今回は「撮り鉄12か月」というタイトルから多少ズレますが、車両基地公開に出向いて展示車両を撮影したときのことを書きます。
1972年(昭和47年)10月14日は、日本ではじめての鉄道となる官営鉄道の新橋・横浜間が正式開業してから100年目の日でした。
折しも巷ではSLブームに沸いたころだったので、国鉄ではこの年の秋、各地で記念列車を運転したり、さまざまなイベントを催しました。
下の画像は父の遺品です。今はもう取り壊された実家に永く保管してあった記念メダルです。個数は1つで、画像はその表と裏を撮影したものです。
裏面に名古屋鉄道管理局の銘が入ったタイクリップとメダルもありました。
いずれも当時在職していた国鉄職員に配布されたものと思われます。
私はこの前年に、初めて自分のカメラを持つようになっていたので、中央西線の中津川以北に残っていたD51の貨物列車などの撮影を始めていましたが、フィルムや現像焼付に使えるお金は限られていて、被写体を厳選していましたから撮影枚数は多くありませんでした。モノクロフィルムを中心に使い、カラーフィルムを入れたときは、ふだん見ることが少ないような車両や列車だけにカメラを向けていました。今思えば、地元のいつもあった車両や鉄道風景をもっと撮影しておくべきだったと思いますが、中学生の小遣いではそれがやっと、というより、田舎でマイカメラを持った中学生など大変珍しかったものですから、両親に感謝しなければ罰があたります。そういう中で、私は新聞記事で10月7・8日に神領電車区の一般公開があることを知りました。
このころ中央西線の電化区間は名古屋~中津川間だけで、381系が長野運転所に新製配置されて中央西線にデビューするのは、その翌年でした。このころの神領電車区にはローカル用車両しか配置されていませんでした。
そんな時期の神領に、掃きだめに舞い降りた鶴のような新製されたばかりの485系200番台が展示してありました。貫通式の485系を見たのはこのときが初めてでした。
下の画像を見ていると、乗務員室ドアから車内に入って運転室も見学できたみたいですが、運転室を見学した記憶はありません。階段もない乗務員扉から見学者が乗降する展示など、いまどきはありえないと思うのですが、これも怪我や事故があっても自分持ちが当たり前で、主催者側の責任など問題になることが少なかった昭和の時代らしい風景だなと思います。
幕回しもあったのですが、前述のように自分としては貴重な12枚撮りカラーフィルムを入れていましたので、多くは撮影できませんでした。
電気機関車EF60もいました。
この隣にはD51が少しだけ写りこんでいますが、これが有火状態での展示で大人気でした。けれど私はいつも見られる中津川のD51が珍しくもなかったこともあって1枚も撮影しませんでした。そういう時代であり、そういう田舎に私は住んでいたわけです。このD51は中津川から単機回送されてきた827号機であったと記憶します。45年経った今年になって、D51827はアチハ株式会社の所有となり、有田川町鉄道公園内で、圧縮空気によって運転可能な状態に復元されています。
<2020年10月7日追記>
あたらしい展開がありました。えちごトキめき鉄道が、このD51 827を3~5年契約で借り受けて直江津駅構内で走らせることになったという報道が先月ありました。
ロータリー式除雪車キ600形
これは名古屋鉄道管理局に配置がない形式で、私も初めて見ました。関係者の方は変わった車両を展示したいと他局に手配するなど努力をされていたのでしょう。この画像でも車両に来場者が乗っていますが、画像を見ると改めてヒヤヒヤします。中央付近の背広氏は関係者みたいにも見えますが、注意もしていないようです。
このときは、鉄友2人と行ってきました。そのうち1人は同じ学校の同級生で、あと一人は別の学校の鉄友でした。彼との連絡手段は今とは大違いで、手紙をやりとりして情報交換をして合流しました。今でもこのブログを見ていただいているとのことで、ときにはコメントも頂戴し、大変うれしく思っています。
もう一つ、このブログ記事に上げるために画像を見て驚いたことがありました。それは、こののち半年後に進学した高校で知り合い、同じクラスの鉄友となるN君が画像に写りこんでいたことでした。
この記事へのコメント
中央西線
なって古本屋で鉄道J誌のバックナンバーを手にした時でした。
しなの7号
このころに地元でこういうイベントが開催されることは珍しかったように思いますが、国鉄末期からJR東海初期にはよくありましたね。
自分の小学3年生時代といえば…EF60にマヌ34を見て驚いていたころかな。
やくも3号
ああ、あの時撮っておけばよかった、乗っておけばよかったということは往々にしてありますね。タイムマシンの登場を心待ちにしているのは私だけではないと思います。
模型でも、知らない間に発売中止になっていて、あとで悔やんだことは幾度となくあります。
自動車趣味では、昔乗っていた車にまた乗りたくて、わざわざ新型から旧型に買い換えたことがありますが、周囲からは(?_?)な目で見られました。探せばまだ欲しい車が何とか手に入ることはありがたく、そこは鉄道趣味とは違うところです。でも、手放した際にはずいぶん買いたたかれたのに、数年後に買いなおす時にはプレミアがついて、ずいぶん高価になってしまったりすることは悔しいですが。。
しなの7号
後悔することが増えることイコール齢を取ることみたいな思いがしますが、後悔する理由が自分の怠慢によることが実に多くて、これが情けないです。(´-ω-`)
まだ、インターネットがないころには、買い損ねた模型を探しまくって田舎の模型店巡りをしたり、ずいぶん無駄な労力と財産を費やしたようなこともありましたが、物欲が減退した最近はそうでもないです。プレミア付きで買い戻すことは悔しいですが、今は探して入手することだけでなく、相場も容易にわかるのはありがたいことです。
クルマに対する考え方は、私も別の意味で極めて変であることを自覚しており、一般の消費者の皆さんの常識からいうと「?」なことがありすぎです。一昨年、自動車を購入した時も営業の方から、オプションの内容について電話が入り、「出荷工場からお客さんの注文間違いではないか確認するよう言われたので…そういうご注文は私も初めてなものですから」と言われてしまいました( *´艸`)
abesan11
母が持っていたカメラがハーフ版ということを知り,12枚撮りなら24枚撮りになるので重宝したものです。
昭和47年の10月7,8日は,近くの祭を見に行ったので,よく晴れた日だったことを覚えています。掛川と名古屋なら天気がそれほど変わることは無いと思います。
それにしても,神領の写真にある車両,まさに掃きだめという感じです(笑)
NAO
画像の鉄道ジャーナル誌、私が8歳のときの発刊ですが、本屋さんに行く機会などなかった当時、鉄道ファン誌しか知りませんでした。
私がカメラを中古で初めて買ったのは中学2年のときですが、鉄道を撮りたくて入手したのではなく、愛煙家だった父の使い切った100円ライターを分解したところ、想像以上の点数の部品が出てきて、バラキットよろしくそれらを並べて撮りたいなんてヘンな理由でした。
神領の公開、古き良過ぎる時代ですね。問題ない時代に逆戻り出来れば、乗務員室へは地面からハシゴを伝って入る真の体験になるのですが。前にも書いたかもわかりませんが、別府鉄道土山線を訪れたとき、長ーーい混合列車最後尾ハフは起・終点ともホームからハミ出て、着物姿の高齢女性は乗り降りに難儀されていました。そんな環境下でも1日4往復しかない「営業」列車に乗る理由があったのでしょうね。
しなの7号
高校生の時には現像焼付が自分でできるという理由で、鉄友はみんな写真部に入りましたが、鉄道以外の被写体にまったく興味がなかった私は入部しませんでした。鉄道写真なんかその道の人以外には理解されないだろうから恥ずかしいみたいな思いもあったと思います。
私がカメラを買う段になって、父がハーフはやめとけといって、自らフルサイズのカメラを選んでくれたのは正解でしたが、シャッターを押さずに見送る被写体が増えたのも事実で、ハーフだったらこの日も、2倍撮影していたはずです。
いつも鉄道のこと以外に覚えていることが少なくて、そのとき食べた場所やモノ、天気や季節は記憶に残らない私ですが、天気や季節感は画像で残っていることが多いですのでありがたいです。この日は快晴だったみたいですね(^-^;
しなの7号
鉄道雑誌を知ったのは、たぶん9歳のときでしたが、漢字が読めなくて…
使い捨て「チルチルミチル」、国鉄に就職したころ愛用してました。
前に書きましたが、国鉄時代に武豊線石浜駅から927Dの後2両に乗れば、線路や踏切からの乗車ができましたw
福井鉄道福武線の高床式電車のステップで路面区間で下車するのは、高齢者にはちょっと怖そう。
はやたま速玉早玉
1972年10月は生後4ヶ月、もちろん鉄道の事はさっぱりわかりません。
昔は一眼レフのフィルムカメラを所有していましたが、何しろ重くて荷物になって…軽快に旅が出来ない事を理由に手離しました。近年は専らスマホのカメラ機能に依存しています。
ラッセル車は車体に『金』と記してあるので、金沢鉄道管理局の所属のようですね。車体が黒いので重厚さが増しており、どっしり感というか貫禄を感じます。
古きよき昭和の光景ですね。昔は自己責任。無茶して怪我しても親に自業自得だと叱られましたが…
今は(全てではありませんが)主催者側に『お前らの安全管理はどないなっとんねん』と責任転換、クレームを付けた者勝ちの風潮が。
う~む、何か違う気がするのですが。
しなの7号
またいずれ書くと思いますが、幼少時の鉄道の記憶は5歳くらいからです。それさえも齢を経るとともに夢だったのか現実か曖昧模糊。
このころはコンパクトカメラ時代で一眼レフは持てませんでした。けれど蒸機を撮影するうち望遠レンズが不可欠と気付いていきました。
今はコンデジです。、
このころは除雪車もDD14やDD15に移行しつつあったようにも思いますが、これは蒸気機関車みたいで存在感がありますね。北陸本線で活躍したのでしょうか。
安全管理については、鉄道に限らず日本では格段に進化しましたが、まず個人が「自分の安全は人に守ってもらうものでなく自分自身で守るもの」という前提が忘れられがちですね。
湘南型
スカ色の旧型国電も貴重な車両が移っていますね。
まず、中央に大きく写っているのは72系としての
新製車のクハ79型300番台の前面窓を3枚とも
Hゴムに改造した独特の外観の車両と思います。
そして、向かって右奥に写っているのはサハ78の
事故車を復旧したクハ79904で、大きな全面窓と
助手席側の通風孔が見えてます。
しなの7号
このクハ79300番台と思しきHゴム3枚窓のお面は、今にして思うとJR西のクモハ113-3800番代を連想させますね。クハ79には前サボ差しがあるのが一般的ですが、中央西線では取り外されて平面的に見え、違和感があります。小さく写っているだけでしたがクハ79904もご判別いただけましたか。この車両は旧国と思えないステキなスタイルでしたね。このときも、なけなしの12枚撮りカラーフィルムでしたが、別にこの車両の正面だけ撮影しています。またいずれ別の機会にブログ内で使う予定にしています。
kanbei
春日井市在住のkanbeiと申します。
1年前の記事へのコメントですが、
今週末(2018/10/14)、神領車両区の公開を楽しみにして、
いろいろ検索しているうちにここにたどり着きました。
というのも、家のアルバムに私が3歳の時に神領電車区で
撮影された写真があり、見学者が多数写っていたことから、
何かのイベントだったのだろうと何となく思っていました。
しなの7号様のブログ記事で電車区公開があったと知りました。
物心ついてからアルバムを見ると、
クハ481-200も全国を走り珍しくない車と思っていましたが、
当時は最新鋭の新車だったのですね。
貴重な情報ありがとうございました。
しなの7号
ご覧いただきありがとうございました。
私も、今度の神領車両区の公開には出かけたいと思っています。JRになった直後にも神領電車区(車両区になる前)の公開が複数回ありました。ウチの子が幼少のころでしたので家族で出かけました。リゾートライナー、ユーロライナー、EF65 105(ユーロ色) EF58 122(茶色になる前の青色)なんかの画像が残ってます。子どもたちも今では30歳を過ぎました。