【626】 北恵那鉄道21:車両6「デ8形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は戦後まもなく入線して、長く活躍した大型車デ8形です。
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【デ8形(8)】
デ8は1形式1両の大型車でした。もとは現在のJR鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道の電車で、いわゆる買収国電でした。国有化後戦災に遭い、日本鉄道自動車工業の手で復旧した戦災復旧車で、昭和25年に入線しています。
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鶴見臨港鉄道の車両であることはスタイルから明らかで、かつては静岡鉄道をはじめ、各地の小私鉄に国鉄から同形車が譲渡されましたし、そのまま国鉄に残り、明石電車区の救援車になったクエ9401という同形車両もありました。クエ9401は、北恵那鉄道廃止後も1982年ごろまで国鉄に在籍していたので、ぜひ見なければ思っているうちに廃車されてしまいました。しかし2009年まで銚子電気鉄道には同形車デハ300形(301)が健在で、この車両を見ることはできました。
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北恵那鉄道のデ8は、入線当時2軸車ばかりだった北恵那鉄道では、唯一の大型車でしたから輸送力アップに貢献したことでしょう。1964年には、名鉄から転入したク81とともに片側に貫通扉を設置しています。
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この2両をペアとして大量輸送に対応しようという意図があったと解釈できるのですが、貫通化は小私鉄にとっては大がかりな改造のはずです。デ8が廃車された後も、鉄道廃止まで非貫通の2両編成は存在したのですから、貫通扉の必要性と改造にかかる費用対効果について疑問が残りました。車庫の人にその改造の必要性について聞いてみると、3両編成での運転を考慮していたらしく、3両で運転する場合には中間車には貫通路が必要という役所の指導だか規則だかがあって、改造したとのこと。私の思い及ぶ範囲では、火災や鉄橋上での事故や故障の場合には、3両編成の中間車両の乗客の逃げ場所がなくなってしまうから、前後両方向でなくてもいいので、少なくとも前後のどちらか一方に避難路としての貫通路が必要ということなのだと思います。そう考えると、1951年(昭和26年)に起きた桜木町事故が背景にあるのではないでしょうか。デ8の貫通化改造は1964年(昭和39年)とされています。
それまでの北恵那鉄道では、非貫通の小型2軸車を2両牽引する形で3両編成での運行が行われていたのが、発表されている写真から明らかです。法律が改正されると、たいてい経過措置があるものですが、この場合も在来の車両の貫通化までは求めないが、新たな入線車両には貫通化が義務化されたため、貫通化されたという可能性もあるのかなと想像します。
しかし私は、その改造後のデ8+ク81+αという3両編成を、実際に見たことはもちろん、写真さえ見たことはありませんので、実際に貫通化による運転が行われたかどうかは不明です。当時それだけの旅客需要があったとすれば、通勤通学輸送のほかには、夏季の栗本水泳場、付知峡に何か所かあったキャンプ場への多客輸送が考えられます。以前に書いたことがありますが、昭和30年代には、栗本駅に隣接して旅館があったほか、飲食を提供する店もあって、夏場はすぐそばの付知川の河原にかなりの人出で賑わっていたことは、私の記憶にもあります。

出力的に可能だったならば、軽量のク80形を2両従えた、デ8+ク81+ク82による1M2T総括制御の編成が出来上がります。
デ8は、この貫通化改造で貫通扉側(下付知側)の表情が別の電車のように変わったわけですが、非貫通側(中津町側)の窓も、運転台部分の1つだけがHゴム支持に変わっています。
このほかにも長い年月の間には、さまざまな形態の変化があったようです。デ1形とほぼ同時期あたりに、ポールからZパンタ化されています。デ1形のほうは最後までZパンタでしたが、デ8のほうはその後菱形パンタ化されています。その時期は貫通化改造以後であることは確かですが、いつであるか私は知りません。

さて、デ8の末期の話になりますが、この車両は落雷の被害に遭って運行不能になりました。4個あるモーターのうち1個が焼損したという説明と、唯一、この車両にはレールへの塗油装置が装備されていたので、運行不能になったことで支障が出るいう話も聞いた記憶です。

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パンタグラフを外されて下付知に留置されるデ8

1形式1両という特殊性から部品補充はままならず、代替車として名鉄モ765(→北恵那モ565)を迎えたのちに、デ8は1974年に下付知駅構内で廃車解体されています。
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この時期は私が高校生で、毎日のように中津町駅に立ち寄っていたころだったので、落雷事故さえなければ、廃線まで残っていたかもしれなかった不運の電車として印象が強く、よくSLファンがDD51を赤ブタといって忌避したように、私の中では、デ8を廃車に追いやったのがモ565というような感覚さえありました。その565は廃線までの間、主力中の主力となって、「またモ565か!」という状態で大活躍だったので、そんな印象が強かったのかもしれません。




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この記事へのコメント

  • 北恵那デ2

    こんばんは。よりによって「デ8」が落雷により故障することになるとは、当時涙が出るほど悲しかった思い出です。車庫のおじさん達の話は、「焼損したモーターを特注すると、名鉄から代わりの中古電車を購入するのに近いほどの費用が掛かる。」というような話だったと記憶しております。確か具体的な金額を述べておられたような気がしますが、その金額については覚えておりませんけれど。
    2015年09月24日 18:18
  • hmd 

    お久しぶりです。記事を拝見させて頂きました。当方も更新を再開しております。宜しくお願い致します。
    2015年09月24日 23:51
  • NAO

    おはようございます。
    電車は雷に強いと思っていたのですが、モーターがやられてしまうのですか。家電製品で部品供給期間が終ると簡単に修理が効かなくなるようなものでしょうか。
    以前乗っていた自家用車の冷房が故障し、コンデンサーの保証期間が終っていて在庫がなく、部品取りの出来る同型車の下取りもしばらく現れないため、クルマを手放したのを思い出しました。
    2015年09月25日 07:21
  • のらいぬ

    こんばんは

    初めまして。 のらいぬと申します。(単なるわんこ、にゃんこ好きなだけで、この名前にしています…)
    鶴見線をキーワードで見つけました。私は京浜急行や東海道本線の各列車・電車、南武線、鶴見線を見ながら鉄道やバス好きになっていった様です。 茨城県神栖市(旧波崎町地区)に母方の親戚が居るので、銚子駅から波崎行っていました。小学校高学年以降は、行った際必ずといってよいほど、301目当てに銚子電鉄詣をしていました。車掌スイッチ?になるのかな? 砲金製と見られる金具で、レバーを引く、押すで、ドアを開閉操作をしていたのが印象的な車両でした。
    北恵那交通のデ8、私は初めて見た写真かもしれません。手持ちの各鉄道雑誌を読みなおしてみても、元名鉄車の写真が多くて…。詳細な情報ありがとうございます。落雷で廃車なったとは…とにかく残念…。


    荷物列車はじめ車掌業務の記事、読みごたえがあり、時間を忘れてしまう程です。これから読ませて頂きたいと思います。何卒よろしくお願いいたします。 いぬ(川崎横浜)
    2015年09月27日 22:18
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    そのときのモーター購入費用の話の記憶がありません(^_^;)
    すでに名鉄系になっていた時期に、いちばん安価で合理的な手段としてモ560形が供給されるとあれば、会社としてはデ8の修理をしないというのは妥当な判断だったでしょうが、趣味的な観点で見ている私どもには、なんともやりきれない感じがしました。考えてみれば私の場合、3両編成どころか貫通扉を背合わせに連結されたデ8+ク81の編成すら見ることができなかったのは心残りでした。
    2015年09月28日 20:27
  • しなの7号

    hmd様 
    ブログ記事拝見しました。こちらこそよろしくお願いします。
    2015年09月28日 20:27
  • しなの7号

    NAO様 こんばんは。
    電気系統は、ブレーカーとか過電流対策はあるのでしょうが、相手が雷だと役に立たなかったのでしょうか。
    なにせ、古い電車のジャンク品を修理した代物ですから、部品の調達の苦労は古い自動車と同じ状況だったのでしょう。
    2015年09月28日 20:28
  • しなの7号

    のらいぬ様
     ご覧いただきありがとうございます。
    私も当然銚子電鉄ではデハ301がいちばん好きで、それを目当てに高校生のとき(1974年)に遠路はるばる夏休みに訪問しましたが、あいにくデハ201と501が運用に就いていました。それでも仲ノ町車庫でデハ301を見ることができて満足して帰りました。まだビューゲルを装備していたころです。しばらく訪れることもなく2003年、2回目の訪問のときの画像を今回アップしています。30年近くもよくぞ残っていたくれたと思ったものですが、余命わずかであろうということは、その状況から明らかでした。北恵那には自動ドアの車両は1両もいませんでしたから、デ8にも車掌スイッチはなかったはずですが、たった1度の乗車時の車内の様子は何も覚えていません。

    おはずかしい内容の記事が多数ございますが、ご容赦ください。
    2015年09月28日 20:32
  • 北恵那デ2

    おはようございます。年月が経つごとに記憶が喪失していきますが、それには個人差がありますね。「デ8」に軌条塗油器が付いていたので、現場では多額の費用を掛けてでもそれを修理して使用したいとのことでした。結果的に代替車となった「モ565」にも軌条塗油器が付いていたと、しなの7号さんの記述がありましたが、たぶんそのとおりだと思います。ところが、私はそちらには軌条塗油器が付いていたというお話の記憶が全く無いのです。それを言いたいだけですが(笑)。
    2015年09月29日 06:25
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんにちは。
    記憶というのは曖昧で、記録は重要だということを感じるこの頃ですが、実際、デ8のどの部分にどのような形状の軌条塗油器が付いていたかなど、気にして見たわけではありません。モ565についても同様で、それを車庫の方に確認した記憶があるかと言われれば、確たる記憶はなく記録が取ってあるわけではないので思い込みかもしれません。なんか自信がなくなってきたなあ(~_~;)

    まったく関係がない話で恐縮ですが、しなの用名古屋方クハ381の一部(1~2両だけ)にレール偏摩耗対策用に空気圧による噴射式の塗油装置を取り付けられた時期がありました。ちょうど乗務員室の真下の台車で作動時にプッシュ~プッシュ~と音がしてうるさかったのですが、動き出してこの音がすると、ああまたこの車両に当たったかと思ったものですが、何番の車両だったかは記憶にございません。その音の記録は、録音で収録しているので確かです。
    2015年09月29日 13:20
  • のらいぬ

    こんばんは

    コメ返しありがとうございます。 銚子電鉄301ですが、鉄道ピクトリアル通巻620号の66ページに、初めての自動ドアにビックリした田舎者も大勢いたけれど…との記述があり、1996年以来ずっと自動ドアと思っていました。件の取り外し式?ドア操作レバーですが、電気機関車の逆転ハンドルを小ぶりにした様なものでした。

    1997年3月に仲ノ町車庫を見たら、車体がバリバリと火花を散らし作業中だった為、列車を降りてしまい、車庫の方に声をかけ「ついに301は…」 「残して欲しい。の声が多くから、出来る限りの補修だよ。」でホッとしましたが、以後工事用車両として、ごくまれに稼働するのみ。2004年頃からは、笠上黒生駅側線で雨ざらし…2000型導入により、置き場が無いからとの事で解体。元営団車両を導入した際に落ちるか…と思っていたので、2009年までよくぞ残してくれた。何とかして残して欲しかった…と思いが交錯していました。
    2015年09月30日 23:15
  • しなの7号

    のらいぬ様 おはようございます。
    銚電のデハ301はほんとうによく持ちこたえてくれました。ネット上で消息は分かりましたので、アップした画像を撮影したときの訪問目的は、こいつに29年ぶりに逢うことでした。

    私はデハ301についての詳細は知らないので、自動ドアが当初からあったかどうかまでは存じていませんが、北恵那デ8の特殊性は、戦災復旧車であることです。
    「RM LIBRARY北恵那鉄道」の記述を借りると北恵那鉄道デ8は「戦災に遭って破損した同車を戦後国鉄が日本鉄道自動車工業に売却、北恵那では同社が大修理をした後に購入しているため、名義上は日鉄自動車製となっている。」とされています。このことから、大修理の際に同形他車とは仕様がそうとう変わっていることが考えられますので、私の想像になってしまいますが、そのときに自動ドアまで復元されなかったとも考えても不思議ではありません。
    2015年10月01日 06:40

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