【1381】 DD51の思い出(4)高山本線のDD51から見えてくる鉄道の移り変わり

JR貨物愛知機関区所属のDD51の定期運行がこの3月のダイヤ改正で終了しました。
DD51とはいろんな立場で関わりがありました。以前にブログ記事内やコメント欄に書き込んだことと重複することもありますが、今回は撮影対象とした立場で、高山本線で走っていたころのDD51について書いていきます。

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高山本線では、昭和42年度から3か年をかけた輸送近代化計画が実施され、そのなかで客車列車は気動車化、貨物列車はDD51によって無煙化を早期に達成した近代化線区でした。ここではDD51が国鉄分割民営化後まで長きにわたって使用されていました。主に国鉄時代に高山本線で撮影したDD51牽引列車の編成から、貨物列車と臨時旅客列車に分けて、昭和50年代中期から国鉄改革をはさんで21世紀を迎えようとしていた時期までの鉄道の変化を見ていこうと思います。

まずは貨物列車からご覧いただきましょう。
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1979年2月24日 少ヶ野(信)~焼石
組成された貨車の種類がさまざまです。これは中間駅で貨物扱いをする駅が多く、途中駅で連結解放を繰り返していたことを現しています。もちろんこのころには岐阜・富山間全線にわたって直通する貨物列車の設定があり、昔からずっと続けられた全国ネットの鉄道貨物輸送があった時代のDD51の姿です。

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1984年10月26日 鷲原(信)~下油井
国鉄も末期に近づいてくると、貨物取扱駅が集約されてゆき専用列車化が進みました。そして1984年2月のダイヤ改正で従来のヤードを通した全国ネットの貨物輸送は廃止され、特定の区間を直行輸送する方式に転換されました。画像の列車はタンク車を連ねた専用貨物列車で前後に緩急車が連結されています。高山本線のDD51は基本的に美濃太田機関区に配置されていたA寒地用DD51が使用されていましたが、この列車は、なぜか稲沢第一機関区の暖地用820号機が先頭について重連になっていました。

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1996年9月28日 那加~長森
坂祝発着のセメント専用列車です。国鉄分割民営化後の画像で、もう緩急車は連結されていません。高山本線を直通する貨物列車は国鉄時代になくなっており、1985年時点では、すでに上枝~猪谷間が貨物列車空白区間になっています。分割民営化後も貨物取扱は縮小を続け、この画像を撮影した時点で、高山本線岐阜口の貨物列車は、坂祝発着のセメント列車だけが残っていました。
国鉄の分割民営化を前にして美濃太田機関区のDD51は全車稲沢機関区に移管(のちに愛知機関区)とされましたので、この画像のDD51 875は愛知機関区の配属車です。
ところで、この機関車はナンバープレートの地色が白ではなく、これは九州配属車の特徴です。DD51 875は、国鉄時代に門司機関区に籍を置いた機関車だったわけで、その名残ということなのでしょうが、単純に転入してきたわけではありません。実はこの 875号機は、国鉄分割民営化の際にJRに移管されることなく国鉄清算事業団に残されていたのを、貨物需要増のためにJR貨物に買い取られ、車籍復活させて稲沢機関区(当時)に配属した命拾いした機関車でした。あの国鉄改革で多くのDD51がJRに移管されず解体されていった中で、国鉄清算事業団からJRで復活した幸運なDD51は、この機関車を含めてわずか4両だったということです。

続いて臨時客車列車を牽くDD51を、同様に時系列で見ていきます。
高山本線沿線には有名な観光地がありますから、かつては臨時列車や団体専用列車が運転される機会が多く、さまざまな特徴ある客車との共演がありました。

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1979年2月24日 少ヶ野(信)~焼石
グリーン車5両編成の団体専用列車です。二等級制の名残のようにグリーン車の窓下には淡緑色の帯がありました。撮影時点で、この帯は規定変更によって制度の上では廃止された直後にあたり、工場入場時にグリーン車の帯がなくなっていきつつある時期でした。

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1982年10月9日 渚~久々野
機関車の直後は座席車、2両目以降は和式客車で、7両編成の全車がグリーン車です。この時点では窓下の淡緑色帯は消滅しており、帯なしのグリーン車は物足らない思いがしたものです。
こうした旧形客車ベースの団体専用列車は、新型12系や14系をベースにした車両に代替わりしてゆき、姿を消していきました。
分割民営化による改革が具体化し、経済も右肩上がりだった1984年ころからは団体列車での集客が積極的に進められ、団体用の客車は普通の座席車や和式客車だけでなく欧風客車が続々とデビューしました。これらの客車列車のエスコートは、ほとんどDD51の任務になっていました。
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1984年10月25日 飛騨小坂~渚
サロンエクスプレス東京(欧風客車)

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1986年10月25日 焼石~少ヶ野(信)
和風客車「みやび」。これまでの和式列車とは異なり、掘り炬燵式を採用した車両でしたが、ご承知のとおり山陰本線余部橋梁から転落し、非常に短命でJRに移籍できなかった悲運の車両となってしまいました。

ユーロライナーがデビューしたとき、その牽引用として専用塗装機が登場しました。
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1985年11月23日 高山駅
一般客扱の急行「ユーロライナーのりくら」の先頭に立つ初代専用塗装機DD51 592です。

このあと国鉄は分割民営化され、団体用客車はJR旅客会社ごとに個性あふれる内外装になっていき、総称して「ジョイフルトレイン」と呼ばれるようになりました。JR他社エリアにまたがって直通運転される団体列車は、国鉄が分割民営化された後も設定されており、JR他社エリアまで機関車が交代することなしに列車ごと乗り入れることもよくあり、それが臨時団体客車列車の魅力でもありました。
下の画像のDD51・客車は、ともにJR西日本所属車です。
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1994年12月13日 飛騨国府~上枝
DD51 1183+「わくわく団らん」

以上、DD51が牽く高山本線の貨物貨物列車と団体臨時列車を、国鉄最後の約10年と分割民営化されたあとの鉄道事情の移り変わりがわかるように書いてきたつもりです。現在では高山本線内でDD51が活躍する機会はなくなり、今なお貨物取扱を続けている速星駅へ富山貨物駅から入線しているのはDD200です。時代の変化とともに団体旅客列車そのものも非常に少なくなり、JR東海では機関車及び客車そのものの配置がなくなりました。そして定期列車でさえJR旅客会社間にまたがる列車は確実に減っており、日本の鉄道がダイヤ改正のたびに性質を変えていくことを感じるばかりです。

◆今回の記事で参考にした図書
 交友社刊 ‘83 国鉄車両配置表
 交友社刊 ‘85 国鉄車両配置表
 交友社刊 鉄道ファン 1981年9月号
 企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)刊 レイル・マガジン 1992年4月号
 ネコ・パブリッシング刊 JR全車輌ハンドブック1996

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この記事へのコメント

  • JRBトラベル

    しなの7号様
    高山本線DD51の数々の活躍を拝見しました。東海地区の各線のうち関西拠点の私や仲間が最も撮影に出かけたのは高山本線でした。時期はジョイフルトレインが次々登場したころで、とりわけユーロ塗装の592号の動きが名古屋を拠点に活動する仲間から伝えられていました。592号牽引のユーロライナーを撮影に出向いたのはずいぶん後のことで、同機の最初の撮影は坂祝駅のセメント貨物、次は関西から1泊行路のサロンカーなにわでした。その後各地で「◎◎専用機」なる、ジョイフルトレインに合わせた塗装の機関車が様々な列車を牽引したため、全国の撮り鉄いわく「振り回された」(楽しんでいたのですが…)時代であったことを懐かしく思い出します。
    2021年05月07日 00:14
  • しなの7号

    JRBトラベル様
    高山本線は乗っても撮ってもよい線区ですね。そこにユーロ塗装の592号が登場したときはびっくりしたもので、たいへん目立つ存在でした。
    撮影を中心に活動されたとすれば、機関車とのコラボが肝となるジョイフルトレイン全盛期は、興味が尽きない時期だったと思います。鉄道雑誌には臨時列車運転情報や、各地からの投稿画像があふれましたし、まさに振り回されるほど忙しく駆け回られたことでしょう。
    592号機は意外なほど早く廃車されJRに引き継がれることはありませんでしたが、鷲別から転入してきた791号機(のちに1037号機も)が長くユーロ塗装で活躍しました。
    2021年05月07日 20:20