【1313】あの年の10月31日《1973年・1978年・1985年・1998年》

1973年10月31日 
中央西線の「しなの」のうち、キハ181系使用列車2往復だけで営業していた食堂車が,この日で営業を終えることになりました。
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(見出し以外はボカシ処理をしてあります。)

最終日の食堂車を夕暮れの学校からの帰り道に中津川駅で見送りました。そのことは、【119】中央西線を走った車両4 :181系気動車(4)で書きましたので、ここでは詳細は省略します。

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1978年10月31日
この日は、貨物輸送だけ残っていた東濃鉄道笠原線の営業最終日でした。その日のことは、【360】東濃鉄道笠原線 営業運転最後の日で書きましたので、詳細は省略します。

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1985年10月31日 
以下2枚 高山本線 飛騨小坂~渚
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飛騨まで来ると、山々は少し色付き始めました。1枚目は「のりくら1号」(後方からの撮影)、2枚目は「のりくら6号」 
どちらも名古屋と富山を結ぶ急行です。このころ高山本線全線を通して運転される特急「ひだ」は1本もなく、飛騨古川以北を運転される特急は名鉄から乗り入れる「北アルプス」だけでした。

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1998年10月31日
昨日書いた「さわやか信州フリーきっぷ」を使った長野県内の旅、2日目は実家からスタートしました。前日、家内が使って有効期間1日を残した「さわやか信州フリーきっぷ」が手元に残っていましたので、実家で父に、「長野新幹線に乗りに行くか?」と誘うと乗り気だったので、珍しく親子2人旅になりました。

行った先は軽井沢
駅前に保存されていた10000形電機
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そのあと小諸へ行き、懐古園に行きました。
そこに保存されていたC56 144
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父はこのとき70代になったばかりだったはずです。あれから20年以上経ちましたが、このあたりから両親が高齢になったことをいろんな面で感じるようになっていました。そして自分の年齢も意識するようになり、行けるときに行っておく、やれるときにやっておくという意識が強くなったように思います。この日は行っておいてよかったと今は思います。
今はこれまで歩いてきた道を振り返り、そこに遺してきたものを、いま一度確認しておく時期と位置付けており、このシリーズもその一環でありますが、どうにか10か月続けることができました。残すところあと2か月になりましたが、よろしくお付き合いいただければと思います。

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お知らせがございます。
「ひまな絵描き ちゃびっと」様のブログに、拙ブログで以前アップした「急行「越前」号の謎」をもとにした記事「昔の列車おそるべし54 急行越前の謎運行」が、ユニークなイラスト入りでアップされています。
下のURLですので、ぜひご覧ください。

http://laisure.jugem.jp/?eid=626

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この記事へのコメント

  • 屋久島51号

    こんにちは。
    津山から福山に嫁いだ母に連れ立って帰省の途次、岡山駅で電化前の「やくも号」に幾度か出会いました。堂々の11連、勿論食堂車付きです。
    こちらは普段着の「汽車」(祖母も両親もそう呼んでいました。そして”SLブーム”後の「汽車きちがい」が私でした。)乗り継ぎの旅にあって、あっちはよそ行きの特急。
    子供心に「かっこいいなあ、乗りたいなぁ」と、思ったものですが、今思えば盆正月の混雑した特急より、比較的空いたローカルでゆっくり帰省できて母も私も本当に幸せだった、と言うのが偽らざる思いです。
    2020年10月31日 20:09
  • しなの7号

    屋久島51号様 こんばんは。
    子供の頃の「特急」は憧れでありました。「しなの」にも一度だけ、用もないのに父といっしょに乗ったことがありました。あのころ高速で高性能、新型のモノには心から「かっこいい」と思っていたものです。しかし大人になるにつれ、少しは視野が広くなり、普通列車や中小私鉄に目が向くなど、貴殿がおっしゃる「ローカルでゆっくり帰省できる幸せ」という価値観がわかるようになっていきました。

    2020年10月31日 21:15
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは

    食堂車連結廃止の常套句として人手不足はよく言われていますが
    食材を持ち込み乗務が終われば引き上げる手間のため多種のメニュー展開が出来ず情けなく安っぽい料理しか提供出来なかったのも大きいのでは無いかと思います
    人気の低下です
    かといって乗客が多ければ儲かるかと言えば満席状態の新幹線等では座席代わりにコーヒー1杯で1時間2時間居座る客も大勢いたようでこれは食堂車側が可哀想

    新聞記事で短時間化も影響しているような見出しですが気動車特急は最初から設定時間は変わらないのにどういう事なんでしょう?
    2020年11月01日 03:14
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんばんは。
    メニュー展開や人気ということ以前に、当時の食堂車は、新幹線博多開業を控えていた時期であり、人手不足があったのは確かであったと考えられます。
    この翌年には、新幹線0系36形食堂車の新製が始まり、50.3博多開業に先立って営業開始されています。このころには関西ブルトレなど各地の在来線特急で食堂車の営業が消滅していき、食堂車要員は新幹線博多開業として充当されたのではないでしょうか。

    また、「しなの」では、食堂車が廃止された1973年に大きな動きがほかにもありました。
    ◆7月に中央西線全線電化によるダイヤ改正で381系電車がデビュー。
    (振り子車両381系ECに食堂車の設定なし。この時点で2往復の181系DC編成が残存)
    ◆10月からしなの号がL特急化され自由席が設定される
    (自由席と食堂車の共存には、貴殿がおっしゃるような問題がある。)

    そして翌11月からは食堂車不連結となり、その1年3か月後(新幹線博多開業の前月)には、「しなの」から181系DC自体が撤退しています。
    この一連の流れは、「しなの」全列車をEC化することを前提としており、EC化による「時間短縮」によって「しなの」の食堂車の廃止は既定路線とされていたのは明らかでしょう。この新聞記事には、10月10日から「こだま」のビュッフェ営業が廃止されたこと、「しなの」の場合はそれに続くもので「主に車両性能上の理由」ということ、及び「日本食堂中部支部」の「人手不足は深刻だが、われわれはもっとやらせてほしかった」とのコメントも書かれていました。
    つまり「しなの」の食堂車は、要員問題を解決できたとしても、迫っていた181系DC撤退の日までの命であり、食堂車だけ1年3か月撤退が早まったのは、付随車キサシ181を欠車にして編成出力に余裕を持たせたかったという国鉄側の理由でもあったと考えられます。
    2020年11月01日 20:36