【701】  【名古屋】旧客編成・急行阿蘇【熊本】

熊本地震で被災された皆様に、お見舞い申し上げます。

今回も多少なりとも熊本に関係することを書いていきます。

先週は、特急「つばめ」について書きました。山陽新幹線岡山開業前の「つばめ」のほかに、もう1本の名古屋と熊本を直行する列車があり、それが急行「阿蘇」でした。

運転されていた時期は、山陽新幹線博多開業時のダイヤ改正時1975年3月まででしたから、名古屋から熊本を結ぶ列車としては、特急「つばめ」より遅くまで残っていたことになります。私が国鉄に就職したのは1976年でしたから、その1年前まで「阿蘇」は名古屋始発として運転されていたことになりますが、そのころの受持ち車掌区は、私が赴任した車掌区でした。「阿蘇」はAB寝台車とグリーン車,普通車を連ねた旧形客車で組成された列車で、数が多かったEF58に混じって少数派だったEF61が牽く列車としても異色だったと思います。

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(1974.4.28 米原~醒ヶ井)

就職した直後には、その「阿蘇」に使われたと思われるグリーン車「スロ54」が余剰になったとみえて、蟹江や永和といった名古屋近郊の小駅の中線に留置されている姿を乗務中の車窓から見かけたものです。


高校生のとき、私は冬休みを利用して山陰から九州にかけて蒸気機関車の撮影旅行に出たことがありました。その帰路に黒崎から名古屋まで「阿蘇」のB寝台車(スハネ16)の中段に乗ったのが初めての寝台車体験でした。
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高校生の分際で寝台車とは贅沢かもしれませんが、旅程の5泊中2泊を夜行の普通車で過ごしたあとの最終日でしたから、疲れてもいましたし、許されると思ったのです。

B寝台の中段はたいへん狭く、車内放送を録音するためのラジカセ以外の荷物を、通路の天井裏のようなところに押し込んで寝ましたが、大切なカメラと撮影したフィルムが入ったリュックが盗まれないか心配でした。


この時の録音を改めて聞くと、その時代がいろんな面で今とは違っていることに気付かされます。

Youtubeに音声をアップしたので、ぜひお聴きください。場面は名古屋到着時車内放送で4分20秒ほどあります。(映像はありません。このブログ記事に使用したのと同じ静止画像を使用しています。また、説明文もこの記事の内容を流用しています。)


このときの車掌長氏の放送には聴きどころがいくつかあります。

まず、放送すべきことを必ず2度ずつ繰り返して、聞き逃しや聞き間違いがないように努めていることがわかります。

「特別…失礼しました。急行阿蘇号をご利用~」というi言い間違いも、すでに特急が増えてきた時代だからこその言い間違いかと思われます。このあと、名古屋からの乗換列車案内では決して「特急」とは言わず「特別急行しなの5号 長野行」「特別急行くろしお5号 天王寺行」というように「特別急行」と言っているのも、まだ特急に格があったころだなと感じます。録音の2分35秒付近で、通過駅のホームで鳴るベルの音が2度入りますが、枇杷島駅を通過中の場面だと思われます。自動放送もない時代、このような小駅でも国鉄末期までは通過列車も含めて列車監視が行われ、当務駅長が列車通過の警告ベルを手動で鳴らしていた証です。


この放送での極め付け部分は、自動ドアではない旧形客車であるが故、「名古屋到着までデッキに出ないよう、デッキに立つ場合はデッキの扉は閉めるように」という注意喚起の車内放送で、これが繰り返し放送されます。

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画像は当時の名古屋鉄道管理局発行のポケット時刻表からの転載です。

他の列車と違い、急行「阿蘇」だけが入区に都合がよい新幹線寄りの11番線(関西下り本線)に到着することが判ります。東海道本線を上って11番線に入る列車は、東海道下り本線だけでなく、稲沢方面から中央西線方面に向かう貨物線なども横断して、まるで蛇がくねるように、何本もの線路を渡りながら11番線に入ってくるわけです。そのため車体が何度も左右に大きく揺れるので、デッキでドアを開けっぱなしで立っていると振り落とされる危険があったのです。

最近の名古屋駅では東海道本線の上り列車は、終着列車であっても1~4番線に入ることがほとんどです。列車密度が高くなったため、東海道下り本線を横断すると下り列車のダイヤに支障が出てしまうからなのでしょう。

放送冒頭にあるように、この日は時刻変更して到着時刻が繰り下げられていました。実際に11番線までガタゴトと線路を渡っていく前に、下り列車の通過を待つための名古屋駅の場内信号機の停止信号による長い機外停車があって録音時間が長くなりました。その結果ハイケンスのオルゴールが終わった時点でいったん録音をカットしてしまいましたので、オルゴールが終わった直後(3分40秒)からは、場面が名古屋駅の11番線ホームに停車する直前に飛びます。

ここでも、「よく止まってからお降りください」が繰り返されます。

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名古屋駅に据え付けられた熊本行き下り阿蘇号。

手前はスロ54 中央はオロネ10 奥はスハネ16です。

上の画像は、録音した当日の撮影ではなく、さらに前の1971年5月5日、名古屋駅に据え付けられた下り熊本行発車前の画像です。中学生になってカメラを自分で持つようになり、初めて父といっしょに飯田線に行った帰路に撮影したものです。


そして下の画像は、さらに時代が遡り、私が小学生のころ(1967~1968年頃)の名古屋駅ホームで撮影された急行阿蘇編成の車両ナンバー部分です。初めて見た2人掛け回転クロスの2等車スハフ43、1等寝台(Bクラス)のオロネ10でした。小学生ではカメラは持てず、この画像は同行の父に撮ってもらった3枚の写真を1枚にまとめたものです。その父が亡くなって、今日でちょうど3年になります。

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廃止を伝える新聞記事

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(昭和50年3月9日 中日新聞朝刊の転載画像)

この列車の廃止後、「阿蘇」の名称は、新大阪始発熊本行14系座席夜行急行にコンバートされました。


私にとって、阿蘇号はこの録音をしたときが最初で最後の乗車になりましたが、国鉄分割民営化後、JR九州の豊肥本線に、JR四国から購入したキハ185系による「特急あそ」が登場し、一度だけ乗ったことがあります。まさに阿蘇山のお膝元を走るようになったわけですが、特急とは言っても、国鉄時代の「急行阿蘇」とは格付から言ったら、足元にも及ばないように思います。
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ところで、アップした録音での放送の主はどなただったのか、実はわかっていません。就職直後に赴任した車掌区の大先輩であったことに違いないはずですが、400人からの大所帯の職場で、18歳で就職したばかりの荷物車作業員にとって、客扱の車掌長氏は雲の上の人であって、仕事の接点もありませんでしたから、その当時、確認する術はありませんでした。






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この記事へのコメント

  • 旧客ファン

    懐かしい急行阿蘇でした、実は私も管理人さんと同時期S49年国鉄入社でした、当時の客車急行は阿蘇と、高千穂・桜島の二本だったような気がします。急行阿蘇は、数少ないEF61牽引でしたね。草津駅では上りEF61牽引の荷物列車が阿蘇の通過待で、数少ないEF61が並ぶ光景が毎日見られました。
    2016年07月04日 21:49
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは
    名古屋始発時代の阿蘇は中学生の頃
    二度乗車しました。
    名古屋駅の改札内で阿蘇用待合室があり
    そこで待機でした。
    二度とも座席でしたのでオール座席だと思っていました。
    家族でボックス席に4人座り小倉まで
    15時間くらい?
    当然拷問のような旅で自分や弟は椅子の下の床に新聞紙を引いて寝ていました。
    後年関西始発になった14系に国鉄入社後から愛用するようになりました。
    2016年07月05日 20:33
  • NAO

    しなの7号様
    仰っていたオロネ10、スロ54の写真、有難うございます。編成表を見て納得しました。基本編成が共通運用でしたか、「天草」牽引EF58を見に行ったとき、見送りのグリーン車からホームをあんまり長く歩いた覚えがなかったのですが、連結位置で納得です。
    今回の記事も読みどころ満載ですね。九州を旅行したとき、帰りの京都までの新幹線指定券を新飯塚で買ったところ、同一金額帯の小倉→新大阪D型常備券の着駅をボールペンで抹消し、京都のゴム印を捺されてちょっとがっかりだったのです。そのあと降りた後藤寺の出札窓口を覗いてみると、着駅新大阪も京都も常備券が備えられていて、二重に悔しかった駅でした(少笑)。
    ちなみにこの時代、客車Bネも下段は別料金だったのですか。上中段と印刷されているので最初は電Bネ券かと思いました。
    車内放送も今となっては聴きどころ満載、詳しい各線乗り換え案内も久しぶりに聴きました。あれを耳にするたびに車掌長さんになりたいなあと思ったものです。
    そういえばエル特急乱発時代になっても、地元駅では「次の特別急行雷鳥○号にご乗車のお客様は黄色い吊り下げ札1番から12番の下で~」なんて放送をよく聴きましたが、食堂車も連結したフル編成単体だけで見ればまさしく特別な急行だったかもしれません。もっとも私のような人間が乗ること自体、大衆特急とは思いますが。

    2016年07月07日 02:56
  • しなの7号

    旧客ファン様
    昭和49年ころは、おっしゃるとおり東海道筋対九州の客車急行は、阿蘇と高千穂・桜島の二本でした。時刻表をひも解きますと、対九州以外の列車では、草津なら「銀河」2往復と「きたぐに」もあって、名古屋以東なら「紀伊」が銀河のうちの1本に併結されていたころです。EF61牽引の荷物列車には乗務する機会がありましたが、荷扱ですと仕事上で車両の外に出ることは湯の補給くらいしかなく、乗務中に機関車を眺めることができませんでした。その後の列車掛時代には西浜松に乗務で行くと、隣接する浜松機関区に、その折り返しで休んでいるEF61を見ることはありました。
    2016年07月07日 13:57
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんにちは。
    旧形客車の旅をしたいと今でこそ懐かしく思うものですが、そういえば昔の名古屋駅には、待合室は改札内外にあり、決められた時刻にならないとホームには入れてもらえませんでした。夜行列車に乗るため、コンコースの決められた場所に早くから並んで新聞紙を敷いて座り込んだり、あの時代は今のような快適な旅にはほど遠かったと思います。今は高速快適で、移動手段としては格段の進歩ですね。
    2016年07月07日 13:57
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    掲載の切符でお気付きかもしれませんが、単なる「丸職」でなく「急行券丸職」のゴム印は、急行券部分だけ「職員割引で料金不要」の意味だと思われます。寝台券には一般職員の割引はありませんでした。
    また、この当時にはB寝台に2段式はありませんでした。調べてみましたら2段式の24系25形が営業開始したのは、その翌年で、その時から別に客車2段Bネ料金(上下段とも電車寝台下段と同額の1600円)が新たに設定されています。

    食堂車と2両のグリーン車を連結した長編成の雷鳥などは「特別急行」の名に恥じない列車だったですね。供食サービス付で特別車両を楽しむ特別列車は今でもあるわけで、需要もあるようですが、それはどんなに豪華でも速達化を目的とする「特別な急行」にはなり得ないですね。個人的には「特急」の呼称は定期の「急行」が消滅した今はもちろん、その運転線区の定期優等列車が全部特急化された時点で旅客案内上不適切だったと思います。
    「特急」のように、かつて「特別」であったことが日常になったことが生活の中に無数にあることを、物心ついてから半世紀以上たった今、感じます。あのころ不可能か特別だったことが日常になっているから、もう特別扱いできません。私はプライベートだけでなく仕事でも乗客として特急列車に乗ってこられたNAO様とは違って、特急とは縁のない暮らしですが、この急行阿蘇があったころを顧みて、特急にひょいと乗ろうと思えば乗れる今を生きていられることに感謝しなければならないでしょう。
    2016年07月07日 13:57
  • 門鉄局

     こんにちは、しなの7号様。
    急行「阿蘇」懐かしいですね。私は14系に置き換えられた晩年しか知りませんが、以前は食堂車こそないもののAB寝台車にグリーン車も連結した格調高い編成だったのですね。
    黒崎から乗車ということは筑豊本線の蒸気撮影の後ということでしょうか?狭い10系B寝台車でしたが、冷房があるだけ夏場は快適でした。かつては特急・急行、夜行・昼行と好みで選ぶことができましたが、現在はすっかり整理されて選択の余地がないことに不便さを感じます。良くも悪くも国民の足を標榜していた「国鉄」と採算と合理性第一の「一民間企業」の差でしょうか。
     車内放送聞かせていただきました。ベテラン車掌長による落ち着いた車内放送に信頼と旅情を感じたものでした。目を閉じると車内のニスの香りやスハ43系のウイングばね台車の心地よい振動まで蘇ってくるようです。
    2016年07月09日 13:54
  • しなの7号

    門鉄局様 こんばんは。
    このころの旧形客車で「格調高い編成」の頂点は「銀河」でしょう。「阿蘇」は格こそ落ちますが、座席車を併結して庶民的な客を含む広い客層に対応する列車だったのですね。一つの列車で、ハ・ハザ・ロザ・ハネ・ロネと選択できるというのも、今では考えられないことです。
    お見込みのとおりで前回「【700】700回めを迎えました」の記事にアップした二島駅のD60を撮影をしたあと、折尾経由で黒崎まで来て乗車しました。
    列車に乗ると、今でも車内放送には耳を傾けてしまいますが、自動放送が増えただけでなく、肉声放送でもマニュアルどおりの画一化された放送内容が増えて、没個性的になってしまい、この録音のような語り口の車内放送には出会うことがなくなりました。
    2016年07月09日 18:32

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