【1116】あの年の4月17日《1974年・1988年》

その年によって多少ちがいますが、中津川周辺の桜の見ごろは名古屋市内より10日から2週間ほど遅いことが多いように思います。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1974年4月17日 北恵那鉄道沿線で桜が見ごろでした。「モ+ク」の2両編成が走るのは平日だけですので、その日の曜日を調べてみると水曜日でした。この日の記憶は定かではありませんが、前月に原付免許を取得したばかりでしたから、おそらく学校が終わってすぐに帰宅してバイクで撮影に出かけたのだと思われます。そうでないと、平日にこの場所(栗本駅付近)まで来て、夕方の「モ+ク」2両編成を撮影する術はありません。当時の北恵那鉄道は日中の運行はバス代行になっていましたから、中津町発16:15のこの列車が、午後の下り一番列車でした。 せっかくの桜なのに、カメラにはモノクロフィルムしか入っていなかったのでしょう。 こちらはさきほどの「モ+ク」編成の後続(午後の下り2本目)列車で、山之田川~苗木間で撮影しています。編成は「モ+モ」で、中津町発17:35。日没の時刻が早い時期には撮影が難しい列車でした。 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 1988年4月17日 中央西線 高蔵寺~定光寺間を行く113系電車です。この辺りの桜の見ごろは例年、名古屋市内より数日から一週間程度遅いだけですが、4月17日とは遅すぎるようで、写真の日付を間違えて記録したのかと気になりました…

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【1071】あの年の3月3日《1991年》

1991年3月3日 瀬戸市民公園交通児童遊園で撮影。 この日は、子供たちの自転車運転の練習のためにここに来ていました。この電車は名鉄瀬戸線で使用されていたことがあるモ766(瀬戸線時代はモ566)ですが、北恵那鉄道へ転出したモ561~565とは兄弟関係にあたり、同形車です。私にとってみれば見慣れたスタイルに親近感が湧きますが、おへそライトに復元され、そうかといってナンバーは766のままという中途半端な姿が腑に落ちません。それでも今も現存していることはありがたいことだと思わなくてはなりません。 いろいろあたってみましたが、3月3日に撮影した画像はほかに見当たらなかったので、今日はこれだけでご勘弁ください。

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【1067】あの年の2月28日《1979年》

1979年2月28日は高山本線に行っていました。 二枚とも坂祝~鵜沼間で撮影した普通列車。 どちらの列車も一般色と急行色の混成で、キユニが編成中にあって好ましい編成です。(と思う人ばかりではないんでしょうけど、わかる人にはわかるはず) 40年以上も前のことなので、誰と出かけたのか、目的は何だったのかも思い出せませんが、自動車で出かけたことは確かです。ネガを見ると、この次のコマには北恵那鉄道の保存車両(デキ251・モ565)が写っていました。 ネガ袋にはこれも同じ年の2月28日の撮影であることが書き込んであったので、その日は高山本線から北恵那鉄道の保存場所へ移動したことになります。この北恵那鉄道車両の保存場所は愛知県弥富市(当時は海部郡弥富町)内の国道23号線沿いで、家からも離れているので、走行ルートも思い出せません。 時期的には、北恵那鉄道が廃止されてから5ヵ月経っているので、当日の目的は北恵那鉄道の保存車両の現況確認が主な目的であって、道路が混雑する名古屋市内中心部を避けて迂回した国道21号線沿いの高山本線で、ついでに普通列車の写真を撮影したのかなあと。。。 ◆明日の予告…2月29日に撮影した画像が見つかりません(*´Д`)

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【1062】あの年の2月23日《1975年・2011年》

この時期、雪が降ると勉強などそっちのけで撮影に出かけていたような気がします。 1975年2月23日 北恵那鉄道 中津町~恵那峡口 1975年2月23日 北恵那鉄道 上苗木~苗木 ゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・゚*:。+◆+。・ 名鉄瀬戸線から吊り掛け駆動式の6750系電車が引退することになったので、名古屋へ出かけたついでに、大曽根~栄町間に乗車して駆動音を録音したのが2011年2月23日でした。 2011年2月23日 乗車後に栄町駅で撮影 前サボには細かい文字でなにやら書いてありました。 この電車はいろんな意味で運転された方の職人技が発揮できた電車だったのではないかと思います。電車の運転には疎いですが、たぶんクセを知っていないと思ったように操れない電車だったように思います。この6750系電車が引退したのは、その翌月でしたが、関係者の方の中には、引退に際しては一つの時代が終わったとお感じの方がおられたことと想像しています。

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【1035】あの年の1月27日《2001年》

2001年1月27日 中津川駅 実家に行ったときに撮影した115系電車です。このころになると、国鉄形の車両は分割された鉄道会社ごとの特徴がよく出てくるようになっていて、中央西線では塩尻から中津川まで乗り入れてくるJR東日本長野色の115系電車を見ると、ちょっと遠くに来た気がするようになったものです。 このあと、近くにある北恵那鉄道中津町駅跡にも行ってみました。 車庫だった建物はまだありましたが、かつてその左側にあったク551の廃車体は火災によって跡形もなくなっていたのは残念なことでした。 現在はその建物もなくなっており、中央西線の115系電車は211系に変わりました。

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【1023】あの年の1月15日《1975年》

1月15日は祝日で成人の日だという概念がなかなか抜けませんが、この日に撮影した鉄道関連の画像が少ないことが、1月15日が祝日ではなくなって久しいことを物語っています。 祝日で学校が休みだったので、雪景色の北恵那鉄道を撮りに出かけたのだと思います。 1975年1月15日 恵那峡口~中津町 1975年1月15日 苗木~山之田川 記憶があいまいですが、この前年春に原付免許を取得していましたから、雪道を恐る恐るバイクで出かけたと思われます。

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【1009】あの年の1月1日《1975年・1994年》

これまで元日早々に出かけたことはあまりありませんが、高校生のときに北恵那鉄道の写真を撮りに行ったときの画像が出てきました。1975年1月1日 北恵那鉄道 山之田川~恵那峡口 写っている車両は、末期の北恵那鉄道の主力としてもっとも活躍していたモ565です。 三が日くらいは電車の正面に注連飾りを掲げられるのではないかと期待して元日早々に出かけたのを覚えていますが、車庫で待機していた電車も含めて正月らしさを感じさせるものは何もみつかりませんでした。当時は自家用車にも注連飾りを掲げる習慣があったので、ほかの地方私鉄では注連飾りを電車に取り付ける例があったはずですが、この3年後の秋に廃止となる北恵那鉄道では、もはやそんな余裕はなかったのかもしれません。 北恵那鉄道の廃止から16年経った1994年1月1日にも廃線跡を訪れています。1994年1月1日  北恵那鉄道下付知駅跡 元ハフ30の廃車体 1994年1月1日  北恵那鉄道中津町車庫跡 元ク551の廃車体 このころの私は愛知県内に転居していましたが、年末年始は実家に帰省していました。元日は営業している商業施設も少なく、子連れで行くところもないし、やることもなかったので、父と子供を連れて北恵那鉄道沿線をドライブしてきたというわけですが、もうこの2つの廃車体はありません。

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【738】 北恵那鉄道37: 「保存されたデ2」

北恵那鉄道開業時に梅鉢鐵工所(のちの帝国車輌→東急車両に吸収合併)で4両製造されたデ1形は、後に車体が更新され、足回りも大改造されましたので、廃止時点では製造時の原型をまったくとどめてはいませんでした。こうした改造は自社工場で施工され、更新で載せ替えられた木造車体は北恵那鉄道の大工さんによって手作りされました。そのスタイルは名鉄車が入線した昭和30年代末期まで北恵那鉄道の顔となっていて、4両のうち、デ2号だけは廃線までずっと在籍して、中津町駅の構内入換と国鉄中津川駅との間の貨車の受け渡しに使用されていました。 北恵那鉄道線が廃止された日、NHKテレビでは、朝のローカル番組で北恵那鉄道廃止の話題が取り上げられました。このとき、デ2の車体を作ったという高齢の方がレポーターの問いに答えていました。材料について尋ねられると、 「これは全部木や」 「今みたいにベニヤなんてあらへんでのう。ヒノキとか全部土地の材木で造ったるわけ。」 廃止になるにあたってお気持ちは、との問いには、 「ほりゃあ、しょーないのう。……(あとは一生懸命作ったから子供以上にかわいいという意味のことを言っておられるも、涙声でよく聞き取れない)」 (※「全部木や」とありますが、後に妻面窓から下に鉄板を張って補修されています。) 木曽ヒノキをはじめ、土地の材料で作られたこのデ2こそ、北恵那鉄道の歴史を知る生き証人といえる存在なのでした。廃止後、しばらく中津町駅構内に留置されていましたが、中津川市の手によって沿線に近い「夜…

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【736】 北恵那鉄道36:「廃線後の施設撤去作業」

北恵那鉄道が廃止され、しばらくすると施設の撤去作業が始まりました。 どのように進むのか、ときどき勤務明けや休みに自動車で出かけて様子をうかがっていたある日、旧美濃福岡駅で北恵那鉄道の車両ではない加藤製作所製の小型L形DLが、北恵那鉄道に最後まで残っていた貨車ト107を従えて停まっているのを発見しました。 小型L形DLは、おそらく撤去作業を請け負った業者が持ち込んだものだったのでしょう。こういうときは製造番号を見るとか、素性をはっきりさせなければいけないのでしょうが、22.1㎞もある鉄道の架線や電柱、線路の撤去までは、まだ相当の月日がかかるだろうからという気もあって、何も調べず写真だけ撮りました。 そしてもう一つ、旧美濃下野駅で得体のしれない車両を線路上に見つけました。 無蓋車の側板を取り去ったような車両ですが、こんな車両は北恵那鉄道には在籍していませんでした。これもどこかから撤去作業用に持ち込まれたのかと思ってよく見ると、ト107とともに最後まで残っていたもう一両の貨車ワム301の変わり果てた姿でした。屋根と側板がすべて撤去され、床板と支柱の一部、片側の妻板の一部だけが残されていたのです。 ワムとはいえない姿になってしまったこの車両、実はこのあと、美濃福岡で見た小型L形DL+ト107に連結されて、撤去したレールや架線・電柱などの運搬に使用されました。そのための無蓋車化?だったようです。またしばらくしてから、撤去作業がどうなったか自動車で見に行ってみました。どのあたりで作業が行われ、いつ廃…

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【734】 北恵那鉄道35:「廃線後のク81」

北恵那鉄道線の廃止翌日、モ565に牽かれて中津町駅から保存場所の山之田川駅まで線路上を回送されてきたク81は、駅に隣接するバス停の待合室として保存されるという話を聞いていました。ほどなく留置されていた側線から、すぐ横を並行する道路沿いの保存場所に移され、後日、この側線には中津町駅からモ562+モ564が留置されました。 画面右奥が、保存場所におさまったク81です。手前のモ562+モ564はこの場所で後に解体されることになります。 保存されたク81は側線に留置されている間に取り外されていた前照灯を再び取り付けられていましたが、これは解体され予定だった他車の流用品かもしれません。 再塗装されたりするわけでもなく現役時代の外観のままで、特別に展示を意識して整備される様子もなくその場に置かれていました。 上の画像は廃止翌年くらいの様子で、自動車で通りかかったときに撮影しました。正面窓ガラスが割れています。また、側面には半開きの窓も見受けられることから、車内は開放されていたと考えられますが、比較的早い時期にドアが施錠され立ち入りができなくなり、待合室としての機能はなくなりました。車内が荒らされたり、ホームレスの棲み家となったとかの事情があったのだろうと思われます。 それから約5年後、愛知県小牧市内に北恵那電車を利用したラーメン店ができたことを、新聞記事だったかで知りました。その姿をこの目で見ておこうと思い立ち、1985年に、報道された町名を頼りに、場所はよくわからないままに、どうせ主要国道沿い…

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【732】 北恵那鉄道34:「廃止翌日・モ565の搬出作業」

路線廃止の翌日に中津町駅から山之田川駅に回送されたのは、 愛知県内に売却保存されるモ565とデキ251 山之田川でバス停として保存される予定のク81 この3両でした。 山之田川駅へ回送された3両は、すぐに側線に転線しました。手前から、モ565・デキ251・ク81 直後に架線の送電は止められて、側線の架線が切断されました。最終日のお祭り騒ぎより、こういう瞬間のほうが廃止されたのだという思いが胸に突き刺ささってくるものです。 そのあと、売却先企業の手によって、モ565とデキ251には「長い間おつかれさまでした」と書かれた横断幕が取り付けられました。搬出のため架線が切断されて垂れ下がっているのがわかります。 一方、この山之田川でバス停待合室として保存されるク81からは、前照灯や室内のヒーターなど再利用できそうなパーツが車庫の方々の手で取り外されていきました。 そして、モーターカーにそのパーツ類を満載して中津町の車庫までピストン輸送されていました。 取り外されたク81のパーツは名鉄で再利用するということでした。ク81は、後日バス停のそばに敷かれたレール上に移動し、保存されました。ク81のその後については、日を改めて記事をアップしますが、この日いったん外されていた前照灯は復活して取り付けられました。 ク81の作業に並行して、この日の一番の大仕事になったのはモ565の陸送準備でした。陸送業者の手によって、モ565の車体は大型のトレーラートラックへ載せられ、パーツや台車は切り…

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【731】 私の鉄道模型遍歴8: 40年以上前に自作した北恵那鉄道車両( ^ω^)・・・+α

7か月ぶりに 「私の鉄道模型遍歴」の続きを始めることにします。今回で8回目ですが、1回目はこちらです。とりあえず今後は16番に接していた時期のことを書いていきます。 今回は、お恥ずかしい代物をお目にかけます( `―´)ノ これは北恵那鉄道のデ8をペーパー製で自作した16番の模型(といえるかどうか???)です。床下機器をどのように調達しようか迷っているうちに、そのまま放置され40年以上経過しています。 屋根と床板は木製の市販パーツを加工したもので未塗装のままです。前照灯は真鍮製で、これは他キットからの流用品。 パンタグラフはカツミ製。もちろん実物とは形がまったく違います。ベンチレータは天賞堂製客車用プラパーツを半分に切ったものでした。手すりはホチキス針、ジャンパや空気ホース類は家にあった銅線を成形し接着しました。台車・車輪・インサイドギアはカワイ製。モーターはカツミ製。 お粗末なものですが、これでも2代目で、その前に菓子箱のボール紙で作ったデ8と相棒のク81との北恵那唯一の貫通編成を作ったのは中学生の頃で、これも床下機器がない不思議な編成でした( *´艸`) 下の画像の下側がその1代目の2両編成です。ボディだけ写っているのは、その編成にある先代のデ8で、走行機器とパンタグラフ・ベンチレータなどを、現存する2代目に転用するために取り外した後、焼却処分する前に記念撮影?した画像です。 先代のデ8とク81は高校生時代に焼却処分しました。その現場写真が撮影してあります。 火葬して…

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【730】 北恵那鉄道33:「廃止翌日の回送列車?」

北恵那鉄道が廃止になったとき、私はすでに国鉄に就職して2年以上経っていたころで、乗務掛(荷扱)の職名で荷物車に乗務する毎日でした。それより前の高校生時代の学校帰りには、中津町駅にはいつも立寄って、車両たちの様子を眺め、ときには車庫の詰所に立ち寄って、整備をされていた方に、電車のことをお聞きしたりすることもありました。就職後は中津町駅にもめったに行かなくなっていましたが、廃止も間際になったころ、久しぶりに車庫に寄ってみました。いつも親切に話をしてくれた方は、バスの整備のほうに配置転換になるとのことで、廃止が現実に近付いたことを感じました。 そして、廃止後の車両の処遇についてお聞きすると、最終営業が終わって中津町に集結する車両のうち、モ565、デキ251が売却されることになり、廃止翌日に山之田川駅から搬出されるということと、山之田川駅前にはバス停待合室としてク81が保存されるということでした。モ565とデキ251の売却先は明らかにされませんでしたが、保存展示目的で購入されたことは、あとで新聞報道されてわかりました。 廃止翌日(1978年(昭和53年)9月19日)の午前中、一時的に本線の架線に通電され、3両は山之田川駅まで自力回送されました。売却先へ大型のトレーラートラックで陸送されるモ565とデキ251は、中津町駅構内が手狭で搬出作業が困難なため、国道沿いで広い空き地がある山之田川駅から搬出する必要があったものと考えられました。一方で、山之田川に保存されるク81は動力を持たない制御車なので、他…

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【728】 北恵那鉄道32:「廃線の日」

1978年(昭和53年)9月18日、ついに北恵那鉄道線にとって最後の日が来ました。 中途半端な月半ばに営業を終了することになったのは、先月書いた国鉄下呂線との関係をはじめとする諸事情もからんでいたのでしょうか。 先週アップした「思い出のさよなら電車」として使用されてきたモ565には、廃止前日にさらに装飾が追加され、違和感を持っていた「さようなら560形 鉄道友の会」と書かれていたヘッドマークは側面に移され、「さよなら」と大書された 鉄道友の会による大型のヘッドマークが新たに取り付けられ、17・18日に「さよなら電車」として運転されました。 「さよなら電車」を務め、装飾されたモ565は、これも先月書いたように名鉄から国鉄線を甲種輸送によって北恵那にやってきて5年もたっていない新参者でしたが、レール塗油装置も取り付けられて本線の主力車両として活躍していたので抜擢されたのでしょうか。というよりも、ほかの車両には故障や定期検査期限満了とかの事情があって、モ565がいちばんまともな状態だっただけだったのかもしれません。そうした制限がなかったとしたら、個人的には北恵那鉄道生え抜きで普段は入換専用だったデ2を使った本線運転で最後の花道を飾ってあげたかったと思っていました。 説明はこのくらいにいて、それでは最終日の画像をご覧いただきます。 美濃福岡での行き違い。モ563とモ564。 最後の下り列車下付知行。始発駅の中津町発車前にはセレモニーが行われました。 …

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【726】 北恵那鉄道31:「終末期の臨時電車」

廃止が決まると、最後に乗っておこうとか、写真を撮っておこうという人々が増えてきます。 これはいつの世も同じで、それを営業収益につなげるべく鉄道会社は記念切符やグッズ、廃品を販売したり、乗車ツアーを企画したりします。昭和53年8月23日付け中日新聞記事の転載画像です。↑ 廃止が決定されてから、「思い出のさよなら電車」という企画列車が休日の日中に何回か運転されました。これは定員制で、事前に申し込みをしないと乗車できない列車でした。 私は人ごみもお祭り騒ぎも好きではないので、参加はしませんでしたが、すでに日中の運転が休止されてから数年が経っていましたし、モ560形が全線にわたって重連で運転されること自体が珍しかったので、撮影には出かけました。 終末期の通常ダイヤでは、中津町~美濃福岡間だけにモ560形の重連運用がありましたが、夕方(17:45中津町発)でしたので、夏場でないと撮影は困難でした。 ところで下の画像には、中津町駅ホームに積まれた手小荷物が写り込んでいます。国鉄と北恵那鉄道との間では手小荷物の連絡運輸も行われていたことがわかります。写っているのは運行を終えた後の臨時列車だと思われますので、次の定期列車で運ばれるのでしょう。駅の時刻表からは、日中の運転がなかったことも読み取れます。 国鉄から引き継いだ手小荷物は、16時15分発の列車で運ばれ、途中の美濃福岡駅では車掌が大量のヒヨコが入った箱をホームに降ろすのを見たことがあります。考えてみると、午後一番の列車となるその列車は、私…

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【724】 北恵那鉄道30:「北恵那鉄道と国鉄下呂線」

国鉄下呂線は、中央本線の中津川と高山本線の下呂を結ぶ予定で計画され、昭和30年代には工事線に指定されましたが、開通することはありませんでした。画像は、何の脈絡もない「道の駅」の画像です。画面左は「加子母」、右は「花街道付知」で、どちらも、国鉄下呂線の敷設が計画されていた区間に並行する国道257号線沿いにある道の駅です。しかし国鉄下呂線は工事着工には至らず、測量や地質調査が行われただけで、鉄道の駅が建設されることはありませんでした。北恵那鉄道の終点は「下付知」で、国鉄下呂線のルートと重なります。国鉄湖西線に対する旧江若鉄道のような関係になるわけですから、北恵那鉄道線は国鉄下呂線建設と引き換えに廃止される運命にあったわけです。 国鉄下呂線の位置づけは、単なるローカル線でなく、地形が険しく複線化が困難な高山本線のバイパス線として、飛騨と中京地区を結ぶ連絡通過線でありました。完成していれば、現在の智頭急行線のような使われ方がされたのでしょう。また、建設中のリニア中央新幹線で関東、関西圏からも飛騨方面へのアクセス路線として活用することができたのかもしれません。 山陽新幹線の新大阪・岡山間が開業した1972年(昭和47年)3月、そのころ一般に鉄道に対する関心が高かったからか、中日新聞の岐阜版に、県内の国鉄線について各線ごとの現状や課題を書いた「ローカル線報告」という記事が連載されました。その連載の最終回は、当時未成線になっていた国鉄岡多線と国鉄下呂線が取り上げられました。 ※上は中日新聞岐阜版「…

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【722】 北恵那鉄道29:「モ565入線の日」

運行不能に陥ったデ8に代わって、名古屋鉄道から北恵那鉄道へ入線したのがモ565でした。すでに同形車のモ561~564が、その9年前に入線して北恵那鉄道の旅客輸送の主力として使用されていたので、代替車としては妥当な車種選択と言えましょう。 もともと名鉄561~570として瀬戸線でいっしょに働いていた車両が、瀬戸線を離れて561~564が北恵那鉄道へ、565~570が名鉄揖斐・谷汲線とに別れてしまった後に9年後の再会ということも、鉄道に思い入れがある私にとっては感動的といっては大袈裟ではありますが、運命的なものを感じました。別れている間に名鉄に残った565~570は765~770と形式称号、ナンバーとも変更されていました。そのため名古屋鉄道から北恵那鉄道へモ565が入線したときには、名鉄時代のままの緑一色の車体に765のナンバーのまま、中央西線の貨物列車で甲種輸送されてきたのでした。 私と北さんの2人は学校帰りに北恵那鉄道の車庫へ立ち寄る日々が続いていた時期でしたので、名鉄モ765(→北恵那モ565)が入線する日とおおまかな時刻を事前に教えていただくことができたのでした。 その入線日は1973年(昭和48年)12月14日でした。前日に、国鉄職員であった父からも甲種輸送の情報を得ることができました。当時の父は中央西線で列車掛をしており、前日出勤して点呼を受けた時に、帰路に乗務する貨物列車に北恵那鉄道へ向かう甲種輸送車両が連結されることを知ったということで、そのことを家に電話してくれたのでした。…

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【720】 北恵那鉄道28:「乗車券と入場券」

前にも書きましたが、私は北恵那鉄道に乗ったことがそれほどありませんでした。しかし、切符は少しですが手許にありますので、ご覧ください。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 中津町駅発行の入鋏使用済乗車券です。 北恵那鉄道廃止後に、名鉄百貨店で北恵那鉄道の廃品が売り出されました。切符も例外ではなく未使用・使用済とも、大量に出回ったようです。この乗車券は、そこで袋入りでまとめ売りされてたものを友人が買ったところ、ダブったものがたくさんあったとかで、それをお譲りいただいたものです。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 上の画像と同じで、いただき物です。こちらは未使用券で日付も入っていませんから、駅の死蔵品だったのでしょう。苗木駅は路線廃止から7年も遡った1971年には無人化されていましたし、2等と印刷されてますから、それなりに古いものです。 しかし、実際に私が乗ったとき3等表示のままの切符を渡されたことがあります。それが下の画像です。日付は昭和46年(1971年)10月17日で、この時点では2等級制すら廃止になっていました。 まだ日中の運転が行われていたころで、母といっしょに乗っています。1区間でいいので乗ってみたかったいうことで、中津町の次駅である恵那峡口までの往復乗車券を買ったわけです。こんな短区間(1.4㎞)の往復乗車券などめったに売れなかったので3等表示のまま残っていたのでしょう。20円とありますが、そんなに…

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【718】 北恵那鉄道27:「付番の謎」

今回のブログ記事は、ただの独り言です。この鉄道固有のことで、ずっと前から腑に落ちないと思っていたことをつぶやきますが、どうでもよいことですので、ヒマな方だけご覧ください。 北恵那鉄道に在籍した車両の形式称号や個々の車両ナンバーの付番には、規則性がなくて、よくわからないものがあります。たとえばこの画像。 ト107ですが、ご覧のように形式はト100でなくてト101なのです。国鉄の貨車で1桁形式の場合は「ワラ1」「チ1」など形式称号に「1」を使う例がありますが、この画像のように3桁形式の場合、国鉄ならト100形となりそうなものです。北恵那鉄道に在籍した貨車をすべて知るわけではないのですが、私が知っている範囲では、貨車には1桁の形式称号はなく2桁~4桁の形式称号が存在し、それらすべての形式称号の末尾(1位)は、すべて「1」になっています。(例トム51形・ワ251形・ト1101形) 今でも、電車にこのような形式称号を付番する私鉄は存在しますから、では北恵那鉄道の電車は?と見ると、さにあらず、1桁の形式称号の場合以外は形式称号の1位の数字は全部「0」になっています。 1桁の形式称号を持つデ1形は、4両(ナンバーは1・2・3・5)が在籍しました。4がなかったのは忌み番を避けたことは明らかですが、北恵那鉄道には6・7がなく、戦後に増備された大型車の形式称号はデ8形(ナンバーも8)に飛びました。 6と7が過去に存在したのではないかという仮説も当然成り立つわけですが、そのような事実には行き当たってお…

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【716】 北恵那鉄道26:「混合列車」

北恵那鉄道のシリーズ記事は、2011年の廃線跡の記事(№1~14)から始まり、4年間中断したあと、第2部として車両関係の記事を中心に昨年№15~25まで連載いたしました。また間が空いてしまいましたが、第3部完結編として、廃止前後の思い出話などを中心に再開します。 言い訳になりますが、私は北恵那鉄道とは関係がない者ですので思い違いもありましょうし、記憶が不確かなところもございますので、ご指摘等ございましたらご教示ください。また、記載内容についての問い合わせなどで、現在も路線バス事業者として存続している北恵那交通株式会社様にご迷惑になるような行為は、固く慎んでいただきますようお願いいたします。 以前の北恵那鉄道関係の記事(№1~25)は、パソコン画面ですと右カラムの「ブログテーマ」の「北恵那鉄道」をクリックして記事を抽出できますが、記事を書いてから年月を経ておりますので、廃線跡の状況には変化があると思われますことを、ご承知おきください。 *************************** 北恵那鉄道は、大正時代に木曽川に水力発電用ダムが建設されることによって、従来の木曽川を利用した木材流送ができなくなるために、代替輸送手段として敷設された鉄道でしたから、旅客営業より、貨物営業に重点を置いていたと思われます。しかし電気機関車が北恵那鉄道に登場したのは遅く、名鉄傘下に入ってからの昭和38年です。その電気機関車は電動貨車改造で非力なデキ501であって、本線での貨物列車としての…

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【635】 北恵那鉄道25:車両10「ハフの廃車体」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。 北恵那鉄道では、廃線を待たずに廃車されたため、私が現役時代を見た記憶がない車両がいくつも存在します。しかし、廃車になった後に車体だけ利用されていた例があり、貨車については先週画像を紹介しました。このほかにも廃車された2軸客車の車体が利用されていた例がありましたので紹介します。 【ハフ50形】 高校1年生の冬のこと、その日の体育の授業は、学校のマラソン大会に備えたロードランニングで、学校から公道へ出ました。私は、授業でも仕事でも、学校や会社から出るのは好きなほうなので、こうして校外に出たり、乗務や出張は性に合っていました。一歩外に出ると先生や上司の目が届かず、ある程度自分の判断を前面に出して行動できるので気持ちが晴々とするのです。逆の立場で部下が出て行くのを見送る管理職や、旅に出ていく乗客を見送る駅員にはなりたくないと思ったものです。どうせどちらにもなれなかったのですから、その心配も必要なかったわけですが。 その日のコースは来たこともない初めての道で、過ぎ去る景色も新鮮で気持ちよく走っていると、不思議なモノを道端で発見してしまったのでした。塗装から察するに、明らかに北恵那鉄道の車体と思われました。ちなみに同級生の北さん(←「北恵那デ2様」を仮にそう呼ばせていただくことにします。)も一緒で、ランニング中に立ち止まるわけにはいきませんでしたから、走りながら2人で目配せしてニンマリとしたのでした。 …

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【633】 北恵那鉄道24:車両9「貨車たち」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。 北恵那鉄道は、木曽川に水力発電用ダムが建設されることによって、従来の木曽川を利用した木材流送ができなくなるために、代替輸送手段として敷設されました。しかしそれは昭和30年代にトラック輸送に切り替えられましたから、その時点で貨車の大半は役目を失い廃車されていましたので、私が知っている貨車は、ワム301形(301)とト101形(105・107)の計3両だけでした。 ワム301は、車両番号の下に二重線があり国鉄直通車のようですが、+印の表記からブレーキシリンダがない車両であることがわかります。さらにバネ吊装置も2段リンクではありませんから、少なくとも43.10以降に、国鉄に入線していたとは思えません。この形式は301~303の3両が存在したはずですが、301以外の2両は中津川市周辺で廃線を待たず倉庫になっていたことを確認しています。301だけ残された理由は不明ですが、繁忙期における線内の小荷物輸送くらいしか用途が考え付きません。私が知っている廃線前の約5年間は、いつも下付知駅でその姿を見かけ、稼動している姿を見ることはありませんでした。 こちらは下付知駅でのト105とト107です。一見、木材を積んでいるように見えますが、後ろの貯木場に積み上げてある木材が写り込んだだけです。どちらも、いつでも留置されていましたので末期には営業用に供されていたとは思われず、保線材料輸送などの事業用に残されたものと思われ、…

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【630】 北恵那鉄道23:車両8「デキ500形とモ320形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。 北恵那鉄道では、私が小学生のころに見た記憶があるのに、いつのまにか現役引退していた2両の車両がありました。今回はその、デキ500形とモ320形についてです。そのため、この2両についての知識はほとんどありません。 【デキ500形(501)】 小学生のころのことでした。、中央西線の普通列車を待っていた国鉄中津川駅の待合室の改札口から線路の方を見やると、北恵那鉄道の車両が中津町駅から続く連絡線を、貨車を押し上げて国鉄駅の構内へ入ってくることがありました。 北恵那鉄道との連絡運輸をする貨車のため、非電化時代の中津川駅の構内でも、いちばん奥にある2本の線路だけに、頼りなさそうな細い木の電柱に支えられて架線が張られていました。そこに来るのは、緑と黄色に塗り分けられたデ2か、黒一色の車体に黄色の帯と窓枠が非常に目立つデキ501のいずれかでした。特にデキ501の電動貨車然としたスタイルの車両は国鉄車にはなかったですから、強く印象に残りました。 【モ320形(320)】 北恵那鉄道では1963年(昭和38年)からその翌年にかけて、名鉄資本が入った関係で、在来の小型車両が続々と名鉄から転入した車両に置き換えられました。モ320とデキ501はどちらも1963年(昭和38年)に名鉄から北恵那入りをしています。私の就学前後と重なるこの時期に、両親に連れられて北恵那鉄道沿線の栗本水泳場へ電車に乗って行った記憶がありま…

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【628】 北恵那鉄道22:車両7「デキ250形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。北恵那鉄道は貨物営業も行っていました。今回は電気機関車デキ250形です。 【デキ250形(251)】 デ2とともに、国鉄中津川駅から中津町駅裏に接している製紙工場へ出入りする貨車の受け渡しを含む中津町駅構内入換専用の機関車で、本線に出ることはなく、いつでもデ2とともに、中津町駅に行くと見られた車両でした。 関西電力が丸山ダム建設に伴って、資材運搬用として名鉄に投入した機関車で、ダム建設後は名鉄に譲渡されました。そのあと、北恵那へ入線したのは1968年です。北恵那鉄道では最も製造年で言えば若い車両で、昭和27年製でした。入換作業はデ2との2両体制で行われていたのですが、どちらかが検査入場をすると、入換を本線旅客用のモ560形が行うことがありました。 下の画像の、左は本線のモ563。右はいつもデキ251が居座っている製紙工場積卸線に代役として入ったモ562。この線にモ560形が入ることはめったにありませんでした。 工場の積卸線は急カーブになっていて、車体が長いモ560形ではワム車に連結しようにも、車体のオーバーハングの関係で連結器の位置がずれてしまい連結できないケースが出て支障が出ると車庫の人が言っていました。まるで模型みたいなできごとが実際に本物の鉄道にもあることを知りました。 構内全体がカーブを描いている中津町駅の平面図は、「RM LIBRARY 32 北恵那鉄道」に掲載されています。その本文に…

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【626】 北恵那鉄道21:車両6「デ8形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は戦後まもなく入線して、長く活躍した大型車デ8形です。 【デ8形(8)】 デ8は1形式1両の大型車でした。もとは現在のJR鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道の電車で、いわゆる買収国電でした。国有化後戦災に遭い、日本鉄道自動車工業の手で復旧した戦災復旧車で、昭和25年に入線しています。 鶴見臨港鉄道の車両であることはスタイルから明らかで、かつては静岡鉄道をはじめ、各地の小私鉄に国鉄から同形車が譲渡されましたし、そのまま国鉄に残り、明石電車区の救援車になったクエ9401という同形車両もありました。クエ9401は、北恵那鉄道廃止後も1982年ごろまで国鉄に在籍していたので、ぜひ見なければ思っているうちに廃車されてしまいました。しかし2009年まで銚子電気鉄道には同形車デハ300形(301)が健在で、この車両を見ることはできました。 北恵那鉄道のデ8は、入線当時2軸車ばかりだった北恵那鉄道では、唯一の大型車でしたから輸送力アップに貢献したことでしょう。1964年には、名鉄から転入したク81とともに片側に貫通扉を設置しています。 この2両をペアとして大量輸送に対応しようという意図があったと解釈できるのですが、貫通化は小私鉄にとっては大がかりな改造のはずです。デ8が廃車された後も、鉄道廃止まで非貫通の2両編成は存在したのですから、貫通扉の必要性と改造にかかる費用対効果について疑問が残りました。車庫の人にその改…

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【624】 北恵那鉄道20:車両5「デ1形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は開業時から廃線時まで在籍したデ1形です。 【デ1形(2)】 デ1形は、北恵那鉄道が開業した時に4両新製された2軸木造電動車(デ1・2・3・5)でした。このうちデ2が廃止までの長きにわたり在籍した唯一の車両でした。 他の3両は1964年に名鉄からモ561~564が入線したことによって廃車されたということです。そのうちデ3の古い写真が北恵那鉄道創立50周年記念乗車券に使用されています。 記念乗車券にある開業当時のデ3の姿と、廃止時点のデ2の姿を見比べると、似ても似つかぬ風貌で同じ車両とは思えません。これは個体差ではなく、この形式は、全車とも戦時中に新たな木製車体を新製して載せ換えており、さらにその後に足回りも名古屋市交通局の路面電車のボギー台車に履き替え、実質的には新製時とは別物に近くなっているのでした。その載せ換えられた車体は自社工場製で、他の鉄道に類形を見ないスタイルは、名鉄資本が入る前の北恵那のオリジナリティが醸し出されていました。 私が知っているのは、最後まで残っていたデ2だけでしたが、モ560形が名鉄から入線した後の用途は中津町駅での入換専用で、旅客営業に供されることはなく、乗ることはもちろんのこと、本線上で撮影することも叶いませんでした。しかしいつでも中津町に行くと停まっているデ2は、存在感がありました。日中の列車がバス代行とされてから、動きがなくなった構内で、静寂を破り、不意に…

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【622】 北恵那鉄道19:車両4「ク550形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は先週ご紹介した制御車ク80形のほかに、1両だけ在籍した制御車ク550形です。 【ク550形(551)】 連結面間が15mを超える大型の片運転台制御車でした。 車体は簡易鋼体化されているものの、非常に古い大正生まれの木造車でした。 名鉄からの移籍で、入線は比較的遅く1966年(昭和41年)でした。この車両の入線によって、最後まで残っていた2両の2軸客車(ハフ11・12)が廃車になったということです。 日中の運転が休止されてからは、3両あった制御車の運用は1日1往復だけでした。主に使用されていたのは小型のク81か82のどちらかで、大型のク551が走行する姿を見ることはめったになく、いつも側線に留置されていました。私が稼働しているのを最後に見たのは廃止の3年前で1975年1月のことでした。例年1月10日に中津川で開催される初えびす「十日市」の多客輸送には、多くの列車が2両に増結されましたが、この年も3両の制御車(ク81・82・551)が総動員され、ク551が夕方の一番列車に充当されました。 その後の稼働実績は、私が高校を卒業して、頻繁に北恵那鉄道を訪れることがなくなったため不明ですが、いつも使用されているとは思えない状況で留置されていました。 この車両も、ク80形と同様に運転台の向きが下付知寄りに揃えられていました。ク80形と違うのはモ560形と制御器機が統一されていたことで、制御器機が異…

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【620】 北恵那鉄道18:車両3「ク80形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回はモーターを持たない2両の小型制御車ク80形です。 【ク80形(81・82)】 腰高な印象なのは、生まれが旧三河鉄道のガソリンカーで、床下にエンジンを持っていたためでしょう。  画像の列車は右から左へ向かって進行しています。つまり撮り鉄さんがいうところの「後追い撮影」になります。そういうことは撮り鉄ブログではないので、いつもはそんな説明を入れておりませんが、この場合は後で必要な内容なので、あえて書いておきます。 この車両も名鉄からの転入車でしたので、北恵那鉄道最末期の営業用車両は、入換専用のデ2以外は、全車が旧名鉄車であったということになります。ク80形は2両ともモ560形が入線した前年1963年(昭和38年)に北恵那入りしています。前述のようにガソリンカーとして生まれ、戦時中は木炭ガス代燃車、戦後は電車の付随車を経て、のちに片運転台式制御車になったという経歴の持ち主でした。片運転台車ですが、元が両運転台車でしたから、前後とも車端面に向かって左側だけに乗務員扉がありました。 特筆されるのは、入線時に北恵那唯一のセミクロスシート車で、左右2ボックスずつ、計4つのボックス席があったことになっていますが、私が知る頃にはロングシート化されていました。 2両あったこの形式も、1両ごとに特徴がありました。運転室は2両とも下付知側にあり、81だけ、運転室がない中津町側に貫通扉がありました。…

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【618】 北恵那鉄道17:車両2「モ560形(後篇)」

北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いています。先週に引き続き、モ560形について書き進めます。 14m級の車体であったモ560形が、10mレールを走ってくるときのジョイント音のリズムは独特でした。 2軸ボギー車ですから、「タタンタタン・タタンタタン」となりそうなものですが、そうはならず「タタタン・タタタン」というリズムで走っていました。3軸ボギー車のようなリズムは北恵那の音として私の耳には染みついてしまっています。 こちらは、乗車したときの車内音です。そのリズムがわかります。 ※動画はありません。画像は拙ブログで過去にアップした画像の使い回しで、再生時間は1分です。 20秒過ぎと50秒過ぎに警笛の音が入ります。50秒過ぎの警笛が鳴った直後のチャッチャッチャという音は、電車の横揺れで、吊り輪が大きく揺れて左右の網棚にぶつかって発した音です。 2軸車のくせに3軸ボギー車のようなリズムを発するわけは、この車両の竣工図面を見ると理解できます。 台車中心間距離が7925mmで、個々の台車軸距は1900mmとなっています。この車軸配置だと、4軸あるうちの最前の車輪と最後の車輪との間は9825mmになり、レールの長さ10mと近似値といえます。このことから、ほとんど同時に前後の車輪が別々のレールの継ぎ目を通過するため、音が重なって3軸車のようなリズムを刻む結果となるわけです。 北恵那鉄道が廃止になったのは1978年9月でした。そのころの私は国鉄に就職して荷物列車に…

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【615】 北恵那鉄道16:車両1「モ560形(前篇)」

今回から毎週木曜日には、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていきます。私自身もバイブルのように考えている「RM LIBRARY 32 北恵那鉄道」をはじめとする書物を参考にさせていただくことはもちろんですが、そうした書物にもあまり書かれていないことも記憶をたどりながら盛り込んでいきたいと思っています。 最初は、最大勢力であったモ560形についてです。 【モ560形(561~565)】 北恵那鉄道の顔とも言うべき形式でした。末期には旅客営業に使用される電動車は、この形式に統一されていました。名鉄からの流れ者で、元をたどると名鉄瀬戸線の前身である瀬戸電気鉄道の車両で、大正末期から昭和初期にかけて製造されています。1964年(昭和39年)に561~564の4両が名鉄瀬戸線から、9年遅れて1973年(昭和48年)に565が、瀬戸線からの転出先であった名鉄揖斐谷汲線から、それぞれ北恵那鉄道に入線しました。565入線の日の様子は、それを記録した画像がありますので、その入線に至った背景とともに後日改めてご紹介することにします。 この形式は、5両それぞれ外観に特徴があり、遠くから見ても「見る人が見れば」区別ができました。 正面の3つの窓のうち中央窓が1枚窓なのが 561と565。 その他は2段窓 (画像は561) 561~564は車体側面に吊り下げ式の行先札(サボ)を使用。これが北恵那鉄道車両の古くからの行先表示方法でした。 北恵那鉄道の車両で唯一、正面…

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