【622】 北恵那鉄道19:車両4「ク550形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は先週ご紹介した制御車ク80形のほかに、1両だけ在籍した制御車ク550形です。
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【ク550形(551)】
連結面間が15mを超える大型の片運転台制御車でした。
車体は簡易鋼体化されているものの、非常に古い大正生まれの木造車でした。
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名鉄からの移籍で、入線は比較的遅く1966年(昭和41年)でした。この車両の入線によって、最後まで残っていた2両の2軸客車(ハフ11・12)が廃車になったということです。

日中の運転が休止されてからは、3両あった制御車の運用は1日1往復だけでした。主に使用されていたのは小型のク81か82のどちらかで、大型のク551が走行する姿を見ることはめったになく、いつも側線に留置されていました。私が稼働しているのを最後に見たのは廃止の3年前で1975年1月のことでした。例年1月10日に中津川で開催される初えびす「十日市」の多客輸送には、多くの列車が2両に増結されましたが、この年も3両の制御車(ク81・82・551)が総動員され、ク551が夕方の一番列車に充当されました。
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その後の稼働実績は、私が高校を卒業して、頻繁に北恵那鉄道を訪れることがなくなったため不明ですが、いつも使用されているとは思えない状況で留置されていました。

この車両も、ク80形と同様に運転台の向きが下付知寄りに揃えられていました。ク80形と違うのはモ560形と制御器機が統一されていたことで、制御器機が異なるク80形のような付随車的な使用方法は採られず、下付知行ではク551が先頭に立ち、モ560形が後押しする本来の制御車としての使われ方をされていました。運転上は、ク80形のように、終点でいちいち機回り入換の作業をする必要がなく、ク80形よりも便利なはずなのに使用頻度が極端に少なかったのには、理由があるはずです。考えられる理由としては、通常の乗客数でこの大型車を走らせる必要がなかったからか、自重が重すぎ不経済であるとか、故障や不具合があったとかですが、そのあたりの正しい理由を私は確認していません。ちなみに自重はク80形の13.90トンに対しク550形のほうは21.43トンとかなりの差がありました。また、鮮明な画像がなく、ここにはアップしていませんが、最末期の画像を見ますと、同じイコライザ式台車でありながら、明らかに違う形状の台車に振り替えられています。

廃線になったあとは、解体されることなく中津町車庫の脇に残り、台車を外されて車体だけが木工所として長く利用されていました。
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ところが1997年に不審火により全焼し、貴重な北恵那鉄道の生き証人であった車体は、非常に不本意な最期を遂げる結果となりました。




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この記事へのコメント

  • 北恵那デ2

    こんばんは。本文記事にありますそのとおりで、ク551が滅多に動かなかった理由は分かりませんね。ただ、ク80型とモ560型の2連ですと通学時は満員状態でしたので、大きなク551を使った方が良いのにと思っておりました。以前のコメントで書きましたが、奥の下付知駅に近い方では変電所から遠いために電圧降下が著しく重い車輌を牽くのは負担が大きかったのではないかというあたりが正解かもしれませんね。ところでその滅多に走らない車輌が走った日は、しなの7号さんからお誘いをいただいたのに、私は運悪く風邪で熱を出して寝込んでおりました。撮影には行きたかったのですがとても出かけられるような状況ではありませんでしたので、一生悔いに残る想い出であります。
    2015年09月10日 21:25
  • NAO

    昭和30年代初頭だったでしょうか、機廻しの必要がない電車の長所が理解され始めていた頃だと思いますが、モーターの無い制御車は自走出来ませんので、結局は動力車に頼らざるを得ない電車が結構あったのでしょうね。
    2015年09月11日 02:09
  • しなの7号

    北恵那デ2様 おはようございます。
    ク551の稼働割合が極端に低かった理由を、どうして車庫の方にお聞きしなかったのだろうと、今更ながら思います。考
    えてみますと、モ560形が本線で貨車を牽くときはワム1両だけでした。ワムの自重は10トン弱、荷重は15トンで計25トン弱あるわけですが、ク551は空車でも21.43トンあるのですから、定員乗車であれば積車のワムを上回る重量になります。ク551の運転に当たってはそれ以上に電力消費が必要であったでしょうから、電力供給上の理由による牽引能力の関係だったと考えるのが妥当でしょうか。
    あの1月10日に来られなかったのは、そういう理由でしたか。私は忘れていましたが、言われてみればそんな気もしてきました。確か日中に中津町駅に行ったら、ク551+モ565の編成がホームに据え付けられており、電話したような記憶です。そのあと家に帰ってから、恐る恐るバイクで雪道を走って山之田川へ向かいましたが、とても寒い日でした。余談ですが、ク80形の記事でアップしたク81と82が車庫で並んでいる画像も、この日(1月10日)の撮影です。夜の列車に備え複数の「ク」がスタンバイしていることは、見たことがない光景だったので、珍しいと思い撮影したものです。
    2015年09月11日 11:45
  • しなの7号

    NAO様
    電車・気動車が機関車牽引列車より機動性が高いので好まれたわけですが、私鉄では朝晩の多客時の対応は、経済的なT車やTc車を増結用として使用した例が多くの鉄道会社にありました。国鉄の場合は気動車使用線区で通勤時間帯だけ機関車牽引の客車列車で対応する例が、ローカル線でよく見られましたね。
    2015年09月11日 11:46
  • 北恵那デ2

    おはようございます。電力供給上の理由で使用する車両が制限されていた可能性が高いという理由がほかにもあります。変電所の故障で運休したことがあったり、その変電所の機械が不調のため更新したことも記憶にあります。そもそも美濃福岡駅のサブ変電所は、トラブル回避のために後から増設されたと思います。ただそれが問題になるのは下付知駅に近い方面だけということです。そういうことならば重い車輌も「モ+モ」の2連も美濃福岡までならば問題にならないことになります。被牽引車輌の重量については、「ハフ」の時代にいくら軽い車輌とは言え2両を牽いている写真が書籍にありましたよね。「デ1型」の方がモーター出力が低いので、逆に電力がこと足りたということなのだろうか。
    2015年09月12日 08:44
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんにちは。
    フォローありがとうございます。
    そういわれてみれば、変電所が原因で運転に支障が出たこともありましたね。鉄道趣味の対象が、車両中心になりがちですが、鉄道とはシステムであるという視点に立って物事を考えれば、電力供給事情ははずせない要素です。あのころ、そんなこと考えもしていませんでしたが。

    交通公社時刻表復刻版を見てみました。日中は始発駅時刻しか記載がなく全線の所要時間がわかるのは朝夕の列車だけですが、デ1形時代の北恵那鉄道の全線所要時間は1時間以上かかっています。これがモ560形時代に入った昭和40年代になると、ほとんどの列車が1時間を切り、たった22㎞程度で10分程度もスピードアップしています。
    これが可能になったのはモ560形のパワーであり、電力消費増という結果ではないでしょうか。
    竣工図面ではモ560形は48.5kw×4個とありますので、1両あたり194kw。デ1形の竣工図面は、素人が書いたんではないかと思われるなにか怪しい表記(電圧600Wって何?)で出力149.2kwとあります。(モーター4個の合計値?)
    これを信じると、デ1は約4分の3の電力消費でよかったことになりませんか?
    デ1形はもともと、重い材木を輸送する機関車的な用途として製造され、ギア比も低かったですから、消費電力は小さく低速であるものの、貨車牽引は得意分野と考えますがいかがでしょうか。
    2015年09月12日 10:37
  • 北恵那デ2

    こんばんは。当局に提出する竣工図面は全くその通りで、昔はこの程度の代物でも認可されていたということですね。出力・歯車比などについてはおっしゃるとおりでしょう。北恵那鉄道においては今回の記事の「ク551」も有効利用できなかった買い物でしょうが、たぶん後々記事に出るであろう「デキ501」も別の車輌にしておけば良かった例でしょう。できるだけ安価なものしか買うことのできない会社の事情と、運営する方の現場の希望をうまく調整しないとこういうことになってしまいます。
    2015年09月12日 22:51
  • しなの7号

    北恵那デ2様 おはようございます。
    有効利用できなかった買い物となったことが、おっしゃるような会社内の調整ができなかった結果による可能性があるとすれば、以下、まったくの私見であって根拠がない話ではありますが、さらに突き詰めていけば、北恵那対名鉄の話にもなろうかと考えられます。
    名鉄資本が入ったあとのことですから、中古車両を供給する側である親会社名鉄の車種選定に、北恵那側も拒否できなかった事情があったのではないのか。
    名鉄のせいにする北恵那びいきの発言になってしまいましたが、名鉄としても昭和40年代ともなると、小型車はかなり整理されていたでしょうから、北恵那側の要望に沿った出物がなかったとも考えられましょう。
    2015年09月13日 06:47

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