、定期購入ではなく、注文は任意でした。

乗務までの時間はあわただしく過ぎていきます。新人は湯沸し器の湯をやかんに汲んで、ガスコンロで沸騰させ、それを家庭用のポット(魔法瓶)に詰めて、ポット持ち運び専用に用意されていた特注の、「バケツを直方体に改造したような手提げの金属製の入れ物」に入れました。
画像
今のようなステンレス製の大型ポットがない時代で、持ち運びには不適な構造でした。内部が鏡面加工されたガラス製の魔法瓶でしたので、持ち運び中に強い衝撃を与えると内部が割れてしまうということもあったようです。

車掌区で出発点呼があり、変更事項、注意事項等の確認照合をして、列車の名古屋到着時刻に間に合うようにホームへ出場したのです。
画像
長距離乗務ですから、洗面用具や、場合によっては着替えなどが入ったプライベート用のカバンと、胴乱と呼ばれる革製の業務用品が詰まったカバン、新人の私は、このほかに「ポットが入った入れ物」も持って、ホームに出ました、売店では専務車掌(荷扱)氏がレチ弁の購入をしてくれました。
画像
(「【260】レチ弁」から再掲)

列車到着前のホームでは、ターレットと呼ばれる牽引車が荷物を満載した台車を何台も連結して盛大なエンジン音とともに走ってきます。ターレットを運転するのは駅の小荷物係です。
画像
ほかにも台車に小荷物係が何人も乗っていました。35年以上も前の話ですが、ホームがかさ上げされたりしているものの、現在の名古屋駅のホームとは基本的に変わりはありません。そのホーム上の乗換階段がある、線路と階段との狭い部分も、うまく通過していくのは職人技でした。

「5番線ご注意ください。荷物専用列車が入ります」と放送が入り、そこに昨夜汐留を出て、一晩走り通してきたEF58が牽く荷41列車が入ってきました。汐留からの乗務員が片側に2カ所ある大きな荷物扉を開け、そこに駅の小荷物係が寄って来て荷物をホームへ荒っぽく卸します。その間に車端部の乗務員室扉から乗り込んだ私たちは直ちに荷物室内に入り、ここまでの乗務員から引き継ぎ事項を聞いて、荷卸し作業の交代をしました。名古屋着中継の荷物を取り卸すと、ターレットで牽かれてきた台車に積まれた荷物が荷物車内へ投げ込まれ、これを取り卸し駅別に車内で積み付けていきました。こうした作業を停車駅ごとに繰り返していくわけです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 12

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い 面白い

この記事へのコメント

  • C58364

    おはようございます。
    私の勤めていた会社も正月・お盆も無関係な交代制勤務でしたので、兼業農家の我が家でも田植えや稲刈りは私の勤務割りに合わせていました。夕方から翌朝までの勤務ではほぼ2間使え、それに休暇を1日とり天候がよければ何とか済みました。
    名古屋駅ではターレットがゴロゴロと音をたてて、ムカデのように上手に走り回っていましたね。小荷物用の他に赤い郵便用もあって郵便用は小荷物用よりもおとなしく走っていた記憶です。台車にはどちらも運搬中の転落防止と盗難防止のためかごっついネットが被せてありましたね。列車待ちに疲れて、停めてあったカラッポの台車に腰かけていたこともありました。
    駅弁が半額で買えたのですか、うらやましいですね。
    2013年10月14日 09:20
  • ★乗り物酔いした元車掌

    ★ボクが居た頃は、違う場所に寝室がありました。
    玄関を入ってすぐ左側に入口があり、
    そこの中が寝室でした。
    迷路のようになっていて、2~4人部屋が
    いくつもあった記憶があります。

    「昔はココでごろ寝、していた」
    先輩の方々に教えてもらった
    あの部屋なんですね。懐かしいです。
    2013年10月14日 10:01
  • しなの7号

    >>C58364様
    こんにちは。
    夜勤がある職だと、近所の人から「あの人はいつ仕事しとるんやろう?」と思われたりしますね。乗務員は仕事に行く時刻も不規則でしたから、なおのこと怪しまれるんです。
    名古屋の鉄道郵便局のターレットは電動式でヒュンヒュンと軽やかな感じでした。
    コンビニもない時代ですから、やむを得ない行路にレチ弁の設定がありました。

    >>乗り物酔いした元車掌様
    ベッドの寝室は昭和50年代後半にできたのではなかったかと記憶しています。新幹線の振動は変わらなかったものの、居住性は雲泥の差でしたね。でもあの寝室、火事になったらみんな丸焼けだったろうな。
    2013年10月14日 13:30
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    荷41列車(1)でコメント後、こちらに移りました。
    郵便車の場合も発時刻のおおむね1時間前が出勤時刻で、着替えて携行品の準備をしても点呼まで多少持て余すほどでしたが、遅刻や欠乗を防ぐため余裕を持たせていました。早朝に乗務開始の行路では電車等で出勤できないため、前夜に出勤して指定の寝室で仮眠していました。
    乗務員で最若手だった私も、湯沸かし器やヤカンでお茶を煮出して水筒に詰めました。また、ショルダーバッグに柄を短く切ったほうきと小さいチリ取りを入れたもの、それに自分の乗務かばんの3つ持ちしてホームに出たものです。当会ホームページで 鉄道郵便局の組織
    乗務員 http://oyu10.web.fc2.com/jyoumuin.html
    のところにこのあたりを紹介しています。「4服務(2)行路」「6服装」「7携行品」のところが参考になるかと思われます。
    2020年07月30日 23:31
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    郵便も国鉄も、乗務員に関することには共通する点が多いように思いますが、昭和の時代には、小間使いのような仕事から始まっていたという常識にも時代を感じ、今の人にはもちろん、私どもと同年代の一般の勤め人の皆さんにい理解できないことだらけだと思います。
    私が知るのは昭和51~54年あたりのことに限られますが、貴会HPを拝見すると、国鉄のように大広間に雑魚寝させられるような環境はなかったようですし、家庭用の魔法瓶をバケツのような入れ物に入れて持たされるようなこともなく、きちんと車内を掃除する習慣や礼儀正しさなど、全体に国鉄の方が時代遅れであって程度が低かったことが目立ちます。けれどもそういうことは車掌区によって、そして時代によって変わっていったと思われます。勤務した車掌区では、荷物車内ではお茶は急須で淹れるもので、お茶っ葉にこだわりがある人が多く、インスタント味噌汁を作る人もいたので、魔法瓶に直接お茶を入れることはありませんでした。他局の乗務員で、練炭コンロと大きな薬缶を持ち歩いておられるのも目にしました。
    2020年07月31日 20:45
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    確かに乗務員の駆け出し、若手には雑用というか、下積みとしてこまごました仕事がありましたね。
    私の環境はホームページに書いたとおりですが、さらに昔は中規模の事務室では大広間雑魚寝が当たり前で、乗務チームが一斉に就寝して起床していたからできたことで、乗務行路の細分化で、起床時間が人により違ってくると、寝室も細かく分けられ、他人の目覚まし時計で起こされないようになりました。それでも木造二階建ての校舎や病院のような外観の建物だった時代はまだ冷房はなかったそうです。
    荷物車では乗務員室でお茶を急須でいただけたそうですが、私が郵便車で使用した保温水筒の中身がお茶であったのは、お湯を持ち込むとどうしてもカップラーメンなど汁物に使いがちで、郵便車は区分棚の台に置き、丸いすに腰掛けて飲食するので、こぼした場合に郵便物を汚損する恐れがあり、持ち込みがお茶だったと考えられます。(駅そば持ち込みはあくまで例外でした)
    なお、乗務時間が長い便では作業合間の食事が認められており、局によってはお湯とお茶の両方を携行したところもあったようです。
    2020年08月01日 00:19
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    国鉄でも休養室などの職場環境は、車掌になってからも少しずつ改善されていきました。昭和50年代には詰所なども含めてほとんどの施設で冷房が完備されていましたが、乗務員宿泊施設は駅とか機関区など線路近くにある場合が一般的でしたので、騒音や振動が付きものでした。3人チームの荷物列車乗務員は二段ベッドの4~8人部屋が多かったように思います。1人乗務が主体の車掌行路でも個室はなく二段ベッドで2~4人で一室というところが多く、1人ずつが到着時刻・就寝時刻とも異なるので、熟睡できる環境にはありませんでした。さすがに起床は目覚まし時計ではなく主に空気式の起床装置で、一部に管理人による手起こしもありましたが、パイプ式2段ベッドでは、他の一人が起きれば揺れたりきしみ音がしますし、足音や起床装置の作動音で必ず目が覚めました。また、木造宿泊施設は複数個所で利用しました。

    乗務時には、多くの人は直径10㎝程度の小型アルミ製ヤカンを急須として使い、カップ酒の空き容器を湯呑替わりにして持ち歩いていました。こだわりのある人はちゃんとした急須、湯呑のほか玉露など高級なお茶葉を持参しておられ、それをふるまってくださいました。荷物室で飲食をすることはなく、乗務員室で食事や休憩をしていましたが、その際に卓袱台が要るので、適当な大きさの荷物を荷物室から拝借してきて、そこに新聞紙とか作業用の前掛けをかぶせてテーブルクロス代わりにして使いました。亀山名古屋間の短距離乗務行路以外ほとんどの行路で、車内で食事をしなければならず、行路によっては二食必要になりました。
    2020年08月01日 21:41
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    寝室やお茶のいただき方だけでも国鉄と郵政の共通点、相違点がわかります。起床装置は、JRのイベントで体験した限り、あまり心地よくありませんでした。
    さて、当時の大型時刻表には東海道線の荷物列車時刻が掲載されていました。小荷物積み降ろし駅が集約され、自動車代行化のため、停車駅として記載されている駅には、小荷物は積み降ろしせず、郵便車だけ受渡する駅もありました。
    53・10以前の全国の鉄道郵便線路図は当会ホームページ資料館に掲載していますが、53・10改正後の昭和54年版と、ずっと昔の30年版が見つかりましたので最近追加しました。
    昭和30年版 http://oyu10.web.fc2.com/rosenzu-osaka1955.jpg
    昭和54年版 http://oyu10.web.fc2.com/rosenzu-osaka1979.jpg
    大阪鉄道郵便局作成のもので、乗務した範囲(所掌区間)中心ですが、米原~京都間だけでも普通列車主体の時代と荷物列車化されて以降の違いがわかり、小荷物積み降ろし駅は郵便よりもさらに集約されたかと思われます。
    2020年08月02日 11:13
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    2つの鉄道郵便線路図を拝見しますと、東海道・山陽筋の郵便取扱駅がかなり集約されていることがわかりました。客荷分離が行われた結果として荷物・郵便は専用列車による輸送に切り替わったことを示していますね。
    昭和31年の復刻版時刻表を見ましたところ、東京対九州の荷物専用列車は2往復だけのようで、ほかには急行阿蘇・雲仙・明星・筑紫の時刻欄に「〒」マーク(凡例によると「ポスト備付主要列車」)がありました。
    ところで本日いただいたコメントのうち、53.10以降の時刻表で「停車駅として記載されている駅には、小荷物は積み降ろしせず、郵便車だけ受渡する駅もありました。」とあるのは 「通過駅として記載されている駅のなかには、実際には停車して郵便車だけ受渡する駅もありました。」が正当ですね。
    2020年08月02日 20:20
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    コメントの訂正、ご指摘のとおりです。確かに53・10以降の時刻表で、郵便受渡を行った駅が通過となっているのに違和感がありました。
    驚いたのは、時刻欄の急行列車に〒マークがあるとのことですが、当方の39年9月復刻版にはそういう記載は時刻欄、凡例のいずれにもありません。「主要列車」とあるのは、普通列車など他にも多くの郵便車にポストがあり、利用者の投函が一般的だったことを意味しますね。39年は東京発下り荷物列車は4往復ありますが、急行列車の編成表ではいくつか郵便車を連結しており、普通客車列車にもあったと思われます。荷41列車など夜間に汐留を出た各列車は、かつて夜行急行の荷物車、郵便車が輸送していた荷物、新聞、郵便物を担う列車として、積載量も多く、重要な使命があったと理解しています。
    2020年08月03日 11:42
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    古い時刻表に「ポスト備付主要列車」の「〒」マークによる表示があったのは、昭和30年代前半までだったみたいで、36.10前後の時刻表には表示がなくなっていました。遡って手持ちの昭和25年10月号復刻版を見ると、凡例では「郵便車連結列車」となっており、「〒を〇で囲ったマーク」が使われていました。そのマークが付されている普通列車も散見され、播但線や加古川線などに見られる一方で、飯田線や身延線には表示のある列車がまったくないので、全部を網羅しているかは疑問ですが、当時の鉄道郵便事情を伝えているようです。

    50.3当時に、汐留を夕刻以降約2時間おきに出ていた荷37・荷39・荷41列車は、多数あった東京発の夜行列車に連結された郵便車や荷物車を集約した荷物列車だと言えますでしょう。
    2020年08月03日 20:28
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    急行だけでなく、ローカル列車まで〒マークが表示された時代もあったとは、また驚きです。ポストが設置された車両を表示して、差し出せることを示していたのかもしれません。

    さて、乗務員交替の仕方に触れておられますが、郵便車は荷物車と少し違っていました。全室郵便車にある車掌室扉は使わず(本来立ち入るものでないため)、交替駅で列車が到着すると、まずもって郵便扉から、乗り込む乗務員が全員車内に入り、乗務員どうしのあいさつをします。それから、車内の郵便物を下車する乗務員がホームの受渡員に引渡し、便長どうしで引継ぎが行われたあと、全員下車します。次に郵袋が積み込まれる間、乗り込んだ乗務員は制服から作業着に着替え、積み込まれた郵袋と、車内引継ぎの郵袋を、あらかじめ近い駅宛に仕分けされたものから処理していく段取りでした。
    2020年08月04日 10:25
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    時刻表には電報取扱駅の表示が遅くまで残っていたように、通信手段が限られたころは、郵便が差し出せる列車を表示しておくことには意義があったのでしょうね。

    荷物車の乗務員交代では、ニレチどうしは乗務員室で事務引継をしましたが、乗務終了する2人の乗務掛又は車掌補は、到着直前に2つある大扉の前で1人ずつラッチを外して待機して、停車後直ちに駅側の取卸作業に立ち合いました。その駅から乗務開始となる乗務掛・車掌補のほうは、乗務員室から乗り込んで、とりあえず手鉤だけを持って、作業服に着替える暇もなく荷物室内に入りました。各大扉の前で1人ずつ引継ぎ事項を聞き交代。荷物取卸後すぐに積載が始まるので、ほおっておくと大扉の前に荷物の山ができて積込ができなくなってしまいますから、とりあえず積まれた荷物をいったん通路の奥のほうに引いておき、それを防がなくてはなりません。全員で挨拶などすることもなく、着替えもその駅での積載作業が終わって大扉を閉めてからやりました。
    2020年08月04日 20:20
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    交替時の乗務員と荷物の動きがよくわかりました。荷物は1個当たりが郵袋より大きくて重く、どんどん引き入れないと扉内が埋まるわけですね。
    郵便車内に積み込まれる郵袋は、200個くらいまではピラミッドのように山になりますから、車内の乗務員は離れて見ています。大阪始発便では天井にくっつくほど重なってもまだ積まれるので、ホームの駐在員がいったん中断して乗務員に「いっぺん引いて」と言うと、みんなで山を崩して引き入れました。郵袋が投げ込まれる間に乗務員が不用意に近づくと、金属部が顔面に当たるなど大けがになりますから要注意でした。
    2020年08月04日 21:16
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    郵便と荷物とで積卸作業内容が違ってくるのは、おっしゃるような1個あたりの大きさや重さの違いが挙げられるほかに、荷物車では一般荷物とは違った取扱いをすべき荷物が含まれたことにもよるかと思われます。例えば易損品や天地無用の荷物なら手渡しするとか、動物なら振動を与えずすぐに奥へ引かなければならないということがありました。ほかにも、複数の台車に中間着中継荷物と通し荷物を分けて持ってこられた場合に、どちらを先に積むのかとか、前後どちらの扉から積むのかなど、乗務員は駅に指示する場面もありましたので、開扉した大扉ごとに乗務員が立ち合い、その対応をすることもありました。
    2020年08月05日 20:23
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    荷物同様に、郵袋も郵便物の種別や宛先局により取扱いが違っていました。
    荷物車の2つの扉と荷物の宛先により車内作業が左右されたでしょうから、駅に指示したというのはよく理解できます。
    郵便車では、郵袋数が多い駅では台車ごとに宛先の方向や種別はある程度決めて受渡員が準備していますが、積み込むときには一度に連続して投げ入れたので、郵袋を1個ずつ読み上げて車内で記録しながら整理して積み上げました。全室の扱い便で、乗務員が車内で開ける郵袋は細い片開き扉から入れるとか、車内の積み位置が決められていたほか、どの方面をどちらの扉から入れるか、受渡員は厳守していましたが、乗務員は次の駅も北海道、九州も同時に積まれるので、仕分けるのにひと苦労でした。
    引き続き、【423】(3)のほうでコメントさせていただきます。
    2020年08月05日 23:02
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    オユ12のような護送便にしても中央で2室に分かれるに対して、マニは片側3扉(マニ50はデッキ扉が使えないので2扉)で1室ですから、荷物の大きさや形状、性質、行先、その他特殊性に応じて臨機応変に扉を使えるというのも郵便車と違うところでしょうか。
    2020年08月06日 20:20

この記事へのトラックバック