このころ、鉄道が未整備だったころの交通の生き証人ともいうべき道標に興味を持ち、地元の旧街道を自動車でよく訪れていました。
恵那市槇ヶ根の道標これは中山道(上街道)と下街道との追分だった場所に残る道標です。
現国道から離れた山中にあるためか、美しい状態で残っていました。
右 西亰 大坂
左 伊勢名古屋
東から来た者のために造られています。今はこの場所から名古屋はもちろんのこと、伊勢・京都・大阪も日帰り圏内ですが、当時の人々には信じられないことでしょう。
明治8年の建立。そのとき、すでに日本で鉄道が開業していますが、この地に鉄道が敷かれるまで27年も待たねばなりませんでした。(明治35年に多治見~中津川間が開業)
この道標がある場所のすぐ南側の地下を、中央西線下り線が新槇ヶ根トンネル(2761m)で貫いています。
自動車や鉄道の時代になっても槇ヶ根越えは今のように快適にはまいりませんでした。個人的な経験談ではありますが、【895】槇ヶ根越え《中央西線 恵那→武並》で書いています。
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2004年10月23日 長野市 善光寺山門(三門)
平成年間には毎年1回善根寺への参拝は欠かしませんでした。このころは、山門が平成大修理期間中(2002~2007年)でしたので、足場が組まれて、このような状態になっていました。
この記事へのコメント
屋久島51号
善光寺、修学旅行で行きました。
「戒壇巡り」で真っ暗な中に同級生の女の子と同じ空間に居ると思うと、盛りのついた、と同時にウブな高二男子は、ワクワク、ドキドキしたものです。
他人様にはくだらない話なのかもしれませんが、38年前の懐かしい思い出です。
失礼しました。
しなの7号
あの空間では、何をしても何をされても、誰がしたのか誰にされたのか、まったくわからないですね。。。。いやいや、ご本尊様は心眼でご覧になっています。
ε=( o`ω′)ノ