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zoom RSS 【948】 思い出の乗務列車57:中央西線普通列車531D&522D

<<   作成日時 : 2019/01/07 06:20   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 23 / トラックバック 0 / コメント 27

新年から毎木曜日に「中央西線を走った車両たち」について、「国鉄分割民営化まで」のことを書き始めましたので、今回は表題の中央西線の普通列車531Dと522Dに加えて、中央西線に走っていた昼行長距離急行「赤倉」号のことも併せて書いていこうと思います。
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1982年9月24日 下り急行「赤倉」落合川〜坂下

「赤倉」号は名古屋と新潟を長野経由で直通する気動車急行として1962年にデビューしています。私が車掌になったのは1981年でしたが、そのころは新潟から名古屋に着いた赤倉号2802Dの編成は、すぐ普通列車531Dとして多治見に折り返し、多治見から太多線内を回送され美濃太田機関区で滞泊しました。翌朝は美濃太田始発多治見経由名古屋行普通列車522Dで名古屋。折り返して赤倉号2801Dになって新潟に戻っていました。
この普通列車531Dと522Dの名古屋〜多治見間は専務車掌と普通車掌との2人で乗務していました。

急行「赤倉」の所定編成は新潟運転所のキハ58(8両)とキロ28(2両)からなる10両編成でした。
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1982年9月29日 下り急行「赤倉」落合川(後方から撮影)

このうち指定席はキロ2両とキハ2両で、この4両だけが冷房車で、自由席6両は非冷房でした。2両のグリーン車キロ28のうち1両は自車を含めて3両まで給電可能な4VK冷房電源用エンジンと発電機を搭載した2000番代の車両が使用されて、2両の普通車指定席のキハ58に冷房電源を供給していました。自由席のキハ58は基本的に非冷房車が運用され、冷房装置がある車両が充てられたとしても電源がないので冷房運転はできなかったのです。このころの名古屋近郊では普通列車用の113系電車にも新車の冷房付2000番代が運用され始めていましたし、中央西線では他の定期急行列車が100パーセント冷房車になっていたので、「赤倉」は非常に不評な急行列車でした。そもそも名古屋〜新潟間はすでに全区間直流電化されていましたから、電車化されてしかるべきでしたが、1982年11月に上越新幹線の開業が迫っている時期でしたので、上越新幹線が開業すれば、それに伴って廃止される上越線の急行「佐渡」用の165系電車に置き換えれば冷房化と電車化は同時に可能でしたから、キハ58系はそれまでのつなぎと考えられ、無駄な投資はせずにおこうということだったのだろうと私は思っています。

気動車急行時代の「赤倉」は、新潟から8時間半以上かけて名古屋まで乗務してきた車掌長と専務車掌の計3人チームが、夏場には白の麻服着用で大汗をかいて、へとへとになって列車を降りてくるのと入れ代わりに私どもが折り返し編成の531Dに乗務したのですが、こちらは多治見まで1時間少々で、しかも半袖略装でしたからその辛さは比較になりません。どのみち気動車の場合は、客室に冷房があっても乗務員室はまったくの非冷房状態でしたから、長編成の気動車列車の最後部に乗務すれば、鉄粉と排気の油煙で全身がずいぶんと汚れたものです。そして知らない間に垂れ流しトイレや洗面所の排水の霧をまともに受けていたはずです。
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1980年3月? 下り急行「赤倉」釜戸〜武並
増結12両編成で、冷房使用期間ではないためキハは全部非冷房車で組成されている。


この赤倉編成は、多客期や団体利用の場合には2両増結されて12両編成になりました。折り返しの531Dと翌日朝の522Dも、そのままの編成で運用されましたから、増結時は名古屋駅で中央西線用のホームに収まりきらず、赤倉号到着時の先頭車(枇杷島方)の乗務員室と隣接する客用扉がホームにかかりませんでした。このホームは12両対応なのですが、キハ55系以降の準急急行用気動車は、一般の電車よりほんの少し車体長が長いのです。名古屋駅で折り返す列車で、ホームのないところでドア扱いをしたのは、私はこの列車以外に経験がありません。名古屋駅では出発信号機がホーム上の駅員と車掌からは見えない位置にありますから、出発反応標識の白色灯の点灯によって進行を指示する現示がされているかどうかを確認しますが、その出発反応標識はホームの塩尻方先端、つまり車掌にとっては増結12両編成だと250m以上先にあり、夕方の斜光で見難く、目を凝らして点灯した瞬間を確認しないと現示がわからない状態になることがありました。そこまで確認したあと駅側の「出発指示合図器」のブザー鳴動と白色灯点灯を確認して出発に支障がなければ車掌スイッチを「閉」として、各車の車側灯が全部滅灯したのを確認後、車内ブザーで出発合図を運転士に送る手順になります。
この名古屋駅の「出発指示合図器」の位置もホーム中央部にあるので、ホーム先端より先にある列車の最後部までブザー音は聞こえず、出発反応標識と同じように、出発指示合図器の点灯だけを確認して車掌スイッチを「閉」とするしかありませんでした。(これと反対に点灯確認できない状態でブザー音を確認しただけでは、他の線に対する合図と誤認する可能性があるので規則違反になります。)
発車後は12両の排気をもうもうと浴びながらの列車監視になりました。

この531D列車多治見行はたいへん足が遅い列車でした。当時の時刻表をご覧いただくとよくわかります。
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6分前に出た671Mは多治見まで45分の所要時間ですが、我が531Dは1時間04分もかかっています。後続の803M急行「きそ3号」は29分しかかかっていません。そして新守山で531Dは、この急行に追い越されました。
気動車であるがゆえに電車との性能差はもちろんありますが、夕刻の通勤時間帯に設定された2つ扉の急行用車両であることも遅い原因の一つでした。通常は各駅の停車時間は30秒であったこの時代に、531Dは極端に乗降が少なかった定光寺・古虎渓以外の各駅では1分の停車時間が取ってありました。
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そんな列車であっても、2両のグリーン車が普通車代用として開放され、夏場には名古屋まで指定席車だった車両には冷房も入っていましたから、固定客はあっただろうと思います。冷房車は前寄り(塩尻方)4両でしたし、下り仏列車は一般に前寄りの車両の利用が多いものですから、大曽根や新守山といった前寄りにホーム出入口階段がある駅では特に後方から乗降終了の確認をするのに神経を使う列車でした。しかもカーブしたホームがある一部の駅では構造物や列車そのものの死角になって編成全体の乗降確認ができない駅がありました。当時は多くの駅にホームに出場する運転要員が配置されて、駅側で安全確認の上で出発指示合図を出すことになっており、そういう駅では駅側と乗務員側との連携があって問題がなかったわけですが、無人駅では何ともなりません。この列車が2人乗務だった一番の理由はそこにあって、無人駅の定光寺と古虎渓の安全確認が不可欠だったわけです。定光寺と古虎渓は、どちらも渓谷にある小駅で、両駅ともホームはカーブしていて長大編成では列車全体の乗降状態を最後部から確認することは不可能でした。この列車では通勤時間帯なので名古屋を出てからしばらくは混雑するので車内巡回が難しいですが、車内が空いてきたころを見計らって専務車掌は乗務員室を出て、この2つの無人駅では編成中程でいったんホームに降りて前方の安全確認をして、後部の車掌に客扱い終了の合図をよこすという役割分担をしていました。
こういう取扱いは、当時の長大編成のすべてで行われていましたが、後になってITV(工業用テレビ)をホームに設置してモニターを車掌が確認して発車させるようになりました。そのことによって乗組基準が変わり、長大編成でも1人乗務に移行していったわけですが、当時のカメラは解像度が低いだけでなく、モニターもモノクロの小さなブラウン管でしたから、光線状態によってはまったく意味をなさない場面もありました。

この531Dに乗務して多治見に19時過ぎに着くと、その日の乗務は終わりでした。列車のほうは進行方向を変えて太多線内を回送列車として美濃太田へ向かいましたが、太多線内は乗務エリアではなかったので乗務員は交代入力なりました。
そして専務車掌といっしょに駅前食堂で食事をして、あとは多治見機関区内の乗務員宿泊所に行って寝るだけでした。
現在多治見には機関区がありませんから、その存在さえ知る人は少ないでしょう。その多治見機関区について、以前に「【909】塩尻発武豊行?」に書いたところ「たじみ人」様からコメントを頂戴し、多治見機関区の門柱の保存場所をご教示いただきましたので、昨年現況を見てきました。
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当時すでに多治見機関区に車両配置はなく乗務員区になっていましたが、まだ蒸機時代〜気動車時代を越えてきた検修庫や転車台がそのまま残り、乗務員宿泊所や風呂がある建物は古い木造でした。乗務員宿泊所に宿泊する車掌も、その機関区の風呂を利用しましたが、男女別に2つある風呂場はいかにも古い銭湯のような造りで、その片方だけが使用され、もう一方は閉鎖されていました。当時の国鉄には女性職員はほとんどいませんでしたからその銭湯のような男女別構造を不思議に思ったものですが、いっしょに乗務した専務車掌にそのことを言うと、こういう風呂は、昔は官舎に住んでいる職員の家族が入りに来たものだからと教えてくれました。官舎にも風呂がなかった時代の名残だったわけです。

翌朝は、また同じ赤倉編成の522Dで名古屋に戻りました。522Dは、531Dとは違い、美濃太田から太多線内も客扱をしてくる列車で、5分停車の多治見からの乗継乗務でした。グリーン車が普通車扱いになっているのは531Dと同じでしたが、各駅30秒停車で、急行の待避もなかったので多治見6時34分発〜名古屋7時26分着となっていて、531Dより所要時間は若干短く、52分で走破しました。名古屋着が7時半前で、混雑のピーク前に着くように設定されたダイヤでしたのでなんとかなったのでしょうが、2扉の列車では乗降に時間がかかり無理はありました。名古屋市内に入って遅れがちなのを運転士の技量と2両のキロ28以外は全車が2エンジンのキハ58という強力編成の威力でカバーしていたと言えるのかもしれません。ちなみにそのころの中央西線の上り普通列車では金山〜名古屋間である程度遅れが戻ることが多かった印象でした。
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1982年10月12日 上り急行「赤倉」 落合川

私は車掌になった直後の数か月間に4回この行路に乗務しましたが、その後に組別指定の変更があったので、それ以後はこの行路に乗ることはなくなりました。そして1982年11月の上越新幹線開業に伴うダイヤ改正で赤倉号は165系電車化され、折り返す普通列車の運用も変わりました。




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コメント(27件)

内 容 ニックネーム/日時
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
赤倉が名古屋に到着後、その編成はどうしてるんだろう?と昔から思ってましたが、とても解りやすい解説で勉強になりました。

私が初めてこちらにお邪魔させて頂いた時にもコメントしましたが、急行列車というものに初めて乗ったのが赤倉です。
1980年、小学校3年の夏休みの親戚一同での妙高高原&野尻湖方面への旅でしたが、その旅行が数年先だったら、もしかするとしなの7号さんが普通列車として乗務した後の赤倉だったかも知れませんね(^_^;)

後々、新潟側ではどんな運用だったのだろうと調べたら、どうも白新線下りの始発列車で新発田。折り返し、白山行きになっていたようです。列車番号はわかりませんが、下り新発田行きは早通発が6:30〜40だったような気がします。
上りが7:50頃だったでしょうか。登校時間と重なり、通学路が線路沿いでしたので、ほぼ毎日見てました。サボはちゃんと新発田←→白山でした。
白山行きってのが中途半端ですが、その時間帯の新潟駅の容量の限界を超え、敢えて白山行きに仕立てていたのだろうと思われ、白山到着後は回送で新潟駅へ戻り、そこで赤倉になって名古屋へ向かって行ったのだろうと思われます。

電車化されたあとはどういう運用だったのかはわかりませんが、越後線の普通列車で内野。その折り返しが赤倉に変身していたようです。中学時代の鉄ちゃんがグリーン車で内野まで行ってみたと話していたことがありました。
早通団地
2019/01/07 17:21
早通団地様 
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
赤倉号の話をご覧いただけるといいなと思っていましたが、早速のコメントをご投稿いただきうれしく思っています。

この赤倉号の運用そのものは、手持ちの資料からはこれ以上調べようがありませんので、新潟側の前運用の状況はまったく存じませんでした。

手元に時刻表1980年10月号がございますので、おっしゃるルートを辿ってみます。
新潟6:21−921D−新発田7:05
新発田7:26−926D−白山8:31
白山X:XX−回送ー新潟X:XX
新潟9:13−急行赤倉2802D〜
ということになろうかと思います。
長距離運用の前後にしっかり通勤輸送で働いていますね。

電化後のことを見ようと時刻表1984年2月号をめくってみましたら、その時点では越後線は未電化。。。調べると越後線の電化は2か月後の1984年4月のようです。あいにく、それ以後赤倉号が廃止されるまでの市販時刻表が手元にないので確認できませんが、お話から推定するに越後線電化時から赤倉廃止(1985.3)までの約1年間、普通列車で新潟〜内野間を往復してから急行運用に就いたということなのですね。ひとつヒントはあり、私が見習乗務でただ1度だけ赤倉号に乗務した時(1984年5月)に使った業務用の時刻表によれば、1984年2月1日現在の赤倉号新潟駅据付参考時刻「9:25」の印刷が「9:17」と手書きで訂正してあります。ここから推定すると、越後線電化で運用が変わったと思われ、越後線が電化開業した1984年4月以降に内野始発で新潟着9:17という列車が存在していれば、お説は確定的と言ってよいかと思います。
いただいた情報から楽しませていただきまして、ありがとうございました。
しなの7号
2019/01/07 19:39
信越線不通時に松本までで名古屋持ちの寄せ集め編成になった時があり間合いには一般雑多車両が助っ人になったことがありましたね。電車化後は佐渡よねやま赤倉&間合いの壮大な運用の記事が雑誌旅に掲載されたことがありました。
中央西線
2019/01/07 21:55
再びこんばんは。
母方の祖父母の家へ行く時の最寄り駅が巻駅でしたので、幼少の頃は越後線は飽きるほど乗車してました。

学校が終わった土曜の午後、母が「おばあちゃんちに行くよ」と言うと、それはそれは楽しみでした。
従姉弟たちに会えるのも楽しみの一つですが、越後線の汽車に乗れることが嬉しかったですね。急行ひめかわ崩れの快速列車に乗って行ったこともありました。

話がずれましたが、越後線の電化開業は、おっしゃる通り、1984年4月8日でした。
ですが、一部の列車は正式に開業する前から電車で運転されるようになりました。それらの列車に乗ることはありませんでしたが、越後赤塚で交換した新潟行きの115系先頭車を見て唖然したことを35年経った現在でも鮮明に記憶してます。
シートピッチ拡大の1000番台の先頭車ではなく、丸窓のおんぼろ(に見えた)車にパンタグラフがある。なのに、顔は1000番台と同じ顔
。某俳優(故人)ではありませんが「なんじゃこりゃ〜?」と心の中で叫びましたよ。
急行赤倉となる列車も、もしかすると正式に電化開業される前に165系の運用で、内野への一往復のアルバイトをしていたのかも知れませんね。

P,S,管理人さんが高校生の頃に通学の足として乗車していたキハ52ですが、巡りにめぐってその番号が私の地元でつい最近まで活躍していたんですよね。なんか不思議な感じがします(^_^;)
早通団地
2019/01/07 22:37
中央西線様
信越本線が不通になったときは、まだ荷物列車乗務時代で、車掌になる前でしたので、その普通列車に乗務することはなく、現物も赤倉編成しか見ていません。中央西線沿線に長く住んでいながら、中津川まで顔を出す列車でないと、見たり乗ったりする機会は限られていました。EF58,EF60,72系電車などもそうです。103系も乗務と転居がなければ、自分には縁が薄かったはずです。
「旅」誌の記事は記憶にないですので、買っていない号だったかな?
しなの7号
2019/01/08 08:54
早通団地様 こんにちは。
電化工事が完成すると、開業を待たずに在来のダイヤで電車に置き換えて営業する列車がありますね。
中央西線の中津川電化で、先行して所定の客車を70系電車に置き換えた列車に乗り合わせたことがありました。客車ダイヤで走るので常に早着になり、停車時間が各駅とも異常に長かったのを記憶しています。

国鉄末期には新しい運転室部分を取って付けた魔改造電車が続出でしたね。越後線の開業が2月の全国ダイヤ改正から遅らせて開業した理由は知りませんが、新ニイ165系は佐渡運用が減った2月以後は余裕ができ、改造もなくそのまま越後線で使えたでしょうから、4月の電化開業に先行して赤倉号の前運用として越後線で使われたかもしれないですね。
P.S.
キハ52の広域転属や、赤倉編成の広域運用も国鉄ならではのことでした。時を経て中央西線で通学に使ったキハ52や、赤倉で見たキハ58に米坂線で再会できるとは思っていませんでした。
しなの7号
2019/01/08 08:54
しなの7号様こんにちは
赤倉はあまり利用したことないですね
名古屋を遅い時間に出るのがそうなのかもしれません
いくらなんでも暑い名古屋に顔を出すのに非冷房急行は無いですよね
西日本の気動車急行の冷房率は高い感じです
九州の気動車急行は100%だったような・・
2枚目のお写真後ろから2両目
冷房準備車の1500番台のようですね
弟がまだ小さい頃、夜尿症で
中津川の病院が良いと言うことで母が度々つれて行ってたのですが
最初の頃、新潟行きという行先にビビっていたと話していました。

急行きそ
客車きそが名古屋を出る少し前に気動車きそと電車きそが先行していたような記憶がありますが
気動車きそは何処へ行ってたのでしょうか?
名古屋の車両でしょうか?
ヒデヨシ
2019/01/08 12:19
ヒデヨシ様 こんにちは。
DC赤倉号は、私が乗っていた名古屋10時発しなの7号の続行でした。しなの7号も新幹線連絡のお客さんが多い列車でしたから、名古屋周辺在住者には遅い時間ですね。EC化で名古屋発時刻は約1時間早まりました。
2枚目の写真ご指摘の車両はキハ58 1500の冷房準備車に間違いなさそうです。自分が乗務している頃、名鉄局のキハ58系の冷房化は完了していましたから、この列車以外に冷房準備車に遭うことはなかったですが、数が少なくて、先頭になった写真は撮れていないように思います。

夜行急行の件ですが、古い時刻表を紐解きましたら、53.10から電車と客車の2本体制になっていまして、それまでは電車(季節列車)・気動車・客車の順に運転されていますね。
1978年夏時点での名古屋発の時刻は
23:31 きそ4号 長野 6807M
23:45 きそ5号 長野 809D
23:55 きそ6号 直江津 801
の順で、809Dには季節列車つがいけ2号糸魚川行を併結となっています。所属や運用はわかりません。
しなの7号
2019/01/08 15:53
しなの7号様こんばんは
夜行のきそ
わざわざ調べていただきありがとうございます
さして違わない時間に3本
電車、気動車、客車とタイプの異なる車両を使っているのが面白かったです。
気動車急行は非電化区間直通のつがいけ併結のために気動車だったのですね
そのため季節列車のつがいけが無いときでもきそが気動車なのは納得です

キハ58 1500は両数が元々多くなく
また冷房化されないまま生涯を終えた物も多かったと聞いています
115系も信州や甲州で冷房準備車ありましたね
ヒデヨシ
2019/01/08 22:58
ヒデヨシ様 こんにちは。
そうですね。電車ではできないことをちゃんと気動車にやらせて、車両運用に無駄がなく合理的だなと思います。
ところで、逆に不合理に思ったのが赤倉号の冷房準備工事が冷房改造に活用されず放置?されている点です。そのころの名古屋・美濃太田・新潟のキハ58の配置状況と冷房化状況を1980年版国鉄車両配置表を参照して調べてみると、こんな状況でした。
名古屋第一 キハ58−19両配置
全車冷房改造済(そのうち1100番〜1両)
美濃太田  キハ58−34両配置
全車冷房改造済(そのうち1100番〜1両)
新潟  キハ58−65両配置
非冷房57両・冷改済8両
そのうち1500〜2両(冷改車なし)
(1100〜の配置はなし)

冷房化の差は歴然としていますが、新潟の冷改車はすべてモデルチェンジ前の車両ばかりで、冷房準備工事車が活用されていないのが不合理に感じます。
しなの7号
2019/01/09 07:50
しなの7号様
こんばんは
以前【481】回に旧サロ85の思い出を投稿させていただき、その後もずっと楽しく拝読しております。
DC急行赤倉も、“長い時間乗っていられる”大好きな列車でした。名古屋駅には、522Dで到着した7時36分から入線したままだったんでしょうか??
いつも自由席10号車に9時前には乗り込み、全開にした窓辺から2本のしなのを見送りながら、発車時刻までボケーと停車中の“カラカラ”エンジン音と排気の匂いに酔いしれていました。
走行中は、非冷房車なので安心して窓全開できるので、カーブ区間で先頭車からつながる長大編成を満喫していました。
山間区間に入ると、また別の楽しみがありました。連結部に向かい、右側の助手席(?)が当時開放状態だったので、前方は妻面しか見えませんが、イスに座って運転手気分を少しだけ味わっていました。トンネル入口で、ちょっとだけ警笛ペダルを踏んでみたり、乗員ドアの窓を下ろしてちょっとだけ前方覗いてみたり、手動のワイパーもちょっとだけ動かしてみたりと、どれも違反行為ですよね。ドキドキしました。
目的地の松本駅には、確か14時過ぎに到着だったような。もう2度と体験できない4時間の鉄旅。
懐かしい昭和の思い出ですが、乗務されている方々は想像以上に大変だったんですね。
今は北海道に住んでいますが、いつか、もちろん安全な中でですが、高級じゃない鉄道本来の楽しさや喜びを感じられる時代がまたやってこないかなと、思う今日この頃です。
Yamanty
2019/01/09 19:05
Yamanty様 こんばんは。
想い出のご投稿ありがとうございます。
私が乗務したころ522Dは名古屋到着が10番線で、いったん神戸方留置線にへ引上げていました。当時の時刻表で確認してみましたら赤倉号は7番線から発車したことになっています。列車本数の多い今ではあり得ませんが、7番線から9時20分発の普通列車多治見行が出たあとは10時03分発の赤倉号まで7番線から発車する列車は見当たりませんので、最大40分間程度は7番線を占領できたと思われます。松本着は13時11分。(以上は1980年10月改正ダイヤです。そういうパターンや時刻は、ダイヤ改正のたびに変化したと思われますので念のため。)
DMH17系エンジンのアイドリング音は本当に懐かしく思い出されます。中間運転台でのちょっとしたいたずらも身に覚えはあります。
ほんとに、今は速くて快適な車両に進化したことは確かですが、純粋に乗って楽しめる列車がなくなってしまったことを残念に思います。
しなの7号
2019/01/09 21:29
しなの7号様
いつも楽しく拝見しています。
高蔵寺−名古屋を1年間通学で使っていました。妙高高原の土石流で「赤倉」の松本返し、53.10改正で普通列車大増発等、大変化の年でした。522Dでは学校に遅刻の為あまり乗りませんでしたが、週の半分は531Dや529D(名古屋16:44美濃太田行)のG車利用でした。名古屋乗車の私には快適でしたが、千種,大曽根乗車だと苦痛だったと思います。当時は531Dの前が17:55快速中津川行(80系 大曽根−多治見無停車)、後が18:31高蔵寺行という閑散ダイヤで、多治見以西の各駅へはこの列車に乗らざるを得ませんでした。
当時中央線名古屋口の急行間合い列車は他にも
比叡 高蔵寺→名古屋7:11,名古屋20:55→高蔵寺
つがいけ 名古屋5:50→瑞浪→名古屋8:04
のりくら 美濃太田→瑞浪→名古屋9:54,名古屋16:44&20:35→美濃太田
があり、全てG車付でした。名古屋発はG車開放、名古屋行のG車は締切扱いだったと記憶しています。
つがいけN1
2019/01/10 18:39
連投失礼します。

早通団地様のコメントにある新潟側の間合いは'83年1月の時刻表では
921D 新潟6:20→早通6:44→新発田7:13
926D 新発田7:25→早通7:55→白山8:31
とご記憶に合っています。926Dの20分前に馬下発関屋行の客レもあり、越後線への需要は大きかったと思われます。926Dが白山行だったのも、付近の新潟高校や新潟商業高校など学校や官公庁への通勤通学需要対応のようです。
他方、越後線電化時の'84年4月の時刻表には
425M/138M 長岡6:37→内野8:46
139M 内野8:56→新潟9:17
があり、しなの7号様の情報から「赤倉」の間合いだと思います。425Mには4月8日までは新潟止まりという注釈があります。6:37以前に長岡終着となる列車がなく、その前は不明です。
つがいけN1
2019/01/10 18:40
つがいけN1様 こんばんは。
あのころの名古屋口の時刻表を見ると、今とは比べものならないほど列車本数が少なく不便だったことが改めて思い出されます。その代わり、使用される車両の種類が多くて、狙って乗る列車も多数存在しましたし、逆に乗りたくなくても1本遅らせれば、長時間待たねばならず、しかたなしに乗りたくもない列車に乗せられることもありました。要するに中古車寄せ集め路線だったわけですけれど。
私は商売柄、毎日出勤時刻が異なり、通勤時間帯は仕事中ということがほとんどなので、通勤は出勤退勤とも日中が多く、決まった通勤列車はありませんでした。中津川からは日中の普通列車が毎時1本だったので、出勤前や退勤後に一時間近く時間つぶしをする羽目になることもあり、そういう時は名古屋から美濃太田行のDCに乗って多治見で後続の中津川行乗りかえたことはあります。ハ代用のグリーン車も乗務での関わりがほとんどでしたので、それを楽しむわけにはいきませんでした(;^ω^)

時刻表の調査ありがとうございました。
ところで'83年1月には、赤倉は電車化されています。それでも私が1月7日にコメント投稿した1980年10月号のダイヤとはほぼ同じのようですね。学校や官庁の始業時刻に合わせれば、そういうことになるのでしょう。
越後線電化時の'84年4月の時刻表情報もありがとうございました。新たに早朝に長岡始発として使われていた可能性が濃厚になりましたね。そして越後線電化開業前は新潟止だったということになると、私が1月8日にコメント投稿した、越後線開業前に先行電車化して内野折り返しをしたかもしれないという想像は消滅。
長岡までは時間的に言って回送列車だったかもしれないですね。
しなの7号
2019/01/10 21:26
しなの7号様
「赤倉」の電車化と同時に「つがいけ」がなくなり、「赤倉」の名古屋発は「つがいけ」との間を取った感じで約1時間早まって9:02となりましたね。それまでの「赤倉」の停車駅である千種・多治見・瑞浪・恵那・中津川・南木曽・木曽福島に加えて、「つがいけ」が停車していた春日井・土岐市・坂下・上松や、それまで季節停車だった藪原にも停車することになりました(そのころ、市の代表駅にはとりあえず1本は優等列車を止める方針になっており、当時快速が通過していた春日井に急行が停車していました)。
これだけ停車駅を増やしても、電車化によるスピードアップ効果は大きく、気動車時代の松本での「しなの」退避はなくなり、長野には後続の「しなの」より先に着くようになったのがインパクトありました。
「赤倉」が電車化したころには名古屋を離れていたので、間合い運用の普通列車があったかどうかわからないのですが、どなたかご存知ですか?
つがいけN1
2019/01/10 22:05
つがいけN1様 こんにちは。
今回の記事ではDC時代について書きました。以前に
【246】乗務した車両:165系電車(3)
https://shinano7gou.at.webry.info/201202/article_2.html
で、EC化後の赤倉号名古屋到着後のことも少し触れています。
EC化後に関することは、その補足をしたうえで、次回アップする記事でご用意します。
しなの7号
2019/01/11 06:44
しなの7号様
過去記事のご案内ありがとうございます。赤倉の電車時代は間合い運用列車が高蔵寺行だったのですね。急行型でも165系6M4Tなら、夕方ラッシュ時でも他の普通列車並みの所定33分で十分そうですね。
つがいけN1
2019/01/11 19:06
つがいけN1様
そういうことです。次回もご覧ください。
しなの7号
2019/01/11 20:29
しなの7号様 はじめまして
いつも興味深く拝見しております。
小生は1973年生まれなのですが、小学校就学前に母親に連れられて、瑞浪始発の気動車列車のグリーン車で名古屋までよく出ておりました。
その列車は記事にあります522Dではなく、美濃太田から瑞浪行となって来て(某私立高校の通学列車であったと思います)、折返し名古屋に出るというものであったと記憶しております。
当初はその1本前の確か木曽福島発の80系列車を利用していましたが、ある時グリーン車にタダで乗れるということに母が気が付いたのか、こちらの列車に乗るようになりました。
夏は冷房、冬は暖房が暑いくらいによく効いており、母親は靴を脱いで足置きをひっくり返してエンジ色の部分に足を投げ出してグリーン車を満喫しておりました。私も子供心に得な列車だなぁと思っておりました。こちらは名古屋到着後は、のりくらか何かになったのでしょうか?
しなの7号様の詳細なレポートが、小生の子供時代の淡い記憶をよみがえらせてくださり、思わずコメントさせていただきました。長文失礼いたしました。
サハ75100
2019/01/12 00:22
サハ75100様
ご覧いただきありがとうございます。
私も、母に連れられ幼少時代に普通車扱いのグリーン車(私の世代は1等車)に幾度か乗車した思い出がございます。中津川発の上り一番列車で、後に快速化され、47.3(新幹線岡山開業時)に電車化されています。時期や列車は違っていても同じ中央西線にあった急行編成の気動車普通列車でしたので、まったく同じ思いで乗っていました。まだ非電化時代でしたので、うちの母にすれば、SLが牽引する次の列車と違って煙が出ないですから衣服が汚れないし、トンネル区間の窓の開け閉めが不要なこともあって、より一層のお得感があっただろうと思いますが、自分が未就学のころキロは非冷房でした。
【889】鉄道趣味を自覚し始めたころ〜切符・車両・参考書籍
https://shinano7gou.at.webry.info/201806/article_5.html
そのときのことは、↑ここで書いています。

サハ75100様のコメント内容から、その列車にご乗車されたのは1978年前後のことかと思い、その年夏の名鉄局の時刻表(昭和53年2月28日訂補)を紐解きましたところ、
524D瑞浪8:47−名古屋9:54(11番線)
となっていて、東海道本線のページをめくると11番線から10:25に713Dのりくら2号高山行がありますので、関係がありそうな気がします。関西本線のページを見ますと同じ11番線から、そのあと10:42に903D紀州2号天王寺行がありますので、名古屋のホームで2列車分割の可能性も???
しなの7号
2019/01/12 10:23
しなの7号様こんにちは。
DC急行「赤倉」の思い出で盛り上がっていますね。
私は「赤倉」には乗車体験がないのですが、キハ58系は身近且つ好きな車両の1つで思い出深いです。80年代でも急行列車に非冷房車が多数投入されていたことに驚きました。関西以西では急行用は冷房化が終わっており、2エンジン車2両編成の南海「きのくに」は冷房化が不可能で夏季は併結すると国鉄車両に乗客が移っていました。九州の直方に配置されていた修学旅行用800番台は全車非冷房車でした。
少数派だったパノラミック車ですが、模型の世界では大人気でNもHOもカトーが発売するまでこちらばかりだったと思います。(HOはしなのマイクロだけ平窓?)
門鉄局
2019/01/12 12:35
門鉄局様 こんにちは。
DC時代の急行「赤倉」は、キハ65とかキハ28が入らず、長大編成なのに普通車が全部キハ58というのが特徴だったと思えます。
あのころ西日本で非冷房の急行は、おっしゃるような特殊な例に限られました。修学旅行用800番台は、155・159系電車と同じく非冷房のまま廃車の運命をたどりましたが、私が初めて九州に行ったとき、まだキハ66・67がないころでしたので、真夏でしたが急行「日田」と思われる列車に800番代のキハ28が使われていました。塗色がたいへん印象的だったので撮影したのですが、カラーフィルムではなかったので、写真を見ても一般車と見分けが付きにくいです。(洗面所窓の形でわかるんですよね)
キハ58の模型は永大・TOMIX(旧)はパノラミック車しかなかったですが、やっぱり平窓車にいちばん馴染みがありますし、部分的にパノラミック車が入る編成が自然だと思います。
しなの7号
2019/01/12 14:30
こんばんは。

>つがいけN1さん
急行赤倉の前運用の詳細、ありがとうございます。母方の祖母の家に日帰りで行く際、白新線の始発列車に乗るために早通駅へ向かって歩いてると、必ずその列車を見ることができました。
ちなみに白新線の始発列車(だと思います)もキハ58系オンリーの編成で、こちらは新潟到着後は急行羽越となって秋田へ向かって行ったようです。ホームにはたくさんのお客さんが待ってました。
始発列車で新潟を降りると越後線に乗り換えとなるのですが、こちらは急行型から一変して通勤型のキハ35(30も混じってた可能性大)オンリーの編成。確か大河津行き(現在の寺泊)だったと記憶してます。

>管理人しなの7号さん
越後線の電化開業、当初は4月1日を予定してましたが、一週間延びて8日になりました。
地元の新聞に、電化絶望!そんな記事が出ましたが、最後までよく読まなかったので「越後線で電車が走ることがなくなった」と落胆しました。
いま思えば、開業が遅れる…という内容だったのかも知れません。

どういう理由だったのか当時は知るよしもありませんが、いま思うに必要な115系が揃わなかった。もしくは改造が間に合わなかったのかも知れません。
基本的に115系は寒冷地仕様の電車ですが、沼津のクハ115-2100は暖地向け。0番台は寒冷地仕様ですが、更に耐寒耐雪工事を施したようです。

それらの強化改造が間に合わず、やむなく4月8日にずれ込んだのかな?と思います。
早通団地
2019/01/12 22:23
しなの7号様 ありがとうございます。
お示しいただきました記事も拝読させていただきました。
時代は違えど、自分と同じ気持ちで列車に乗っていた幼少時代を過ごされていたとは…私もあの頃の体験が鉄道への興味につながっています。
また名古屋到着後についてのご考察もありがとうございます。
幼児の記憶なので確証はありませんが、524Dのキロ28は名古屋方に(既に車内の号車札や間仕切り扉の緑色の指定席表示などは差されていて2号車だったような…)1両のみであったように思います。瑞浪ではホーム屋根のない前よりで乗車し、千種では前方階段よりも名古屋方で下車した記憶があります。ドアカットの案内放送はなかったと思います(12両未満?)。
のりくら・紀州の2列車分割だとすると、編成後方にもグリーン車があったのではと思いますが、これについての記憶はありません…
サハ75100
2019/01/12 23:16
早通団地様 こんにちは。
今回初めて越後線の電化開業時期を知りました。「59.2」と呼ばれた1984年2月に行われた全国の貨物列車大改革を伴ったダイヤ改正から2か月遅らせた電化開業には、たとえば地域的に見れば積雪期の電化工事に無理があるので春まで延ばしたというような事情があったのかもしれませんが、ほかに深いわけが隠されているようにも思えます。以下、まったくの推測ですが、2月に職場が廃止または縮小され大量に余った貨物要員を春までに旅客に要員に、またDCやDLの運転・検修要員をECへ、それぞれ転換教育する必要があったと考えられます。2ヵ月のズレはそういう期間を設定した結果とも受け取れます。そしてさらに1週間開業が延びてしまった原因は、おっしゃるように1月まで他線区で使った車両の改造が間に合わなかったという可能性に加え、人的養成や、地上設備建設なども計画通りに行かなかった可能性もあろうかと思いました。2月に全国規模で貨物関係の職場がなくなりましたから、おそらく労組の抵抗があったとも考えられ、労使交渉の長期化や争議行動の結果、事が計画通りに運ばず、1週間延ばしたのでは?ということも頭をよぎりました。ただし、当時旅客専門部署にいた私は、そのころのことは記憶から遠ざかっていますので、何も調べずに根拠もなく想像だけの無責任発言ですので、あまり信用しないでください(;´∀`)
しなの7号
2019/01/13 14:00
サハ75100様 こんにちは。
幼少のころに、身近に走っている鉄道車両の種類が多いと、鉄道趣味の道に入る動機につながるのは確かですね。当時の中央西線は、東海道本線のような大幹線ではなかったにしても、寄せ集め所帯の様相を呈していました。それに加え、“当たり”と言えるグリーン車のハ代用や1等格下げ車は、さらに鉄の素質を高める要素を持った存在だと思います。
瑞浪駅と千種駅の乗車位置のご記憶からすると、けっこう長い編成だったようですね。私が赤倉の増結12両編成に乗務したころ、中央西線名古屋〜多治見間で、最後部車両の後寄りドアがホームにかからない場合がありましたが、そのドアから降りようとする人が居ても車掌からわかりますので、ドアカットは行っていませんでした。
しなの7号
2019/01/13 14:01

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【948】 思い出の乗務列車57:中央西線普通列車531D&522D 昭和の鉄道員ブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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