【959】 中央西線を走った車両17 :12系・14系・20系客車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないことも、あらかじめご承知おきください。


~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~


12系客車は波動輸送用として製造された客車でしたから、中央西線のように季節や曜日による輸送量の増減が激しい線区では、臨時列車を中心によく入線していました。
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1973年2月3日 急行「ちくま1号」 釜戸駅

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1973年5月5日 臨時快速「木曽路」 坂下~落合川

12系客車は定期急行「ちくま」・「きそ」にも使用されるようになりました。「ちくま」では20系寝台車と12系が併結されました。

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1986年8月21日 長野で

時刻表を見ますと、1986年の1~2月に臨時急行「なにわ銀嶺」という寝台列車が運転されたことになっています。深夜なので見に行ったわけではありませんが、おそらく宮原の20系で運転されたのではないかと思います。中央西線の定期列車で座席車がない寝台列車はなかったので、一般客扱列車としての寝台列車は珍しいと思います。
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時刻表画像は1985~1986年(60.3改正時)冬版名古屋鉄道管理局ポケット時刻表の臨時列車ページです。大阪発妙高高原行で運転日は1/31・2/14・2/28でした。(折り返しは2/2・2/16の運転)。その前年の冬にも臨時急行「なにわ銀嶺」は時刻表の臨時列車ページに名を連ねていますが、全車普通車座席指定となっていますので、12系か14系だと思われます。また、国鉄最後の61.11ダイヤ改正後の1987年冬の臨時列車欄には「なにわ銀嶺」の名はありませんでした。

その1986年11月のダイヤ改正では、「ちくま」の20系寝台車が14系寝台車に置き換えられました。

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国鉄最後の1987年の正月 長野で


20系・14系とも中央西線内は深夜の運転でしたので、国鉄時代に撮影したことは一度もなく、乗務で行った先の長野駅の側線に日中に留置されている画像しかありません。


 「ちくま」の寝台車が14系に代わっても座席車は12系が使用され、中央西線で定期列車に14系座席車が使われることはありませんでしたが、臨時列車には14系座席車は幾度も使われました。

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1985年9月1日 臨時急行「赤倉」 恵那~美乃坂本

1985年3月のダイヤ改正で名古屋・新潟間を結んでいた急行「赤倉」が廃止されたあとも、14系座席車による名古屋・妙高高原間を昼行臨時急行が「赤倉」を名乗り、多客期だけ臨時運転されていました。

この年、名古屋鉄道管理局で団体用としてジョイフルトレイン「ユーロライナー」が12系客車から改造されてデビューすると、臨時急行「赤倉」と同じダイヤで、一般客扱の臨時急行「ユーロライナー赤倉」が全車グリーン車扱で観光シーズンに運転されるようになりました。
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1986年1月16日 臨時急行「ユーロライナー赤倉」美乃坂本~中津川


ところで、デビュー直後の年末年始(1985~1986)のユーロライナー編成は、年末年始や夏休みの最繁忙期には編成を分割して、スロフ(展望開放席車)が臨時急行「赤倉」の前後に展望グリーン車として連結されました。

(分割したオロ(個室車)は臨時特急「金星」などに使用)

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臨時急行「赤倉」美乃坂本~中津川


このあと、ユーロライナーは、編成単位で国鉄最後の冬シーズンには夜行「シュプールユーロ赤倉」に使用されるようになり、この運転形態でJRに引き継がれました。


観光地信州へ向かうアクセスルートとなっていた中央西線には、団体列車として、数多くのジョイフルトレインが国鉄時代に入線した実績があります。ユーロライナーは、中央西線では珍しくも一般客扱いの列車として運転されたことがあったので、ここでご紹介したのですが、そのほかのジョイフルトレインについては、機会を改めてアップする予定にしています。


<2019.2.14 AM11:50>

 1985~1986年(60.3改正時)冬の時刻表臨時列車ページ画像を追加しました。











この記事へのコメント

  • とうかいしれい

    こんにちは
    1985~1986年は、「第1次鉄ちゃん時代」でした。
    時刻表にある急行「きそ51号」は、池田町トンネルの出口付近で撮影し、急行「信濃路」、急行「ユーロライナー赤倉」は多治見駅でそれぞれ撮影した記憶があります。あとは夜行なのでムリでしたね…。
    そんな中でも、関西地区の学校のスキー合宿で仕立てられて来ていた20系客車の回送を多治見駅でよく狙いました。長野や妙高高原から長駆名古屋までわざわざ回送というのが当時不思議でした。
    午後にやってきて多治見で運転停車することが多く、珍しい20系客車をじっくり眺めまわすことができて大満足でした。
    某鉄道雑誌の記事で走行日を知り、今でこそ言えるのですが、多治見駅の停車時刻は国鉄名古屋に電話をして聞くという、いわば「禁じ手」を平気でやってました。当時はすんなり教えてもらえるおおらかな時代でもあったのですが、タイミングが悪いと、
    「いま、新幹線が遅れているんだ! そんなことに答えているヒマはない!」と電話をガチャンと切られた苦い思い出も。

    「なにわ銀嶺」名前を聞いて思い出しました。そういう名称の列車ありましたね! 「変な名前だな~」と思ったのを思い出しました。
    懐かしい列車の紹介、ありがとうございます。
    2019年02月14日 19:43
  • しなの7号

    とうかいしれい様
    臨時列車は夜行が多くて、撮影は困難でしたね。20系を含む団臨のことは、また別の記事で。
    あのころ臨客のダイヤは雑誌でかなり捕捉できましたし、車掌区には時刻を調べるために高校生がよく書き写しに来ていました。分割民営化前年にピタッと彼らを見なくなりましたから、そのころ部外者に対して厳しくなったのだと思います。〇〇銀嶺という臨時列車名は昭和40年代にはたくさんあった記憶です。シュプール号のルーツ的な存在でしょうか。
    2019年02月14日 20:08
  • とうかいしれい

    ありがとうございます。
    車掌区に聞きに来る人もいたんですね。
    僕は電話ばかりでした。小学生にとって、電話で大人相手に物を尋ねるのは、なかなかドキドキもの。と同時に「回のキューパーニーヨンね?」などと独特な言いまわしにワクワクしたものでした。

    たしかに、分割民営化になって厳しくなったと思います。電話しても「そういったことは教えられません」がデフォになり、冷たい(それが普通なのだろうけど)対応が怖く感じ、いつしか聞かなくなり、受験やら何やらで鉄道からも遠ざかってしまいました。

    また20系を含む団臨記事、楽しみにしています。
    2019年02月14日 21:08
  • 中央西線

    何時だったか中央線では最後の客レになる気がしてさわやかウォーキング号の客レを撮影に行った記憶があります。
    2019年02月15日 07:50
  • しなの7号

    とうかいしれい様
    現場での列車番号の呼び方は面白いですね。父が乗務員だったので塩尻電化前の中央西線8877列車の貨物列車のことを「いつもウヤになるパーパーナナナナ」などと言ってたのを聞いてましたので、そういう言い方を知りました。

    電話の場合はどうなのかわかりませんが、部外者の現場事務所への立ち入りが厳しくなったのは、私がそういう高校生たちが来なくなったのを知ってるくらいですから国鉄末期。察するに国鉄改革反対の取材とかテロまがいの行為を想定して達示でもあったのではないかと。
    2019年02月15日 14:13
  • しなの7号

    中央西線様
    私はそのころは仕事が忙しくて、しかも撮り鉄廃業でコンデジ1台体制になった後でした。
    中央西線で客車を撮影していたのはユーロライナー+ユーロピアのシュプールがあったころまでです。
    2019年02月15日 14:17
  • abesan11

     1988年の夏に「信越高原号」に2度乗りました。
     目的地は,妙高高原と木曽福島でした。客車に乗ったのは小学生低学年の時以来で,出発時に「がたん」と揺れたのをよく覚えています。
    2019年02月15日 22:19
  • しなの7号

    abesan11様
    1988年といえば、すでにJR時代に入っており「信越高原」の愛称名もその年から使われるようになったと記憶します。上りで、1991年に長野から上りに乗ったときのことを
    【86】「回想」列車・長野行1991年
    https://shinano7gou.at.webry.info/201010/article_11.html
    で、最後の方に少し書いています。
    上り「信越高原」は本文に書いた国鉄時代の臨時「赤倉」及び「ユーロライナー赤倉」のスジを継承した昼行急行で名古屋に夜着きました。下りは夜行で岡崎始発のシーズンもあったと記憶します。
    14系客車は密着自動連結器ですが、機関車はそうではないし、牽き出しの前後ショックと引っ張られる感触が伝わってきますね。
    2019年02月16日 08:11
  • 門鉄局

    しなの7号様こんにちは。
    12系客車は昭和50年代初頭まではほとんど波動輸送用で
    大きな側窓に艶々の塗装が眩しくで憧れたものでした。初乗車は53年頃、外見同様冷暖房完備の車内は明るく客車ならではの静かな乗り心地に大満足でした。旧形客車の置換えで定期急行に使用されることが増えたのは53・10改正だったと思います。中・高生時代の周遊券や18切符の旅でよくお世話になった思い出の車両です。
    14系座席車で思い出すのは急行「雲仙・西海」「阿蘇・くにさき」ですね。特急車両に急行料金で乗れる当時の国鉄では破格のサービス列車だったと思いますが、背もたれをロックできない簡易リクライニングシートはあまり寝られなかった記憶があります。下り寄りに旧形荷物車マニ37が連結されているのが面白かったです。
    20系は「銀河」で一度だけ乗車しましたが、以前乗った10系寝台車と車内は同じで寝台灯が蛍光灯なのと通路に折り畳み椅子がある位の違いでしたが、固定窓による防音は元祖ブルートレインの貫禄十分でした。
    OO銀嶺OOビーチ、房総夏ダイヤなど時刻表が季節の移り変わりを伝えてくれました。今はありませんね。国鉄分割どころか更に細かく切り刻まれてしまった鉄道網、ゆくゆくは鉄道空白地帯ができるのでは?と思ってしまいます。
    2019年02月19日 12:00
  • しなの7号

    門鉄局様 こんにちは。
    各系列についての思い出の投稿ありがとうございました。
    12系はここにアップしたようにSL末期から地元で見るようになりました。白線が入った12系に対して、幼少時から一目置いた存在であった20系ブルートレインに思いを馳せたものです。しかしSL列車には新しすぎて当時はまったく似合わず、電源エンジン音が興ざめでした。初乗車は季節運転のDD51牽引急行「ちくま」だったと記憶します。
    14系座席車への初乗車は九州帰りの臨時特急「しおじ」でした。簡易リクライニングシートは不評でしたね。樽見鉄道に譲渡され通学列車に使われたのにはびっくりしました。自分的には特急車ですので。
    20系客車には、プライベートでも乗務でも乗ることがありませんでした。乗ることはなくても中央西線でそのご尊顔?(大部分がハゲ頭でしたが)を拝めるようになり、団臨とその回送の撮影には通いました。その画像は機会を改めてアップします。

    夏と冬の時刻表はページをめくるのが楽しみでしたが、今はさっぱりですね。
    (時刻表の話になりましたので、ちょっと続けます)
    2019年02月19日 17:30
  • しなの7号

    <続けます>
    この記事の前のほうにある、とうかいしれい様への返しコメントに「〇〇銀嶺という臨時列車名は昭和40年代にはたくさんあった記憶」と書きましたが、1969年1月版の名古屋鉄道管理局のポケット時刻表を今手元に持ってきましたので、「スキースケート列車のご案内」ページにある関西・名古屋発着の「〇〇銀嶺」「〇〇スキー」を名乗る列車を挙げてみましょう。

    ◆「志賀銀嶺」2等寝台・2等座席全指定(大阪⇔長野)客車
    《一部運転日は2等座席全指定(湊町⇔長野)を名古屋~長野間で併結》
    ◆「伊吹銀嶺」2等全車自由席(大阪⇔大垣)電車
    ◆「おくみのスキー」2等全車自由席(名古屋⇔北濃)気動車
    ◆「のりくら銀嶺」1・2等全車指定席(名古屋→飛騨古川)気動車
    ◆「くろゆり銀嶺」2等全車指定席(大阪⇔飛騨古川)気動車

    この他にも〇〇51号の類があります。43.10でDC181系しなのがデビューした最初の冬です。関西・東海道の列車を併結して長野に向かう運転形態など今では信じられない世界です。
    2019年02月19日 17:35
  • NAO

    しなの7号様、おはようございます。
    ユーロライナー臨時急行の列車追跡記事を読んでいたとき、妙高高原駅だったか、白麻盛夏服カレチさんがEF64の機回し添乗される写真を見たことがあります。制服を汚さないように気を遣っておられたのではと思いました。雨の日だったら大変だったのではないかと。
    「なにわ銀嶺」の列車名は初めて知りました。通常だったら行先の地域名を冠するのではと思いました。
    2019年02月20日 06:51
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    私は妙高高原の入換列車には当たりませんでしたが、ここの入換は冬場が地獄。足場は雪の壁でステップは凍っているし、雪国での慣れない添乗は危険極まりなかったと聞いています。雨衣は貸与されていても雪靴の貸与はなく、革靴でステップ乗るわけにもいかないでしょうから、駅で貸してもらうしかないか…そういうことのほうが現場の職員として気にかかることでした。

    「なにわ銀嶺」と聞いて、なにわスキー場があるのかと思う人が…たぶんないと思いますが、サロンカ―なにわ編成だと思う人はいたのではないでしょうか。
    2019年02月20日 07:46
  • ヒデヨシ

    しなの7号様おはようございます
    20系に比べ味気ないと言われていた14系寝台車ですが
    秀逸なデザインだと思います
    大好き
    14系3段寝台にはついに乗ることが出来ませんでした
    20系のくすんだ青と比べ
    同じ青でも輝いていてニューブルートレインといった感じでした
    2019年03月01日 09:59
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんにちは。
    ヒデヨシ様は14系フリークでいらっしゃいましたか。お気に障ったら申し訳ありませんが、私は20系大好き人間です。言い換えると昭和30年代に世に出た車両群がもっとも好きです。一方で簡易リクライニングはどうかとは思うものの、14系座席車はけっこう好きでした。私も14系3段寝台は乗れずじまいでした。国鉄時代「さくら」に乗ったときは2段化されていましたので。
    2019年03月01日 16:19
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは
    20系寝台車が嫌いなわけではないのです
    私の生誕年の昭和33年デビューの車両はみんな好き
    20系時代の「あさかぜ」
    九州寝台列車で「あさかぜ」だけ20系だった晩年
    ナロネ20一人個室、ナロ20グリーン車、ナハネ20と
    3種の車両に乗りました。
    もちろんナシ20でのお食事もね
    KATO、Nゲージ製品も喜んで買っています。
    ただ世間で言う14系は20系に比べダメだと言うのには抵抗がありました。
    しかし切妻タイプの25型などは好きではないです
    その後の後退角がついた(連結解放作業がやり易いよう)番台は好きになりました。
    2019年03月02日 18:19
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんばんは。
    ああ、それならよかったです。20系客車は、自分が一度も乗れなかったこともあって、別格ですので。
    20系「あさかぜ」を初めて生で見たのは高1のとき、夜行「のりくら」に乗るため夜遅くに着いた名古屋駅でした。「あさかぜ」到着後に大急ぎでEF65Pのヘッドマークのほか、ナロネ20のA寝台の表示とナロ20のグリーン車の表示を撮影しましたが、発車時刻までに最後部のナハネフまでたどり着けませんでした。

    後退角がついた24系25形の評価は、構内経験者らしさが出ていて納得です。
    2019年03月02日 20:23

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