【621】 思い出の乗務列車51:中央西線・篠ノ井線夜行急行「きそ」801・802列車(後篇)

中央西線下り801列車「きそ6号」に連結された荷物車マニの使命は長野県内あての朝刊(名古屋印刷分)と急送品の輸送でした。 (画像は、上り802列車の方です。) 朝刊輸送の詳細については、急行紀州5号の記事 【319】 思い出の乗務列車7:キニ併結 急行「紀州5号」(1) http://shinano7gou.at.webry.info/201210/article_3.html 【321】 思い出の乗務列車8:キニ併結 急行「紀州5号」(2) http://shinano7gou.at.webry.info/201210/article_5.html 【323】 思い出の乗務列車9:キニ併結 急行「紀州5号」(3) http://shinano7gou.at.webry.info/201210/article_7.html 【325】 思い出の乗務列車10:キニ併結 急行「紀州5号」(4) http://shinano7gou.at.webry.info/201210/article_9.html のなかで以前に公開しましたので、今回は省略とします。下り801列車「きそ6号」にはマニとスユニが連結されていたわけですが、私どもの乗務車両はマニのほうで、前述のように車掌長(荷扱)又は専務車掌(荷扱)と、車掌補(荷扱)又は乗務掛(荷扱)の2人乗務でした。スユニのほうの郵便室には鉄道郵便局員が乗務し、荷物室のほうは無人の状態で、締切輸送とされ、長野着中継の一般荷物が積み…

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【619】 思い出の乗務列車50:中央西線・篠ノ井線夜行急行「きそ」801・802列車(前篇)

最初にお断りしておきますが、表題の列車に私が乗務していたのは荷物車です。ですから旅客車のことには触れていません。 先日は、その中央西線~篠ノ井線の昼行列車下り荷5043列車と上り(2836)~836~荷5044列車についてご紹介しました。その1往復はどちらも名古屋~長野間を8時間半前後かけて走る普通列車でした。夜行のほうは寝台車も連結された急行列車でしたが、それでも所要時間は下りが5時間30分台で、上りは6時間20~30分程度と、かなりの時間をかけて運転されていました。もちろん早く着きすぎても困るので、時間調整のため長時間停車する駅が何箇所もありました。現在、特急「しなの」で3時間前後で運転されているこの区間に、夜行列車があったこと自体、今となっては信じがたいような気さえするのですが、私が国鉄に就職した1976年(昭和51年)の中央西線には、夜行急行「きそ」が下り2本上り1本と、大阪からの夜行急行「ちくま」が1往復、それぞれ定期列車として運転されていたほか、季節列車や臨時列車の夜行急行が複数設定されていたのです。 私が乗っていた「きそ」は旧形客車で組成された列車でした。所定編成は以下のようになっていました。 【53.10ダイヤ改正時】 <下り> 中央西線~篠ノ井線 急客801列車 運転区間 名古屋~長野 乗務区間 名古屋23:55~長野5:32 (きそ7号) EF64(篠)   スユニ 長ナノ(長郵21)熱田~北長野   マ ニ 長ナノ(長荷22)熱田~北長野…

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【616】 思い出の乗務列車49:篠ノ井線~中央西線2836~836~荷5044列車(後篇) 

先週はリンゴの収穫期に、積込の応援に来ている農家の方からリンゴをいただいたお話をしました。 農家の人にしてみれば、「満載であろうともなんとしても運んでほしい」「今度もお願いだからうちのリンゴだけはお願いします」との気持ちが込められていたのでしょう。とにかく収穫期になると長野発の荷物車はりんご箱で埋まりました。リンゴの収穫期は年末の荷物繁忙期に重なるので、ふだん30秒停車の駅では、荷扱のため列車が遅れてしまうこともよくあったのです。 それでも、停車時間も特別多く鈍足の列車でしたから、少々の遅れは大駅の長時間停車で帳消しになって、すぐに定時運転に戻りました。 8時間以上の乗務になりましたから、車中で昼食と夕食とが必要になります。お湯は往路と同じく木曽福島駅ホームのソバ屋さんの大ヤカンから補充し、夕食用としますが、名古屋到着は20時前でしたし、後に熱田まで乗務するようになってからは、仕事が終わるのがさらに遅くなりました。こうなると車内での夕食パターンはまちまちで、家が近い人は家での晩酌に差し支えるから夕食は遅くなっても家で食べるから、車内では食べないとい人もありましたし、長野で2食分の食糧を仕入れる場合もありました。以前レチ弁の話をしましたので、それと同じ話になりますが、この列車では中津川駅で夕食用のレチ弁が手配できました。自由購入で3時間以上前(時間的に松本か塩尻停車中)に中津川車掌区に必要個数を電話しておくと、中津川駅の上りホーム上にあった弁当業者さんの詰所に、格安の弁当を用意してもらえました…

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【614】 思い出の乗務列車48:篠ノ井線~中央西線2836~836~荷5044列車(中篇) 

836列車(1978年3月ダイヤ改正前までは長野・松本間の列車番号は2836列車)は長野を11時半過ぎに出ましたから、往路の荷5043列車では夜間で見られなかった篠ノ井線の車窓が眺められました。 今回の画像は、最後の1枚以外は、私がこの列車に最後に乗務した日、1979年(昭和54年)3月31日の撮影です。この10日後に、私は中部鉄道学園に入学し、4か月半にわたって列車掛になるための教育を受けました。      川中島駅 日本三大車窓の一つである姨捨の展望も堪能できました。姨捨はスイッチバック駅としても知られています。もっとも姨捨駅はこのときすでに無人駅になっており荷物の取扱はありませんでしたが、各駅停車の旅客列車でしたから停車したのです。停車しても荷物車の方はまったく仕事がなく、こうして写真を撮っている余裕があったわけです。 拙ブログにお越しいただく方々はご存知の方が多かろうと思いますが、この篠ノ井線には姨捨駅のほかにも、列車の行違いのためにスイッチバック式の信号場が複数あり、当時は「桑ノ原信号場」「姨捨駅」「羽尾信号場」と、3つもスイッチバック停車場が連続しました。 稲荷山駅を発車すると急勾配区間が始まり、まず「桑ノ原信号場」の待避線に突っ込んで下り「しなの5号」と行き違いました。 「しなの5号」と行き違ったあと、いったんバックしてから姨捨に向かい発車すると、今しがた待避した線路を見下ろしながら姨捨駅へ向かって、左へ約90°急カーブを描く線路を辿って登っていきます。 …

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【611】 思い出の乗務列車47:篠ノ井線~中央西線2836~836~荷5044列車(前篇) 

荷5043列車で長野に着いた私たち3人(荷扱専務車掌又は荷扱車掌長1人と車掌補又は乗務掛2人)は、長野乗務員宿泊所で泊まり、翌日は午前11時半過ぎに発車する2836列車に連結されている荷物車(名荷24マニ)への乗務でした。長野車掌区への出勤時刻は発車前約1時間前くらいでしたから、早起きする必要はなく、かといってそんな時刻より早く目は覚めます。前夜、3人で寝酒を飲みながら、、朝飯はどこで食べるかなど、発車までの過ごし方を決めておきました。年明け最初の長野乗務だったりすると、初詣に善光寺でも行くか!ということもあり、少し早く起きて3人でぶらぶら歩いて出かけたこともありました。 駅周辺の喫茶店でモーニングコーヒーのあと、8時間以上の乗務に備えて、3人でスーパーへ弁当とお茶菓子の買い出しに出かけるのがふつうでしたが、昼と夜の2食分が必要でした。冷房のない車両ですから夏場は衛生上問題もありましたから、夕食は中津川でレチ弁(レチ弁については【260】レチ弁をご参照ください。)を事前予約することもありました。 こうして11時前に入線している列車に乗り込み作業開始となりました。その列車は往路の荷物列車とは違い、途中の中津川までは客車も連結された列車でした。 <1976年5月当時>(50.3ダイヤ改正ダイヤ) 長 野~松 本 2836列車 松 本~中津川  836列車 中津川~名古屋 荷5044列車 (EF64) オ ユ 長郵20 長野~名古屋 マ ニ 長荷21 長野~名古屋(熱田…

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【609】 思い出の乗務列車46:中央西線~篠ノ井線 荷5043列車(後篇)

荷5043列車の乗務は、中央西線沿線住民であった私としては、駅名どころか駅順をはじめホームの右左、地理的感覚など、さまざまな予備知識があったので、仕事上はたいへん有利でした。しかし、作業衣に前掛、手鉤を持って、檻のような保護棒がついた汚い荷物車の中で働く姿を知り合いに見られる可能性がありました。「見たよ」と言われたことはないので、見られたことはたぶんなかったはずです。しかし、囚人のような姿を見た人は、おそらくびっくりしたことでしょうから、本人に面と向かってそんなことは言えなかったのかもしれません。 以前にご紹介した長谷川宗雄著「動輪の響き」に書いてあることを引用しますが、高山駅のホームで、SLの庫内手の仕事ぶりを見ながら話をしていた乗客の話です。 「あんなに黒く汚れる仕事をする人は、どんな人やろうなあ」 「そうやなあ、ちょっと特別な人達とちがうんかなあ」 「油臭くて真っ黒で、ああいう人達のお嫁さんにくる人あるんやろうかなあ」 「そりゃあ、ああいう人はああいう人で、同じスジがあるで、そういう人からもらうんさなあ」 「そりゃあ、そうやろうなあ」 と、あり、これには苦笑いをする外ないと筆者は書いています。 この手の仕事の内容は、特に鉄道に明るい人でないとわかりせんし、説明も通じにくいものです。一度、同級生に「国鉄で何やってるの?」と聞かれ、小荷物が云々…と説明したところ「な~んや、貨物の車掌か!」とのリアクションがありました。ちょっと違うけど、まあええか…ということにして生返…

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【606】 思い出の乗務列車45:中央西線~篠ノ井線 荷5043列車(前篇)

熱田荷物基地の全面開業の少し前、まだ非電化であった関西本線名古屋口で客車列車から荷物車が分離されて、荷物列車が名古屋口でも運転されるようになったことを、先日「【596】熱田駅荷物基地全面開業の日」でお伝えしました。これに対して中央西線と篠ノ井線のほうは、それより前の昭和48年に全線電化されており、その時点で旅客列車はほぼすべての列車が電車化されるとともに客荷分離が進行しており、名古屋から2往復の荷物列車が設定されていました。画像は恵那~美乃坂本間を行く荷5043列車ですが、私が就職するまえの撮影です。「田中内閣打倒」とEF64に大書されています。.このほか、夜行急行「きそ」1往復で荷物・郵便輸送が行われ、80系電車併結のクモニ83の荷電運用もありました。2往復の荷物列車のうち1往復については、中津川~長野間のみ客車を3両併結して、荷物車主体の旅客列車という形態でした。 これからご紹介する荷5043列車は全区間を「荷物専用」列車として運転された列車でした。荷物専用列車と言っても、前述の夜行「きそ」ともう1往復の客車を一部区間に併結する列車も含め、鉄道郵便局員が乗務する郵便車(オユまたはスユニ)が連結され、郵便輸送の使命も併せ持っていました。郵便車で取り扱う郵便物は鉄道郵便局員と集配郵便局員との間で授受されていましたので、一部にあった郵便車を連結しない区間の「託送郵便物」以外は私ども国鉄職員が直接輸送にはタッチしていませんでした。 もうひとつ、この荷5043列車では、主に名古屋から中央西線沿線…

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【596】 熱田駅荷物基地全面開業の日

私が国鉄に入った1976年、国鉄の手小荷物輸送は全国的に改善途上にありました。 すでに年月が流れ、国鉄の営業実態をご存知ないお若い方のみならず、手小荷物を貨物と混同される方が多いと思われるのですが、乗客の手荷物を別送するチッキをルーツとし、現在の宅配便程度の重量と大きさに限定した「手小荷物」は、貨物でなく旅客営業の一部に分類されていました。そのため、もともと旅客列車に併結した荷物車に作業員が乗務し、各駅で積卸をしていく形態がとられていました。しかしある程度の量がまとまる都市間の荷物輸送は、「ロット化輸送」が推進され、専用列車化されるとともに、拠点駅間を無人で直通するパレット輸送や締切化のほか、荷物車によらず貨車やコンテナも利用されるようになっていきました。一方で、拠点駅から末端駅までは、旅客列車の電車化で荷物車を併結することができなくなるケースが増え、同時に小回りが利くトラック便の利用が推進されて、旅客列車の端っこに連結された荷物車を見る機会も少なくなっていきつつありました。 こうした中、名古屋地区の拠点駅として荷物基地が作られたのが東海道本線の熱田駅でした。国鉄では、私が国鉄に入った昭和50年代前半には、旅客駅である名古屋駅から手小荷物の取扱を熱田に移行させる計画が進行中だったのです。名古屋駅の手小荷物職場は縮小されていき、小荷物担当職員は減っていきました。熱田基地のほうは業託対応とされ、赤字国鉄の人件費削減合理化策の一環でもあったとも考えられます。 名古屋から熱田に拠点が移動すること…

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【551】 思い出の乗務列車47:東海道本線 荷35列車

先週、先々週の続きになります。 品川乗務員宿泊所で休養した前夜の荷42列車で着いた3人と、未明の荷40列車で着いた3人は、朝8~9時ころにはばらばら起きだして、誘い合うということもなく自然に喫茶店へ揃って出かけモーニングサービスで朝食という行動パターンが一般的でした。3人ずつ別の列車で品川まで来た2組6人は、全員その日の午後、品川駅から荷35列車に乗務して名古屋まで乗務することになっていました。乗務前に乗務員宿泊所がある総合ビル内にある品川車掌区へ出勤することになっていましたが、ぞろぞろ車掌区に行くのではなく、出勤印を専務車掌(荷扱)(通称ニレチといった。)に預けると、ニレチが代表で出勤印を押してくれましたので、私自身が品川車掌区内には入ったことはありませんでした。その出勤時刻が14時39分。喫茶店に行った後は14時ごろまでは自由行動でした。14時からは全員で部屋の掃除をしてから、定められた14時39分より早めに品川車掌区へ「出勤」して、その足でホームへ出場しました。定められた出勤時刻より早く出勤する理由は後述します。 14時までの過ごし方は人それぞれで、乗泊のベッドで寝そべっている人や読書する人、畳敷きの娯楽室でテレビを見る人、囲碁や将棋をする人など。しかし首都圏で日中に自由時間があるこの行路は貴重で、当時は撮り鉄もしていた私は、山手線を使って新宿西口のヨドバシカメラまで行って、フィルムや写真用品の買い物をしたり、秋葉原へ出て電気製品を見たり買ったりもしました。下のラジカセは秋葉原で当時買っ…

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【549】 思い出の乗務列車46:東海道本線 荷42列車

先週は荷40列車についてお話ししましたが、駅名と線路図の知識がかなり必要な荷40列車に比べて、名古屋から汐留まで乗務する荷42列車(乗務車両は「名荷3」)は、仕事上でも比較的簡単であるばかりか、午後の出勤で汐留着が21時過ぎという肉体的にも負担が少ない時間帯の列車ででした。画像は昭和53年4月号時刻表(日本交通公社版)から転載加工したものです。 この列車には1976~1978年の間には、月に1度くらい乗務の機会がありました。 1975年(昭和50年)3月改正 東海道本線 荷42列車 運転区間 鹿児島~汐留 <<編成は名古屋発時点のもの>> 乗務区間:名古屋14:17~汐留21:11 機関車 EF58(浜) マニ 名荷3  (名古屋~汐 留) ワキ 金荷203(富山~米原~汐留) マニ 名荷2  (米 原~汐 留) マニ 鹿荷2  (鹿児島~汐 留) スニ 鹿荷203(鹿児島~汐 留) スニ 鹿荷202(鹿児島~汐 留) スニ 鹿荷201(鹿児島~汐 留) オユ 南東郵1 (鹿児島~汐 留) オユ 熊郵2  (熊 本~汐 留) マニ 南東荷4 (熊本~東小倉~汐留) マニ 南東荷7 (宮崎~東小倉~汐留) マニ 静荷1  (宮崎~東小倉~沼津) 編成も12両と長く、当時の東海道本線の一般的な編成です。このうち南東荷4(マニ)は熊本から東小倉までは別列車に連結されてきているようです。過去記事【431】思い出の乗務列車33:東海道本線 荷31(名…

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【547】 思い出の乗務列車45:東海道本線 荷40列車

今回から3週にわたってご紹介する思い出の列車は、私が車掌になる前「乗務掛」としてマニに乗務していた東海道本線の荷物専用列車です。過去にも、いくつか荷物列車の乗務についての記事を書いてきていますので、荷物列車の実態についての一般的なことは繰り返し書きませんので、不明な点はブログ右側カラムにある「ブログテーマ」欄より「荷物列車」のテーマを選択して、過去記事をご覧ください。また、サイト内検索もご利用ください。 直前の荷物列車関連記事は「【480】思い出の乗務列車40:関西本線 荷44~224列車(後篇)」になりますが、その中では、関西本線224列車に連結されていたマニで、百済~青森間の長距離運用「天荷3」の積載方が難しかったことを書きました。今回紹介する東海道本線の荷40列車は、名古屋からその天荷3が継送される列車でもありました。 荷物列車のシリーズでは編成の記号番号を記録しておりませんので、編成表は運用番と運用上の発着駅にとどめますのでご了承ください。 1975年(昭和50年)3月改正 東海道本線 荷40列車 運転区間 東小倉~品川(隅田川) <<編成は品川到着時点のもの>> 乗務区間:名古屋18:56~品川 3:38 機関車 EF58(浜) マニ 天荷3  (百 済~名古屋~青 森) マニ 名荷4  (名古屋~青 森) マニ 名荷5  (岐 阜~青 森) マニ 名荷6  (岐 阜~青 森) マニ 盛荷4  (姫 路~盛 岡) マニ 盛荷5  (糸 崎~盛…

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【480】 思い出の乗務列車40:関西本線 荷44~224列車(後篇)

さて、亀山で客車列車に併結され、長編成に組まれた224列車はこんな編成でした。 DD51+マニ(天荷4)+マニ(天荷3)+スハフ+オハ(以上2両 名附11)+スハフ+オハ+オハ+オハ+スハフ(以上5両名11) マニは2両とも天リウ、その他の客車は名ナコでした。往路の225列車同様、現実の編成ではスハフはナハフ・スハフに、オハについてはナハ・スハに置き換わることは普通にありました。 この編成で百済から直通の荷物車は2両なのですが、私どもの乗務車両「天荷4マニ」は名古屋で折り返す運用でした。 乗務車両の天荷4マニの積載方は先週書きましたが、再度確認の意味で書いておきます。 <<「天荷4マニ」積載方>> (50.3改正時) 1 荷物。ただし大船以遠着を除く。 2 永和、弥富発京都以遠着金魚及び生鳥(名古屋中継) 3 隅田川以遠着 貴重品の積載を認む。(名古屋中継) 名古屋へ着くと、駅の小荷物係の手によって、荷物車内のすべての荷物は取り卸されてしまいます。私たち乗務員は名古屋駅での取り卸しの便宜をはかるために、名古屋駅到着時点では 1 名古屋着 2 中央線 3 東海道下り 4 東海道上り に荷物を仕分けることになっていました。 先週書いたように、難しい大船以遠の荷物は除かれていましたので、これは、べつに難しいことではありませんでした。 積載方に「金魚」「生鳥」という文言が出てきます。 この百済行路は、奈良県の郡山駅と愛知県の弥富駅と2ヵ所も金魚の特産地を通…

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【478】 思い出の乗務列車39:関西本線 荷44~224列車(前篇)

先週の「【476】思い出の乗務列車38:関西本線 225列車~荷43列車(後篇)の続きで、折り返し列車の記事になります。 荷43列車で百済へ着き、ここで宿泊した翌朝は、折り返し荷44列車の乗務でした。 まったくの往路の逆パターンで、天荷4マニに乗務し、亀山までは荷物専用列車でしたが、亀山から名古屋までが普通客車列車に併結される運用でした。私ども乗務員も名古屋まで乗務しました。 こちらの画像は乗務中に撮影した荷44列車です。23分も停車した新堂駅の停車中です。 荷44列車の百済駅発車時刻は9時38分。8時半までに所属車掌区に出勤電話をかければいいので、ゆっくり寝られました。朝になって関西本線を101系電車が行き交うようになると、その音で目覚め、誰ともなくごそごそ起きだすという、今から思うとたいへん優雅な行路でした。 ところで百済という一般になじみがない貨物駅の駅舎はJR移行後に開業した関西本線の旅客駅「東部市場前駅」の近くにありました。上の画像は分割民営化後の1993年に撮影したもので、この付近の現在の様子は変わっているはずです。駅名も「百済貨物ターミナル駅」と変わりました。 私たちが乗務した荷物列車の荷物を扱う部署は、その百済駅舎と正反対の平野駅寄りにありました。その周囲には商店街もなく、朝食は自分たちで前日に菓子パンなどを用意しておくか、近くの喫茶店のモーニングサービスを利用する以外には考えられない立地でした。 このマッチ箱の喫茶店にはよく通いましたが、今見ると「百済駅小荷…

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【476】 思い出の乗務列車38:関西本線 225~荷43列車(後篇)

先週の続きになります。 荷物の中継基地である亀山駅では大量の荷物の積卸しがあり、客車5両が切り離されました。ここからは代わりにスユニが1両連結されて合計3両編成のこじんまりした編成の荷物専用列車「荷43列車」に変身しました。 (昭和50年3月10日改正) 関西本線 荷43列車 亀山16:33~百済21:32 DD51(亀)+スユニ(天郵1)+マニ(天荷4)+マニ(南東荷8) ※奈良でマニ2両を増結 亀山での停車時間は1時間以上あり、荷物車内は夏は屋根が焼けて暑いし、冬は、機関車が連結されるまでは暖房が全く効かないので寒く、荷物の積卸が終わると、駅前の喫茶店へ避難するのが常でした。そのほかに、この長時間停車中には、駅前にあったスーパー「主婦の店」で夕食用の弁当惣菜の買い出しをする時間帯でもありました。亀山を過ぎると山間部に入りますので、ここで食糧を調達しておく必要があったのです。 この亀山駅前のの主婦の店は、かなり前に閉店してしまい今はありませんが、昨年亀山に行った折には喫茶店「尚」は35年以上を経ても営業していました。 亀山の停車中、下っ端には、魔法瓶にお湯を補給する仕事があって、亀山車掌区の給湯器でお湯を補給しました。最下位班の乗務掛の仕事になっていました。 拙ブログ記事の【420】 思い出の乗務列車30:東海道本線 荷41列車(2):乗務するまでに、その魔法瓶の絵を紹介しています。 もうひとつ、絶対忘れてはならないのが、私たちが翌日の帰路に乗務することに…

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【474】 思い出の乗務列車37:関西本線 225~荷43列車(前篇)

今回から毎月曜日、4回にわたって、私が昭和51年4月に国鉄へ就職した直後、「乗務掛(荷扱)」の職名で荷物車に乗務していたころの乗務列車のうち、関西本線の「思い出の乗務列車」を連載します。今回は、その往路の前篇になります。 この行路の乗務区間は名古屋~亀山~百済(くだら)間でした。百済という駅は天王寺の手前にある貨物駅でした。 私が乗務した荷物車は、名古屋から亀山まで、旧型客車5両の後ろに、ぶら下がるように2両連結された荷物車のうちの1両で、そこが仕事場でした。 (昭和50年3月10日改正) 関西本線225列車 名古屋13:41~亀山15:17 スハフ+オハ+オハ+オハ+スハフ(以上 名11)+マニ(天荷4)+マニ(南東荷8) 牽引する機関車は全区間DD51でした。名11の5両は名古屋発亀山行の客車(名ナコ)で、公式の編成表上はスハフとオハになっていますが、実際には、オハフ・スハ・ナハ・ナハフが混在しており、全国各地で見られた典型的な国鉄旧型普通客車列車のスタイルでした。その後ろにぶら下がった「天荷4マニ(天リウ)」には、私ども3名(専務車掌(荷扱)1名と、乗務掛(荷扱)または車掌補(荷扱)が2名)の荷扱乗務員が乗務していたのでした。この車両は荷物基地がある熱田から名古屋まで、荷扱乗務員が乗務しない「締切車」として、東海道本線荷2043列車に連結されてきた車両でした。 最後部の南東荷8マニ(南トメ)は前日に汐留を出た東海道本線荷41列車で一晩かけて名古屋まで来た車両で、こちらに…

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【447】 国鉄時代の出先今昔3:品川駅東口

私が国鉄に就職してから約3年間、荷物列車に乗務してした。その間もっとも宿泊回数が多かったところは品川乗務員宿泊所だった。 この乗務員宿泊所は品川駅東口に隣接したビルの中にあった。当時の品川駅には今のように表裏(東西)を結ぶ自由通路がなく、旅客ホームからこの東口までは改札内の地下道で結ばれていた。階段を上がったところに掘立小屋のような小さな駅舎と改札口が設けられていた。その地下道の上は在来線のほかに、新幹線とその車両基地があったため、非常に長く、陰気くさい通路だった。東口改札を出る直前に職員専用の通用口があって、そのドアをあけると線路端で、そこには品川機関区所属の古い一つ目玉のDD13がよく止まっていた。そこから非常に古い鉄筋コンクリートのビルへ裏から入って、これまた」古いエレベータに乗ると、その4階と5階が乗務員宿泊所だった。私どもの部屋は5階で、その窓からは品川駅東口の正面のタクシーのたまり場と汚い街並が見えた。 左端は沖電気の工場。道路を挟んだ奥は東京新聞社のビル。赤丸で印を付けた「大信」の看板があるビルは大東京信用組合品川駅東口支店。その手前に小規模で古い建物が建て込んでおり、画面からは切れてしまうが右下方向に品川駅東口があった。 ここの現況を見てみよう。 まったく別の街に変わっている。道路はまっすぐになり、かつての品川駅東口の跡を踏みつぶすように、そのまま、かつての鉄道用地の方に向かっている。沖電気はなくなり、東京新聞社屋跡には高層ビルが建っている。「大信」の看板だけが変わって…

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【443】 国鉄時代の出先今昔2:汐留(後篇)

1978年10月より前、汐留には午後に着く荷36列車で3組9人が乗務してきた。そのうち2組6人はその日の夜行荷41列車で戻り、残る1組3人は翌日朝の荷31列車で戻ったので、汐留車掌支区の休養室で泊まった。車掌支区のあたりには時間つぶしできるような場所はなかったし、夜行で帰る人たちも、夕食や夜食を買うために、多くの人は新橋駅の烏森口のあたりまで線路沿いの道を連れ立ってぞろぞろ歩いて出かけた。 車掌支区があるビル下には代行トラック便の荷捌場と車庫があった。緑色で国鉄の動輪マークが付いたボンネット式の幌が掛けられたトラックがずらりと止められており、私たちはそのトラックの通路を歩いた。 現在の国道15号線(第一京浜) この道路を横切った。何度横断したかわからないこの道も鉄橋も変わっていないが、その向こう、画像背後の高層ビル群は汐留の跡地になる。画面右側の高層ビルが建っているあたりが汐留駅荷物ホームの終端部分になる。そこは当時こんな感じだった。上の画像で、道路を跨ぐ鉄橋の反対方向からの撮影だ。駅ビルの左に荷物ホームの屋根が見えている。車両は荷物車のように見えるが、当時すでに救援車に改造されて、いつもここに留置されていたスエ71。元の形式はマニ74だった。 話を現在にもどそう。国道15号線を横切った後は煉瓦アーチの高架線路に沿って新橋駅までまっすぐ歩いた。名古屋辺りにはこうした煉瓦造の高架はなく、当時でも珍しくはあったが、決してきれいではなくうす汚なかった。それは今でも変わらない。 高架…

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【439】 思い出の乗務列車36:東海道本線 荷36列車「大荷34A」

もう一組の荷36列車の行路である、京都乗り出しの大荷34Aのほうは、大荷34Bよりキツイ行路でした。大阪泊りの行路は2組あったので、「ニッパチ」「クイチ」というように行路ごとの区別が必要でしたが、京都泊りは1行路しか設定がなかったので、この行路は単に「京都」と呼んでおり「京都の36はエライ!クイチよりエライ!」と言っていました。エライというのは名古屋では「しんどい。つらい。」の意味で使います。 こちらの積載方は 1、草津~汐留間着中継荷物。ただし横浜着中継荷物は汐留中継。 2、草津~米原間着中継荷物は車掌室寄り区分積載<京都駅> 前日、荷31列車の便乗で夜京都へ着いて、京都の乗務員宿泊所まで歩いていく途中に山陰線ホームの隅っこの方に荷物ホームがありました。そこには翌日の荷36列車に連結される大荷34Aマニが留置されていて、すでに荷物が積み込まれかけていました。大荷34Aは西からの乗継ではなく、京都で荷36列車の最後部に増結される車両なのでした。この時点では、まだ大した数の荷物は積まれていませんでしたが、未明のうちに前日近隣駅から発送され荷電や代行トラック便で京都に集められた荷物と、山陰本線の列車からの中継荷物がドッサリ積み込まれていくのです。前日夜の時点で、すでにたくさん積み込まれているような状態であれば、翌日はそうとうきつい作業になるので、この様子は3人の関心事でした。 京都の乗務員宿泊所は、この荷物ホームを通って通用口から外へ出て、今のビックカメラの北側あたりにあったはず…

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【437】 思い出の乗務列車35:東海道本線 荷36列車「大荷34B」~クイチ2日目

前日の荷31列車で大阪へ行った組(9行路)は、大阪から荷36列車の「大荷34Bマニ」に乗務しました。これは以前ご披露したS行路の3日乗務のうち、名古屋を通り過ぎ日中の東海道を汐留まで乗り続ける「9行路+1行路」の「クイチ」の2日目にあたります。大阪までの乗務員は岡山車掌区で、この大荷34Bは下関からこの列車に連結された車両でした。 積載方はいたって簡単明快で 1、 広島~汐留間着中継荷物。ただし大阪着中継を除く。 2、 隅田川以遠着貴重品。 このように、あっさりした積載方は、「○○を除く。××に限る。」などと言った制限が少ない分、駅側としては、積みやすいわけで、乗務員側としては集中攻撃を受ける結果となります。 同じ列車でも南東荷1で明石車掌区の乗務員がきちんと仕分けしてくれていたのに対し、岡山の乗務員は次停車駅である京都着中継分しか区分してくれませんでしたが、私たちでも山陽本線の駅順と中継駅と範囲を全部知っているわけではないので、責めるわけにはいきません。 それに常にこの運用は積載効率がよく、大阪駅で引き継ぐと、荷物室内は通路が空けてあるだけで、両側は天井まで荷物がぎっしり積まれて満載状態でした。多い時だと1,000個を超える荷物を、米原の到着までの1時間半で卸すべき駅ごとに仕分けなければならないのでした。スペースさえあれば何でもないことですが、狭い車内に荷物は満載されているのですから、車掌室の空きスペースや反対側のデッキ部分(作業スペース確保のためデッキ部分には原則として積載…

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【435】 思い出の乗務列車34:東海道本線 荷36列車「南東荷1」

先週は荷36列車がらみで、長時間拘束行路についてご紹介しました。今回は、荷36列車本体に迫ってみましょう。 まず、お約束の編成から 荷36列車 運転区間  東小倉~汐留 EF58(宮原) オ ユ    大郵3  大阪~米原(長岡) マ ニ    新荷11 下関~米原(長岡) マ ニ    南東荷1(松山)岡山~汐留 マ ニ    四荷1 (高知)岡山~汐留 マ ニ    四荷2 (高松)岡山~汐留 オ ユ    四郵1 (高松)岡山~汐留 マ ニ    大荷34B 下関~汐留 ワサフ    門荷201 東小倉~汐留 オ ユ    門郵1  東小倉~汐留 マ ニ    大荷34A 京都~汐留  京都発時点での編成表です。(昭和50年3月ダイヤ改正時) 先週アップしました記事【433】3日乗務「クイチ」のコメント欄へ「昔鉄道ファン」様より、1976年9月23日、荷36列車の岐阜発車時の編成を車番と運用番付でご披露いただいていますので、よろしければご覧ください。 他の荷物列車に比べ短編成ですが、大阪では「門郵1オユ」の後に、この編成表にない4両(オユ・マニ・ワキ・マニ)を切り離しています。この列車の特徴はごらんのように四国からの航送車両が連結されていたことです。列車の始発地九州から終点汐留まで直行するのは「門荷201ワサフ」と「門郵1オユ」の2両だけで、四国からの車両が4両も連結されていました。 大荷34にはAとBがありますが、車両に標記された運用番はど…

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【433】 3日乗務「クイチ」

荷36列車は、荷扱時代にもっとも多く乗務した列車だと思います。 それもそのはずで、大阪乗り出しが2組6名(往路荷41・荷31)と京都乗り出しが1組(往路は荷31)でした。 当時、私が所属する車掌区荷扱班にあった最長拘束時間の行路はこのうちの1組で 1日目  名古屋16:19―荷31列車―大阪19:54(泊) 2日目  大阪 5:10――荷36列車―汐留14:43(泊) 3日目  汐留 9:33――荷31列車―名古屋15:59 という3日行路でした。行路的には2つの行路を合体させたもので、名古屋~大阪間往復と名古屋~汐留間往復をそのまま通して乗務していたのです。 (名古屋到着時刻は厳密にいうと15時59分30秒です。上の画像では、勤務時間計算上、秒単位は切り上げ計算する関係で16時00分とされています。下の1行路の行路表についても同様です。)翌々日に乗り出しと同じ荷31列車で名古屋に戻るまで正味48時間拘束される勤務でした。9行路が終わった瞬間1行路が始まるわけで、この「行路番号9~1」のセット行路を、乗務員は「クイチ」と呼んで、もっとも嫌な行路の一つとされていました。同様に荷31列車で京都に泊まった組も荷36列車で名古屋を素通りして汐留まで通して乗務し、その日の深夜荷41列車に乗務し翌々日朝名古屋に戻りました。これも39時間拘束されるきつい行路でした。 少し前、大阪で有り余るほどの時間がある8行路の話をしましたが、実は聞くところによると、私が就職する前、「クイチ」と並ん…

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【432】 締切車と封印

木曜日は「中山道で見たモノいろいろ」の続編をアップする予定でしたが、前の荷物列車の記事の補足として「封印」のお話に変更しました。 ************************* これまでのお話で、荷物列車には車両ごとに乗務員が乗車していたことがお判りだと思います。ただし、すべての車両に荷扱乗務員が乗務しているわけではなくて、ワキ8000やスニ40、マニ44のように無人のパレット車が連結されていることも多々ありましたし、一般のマニでも締切車と呼ばれる無人車両がありました。乗務員が乗務していないのですから、荷物室は当然に荷物を積んだ駅の小荷物掛や、途中まで乗務して来て乗務終了駅で下車した乗務員が荷物室を施錠したのはもちろんです。施錠した上に「封印」をして、責任関係を明確にすることになっていたのです。 (全車両が締切車やパレット車で組成された荷物列車の場合は車掌が1人乗務しましたが、荷物は扱いません。) 封印に使用するのは「封印環」と「封印紙」でした。 これが未使用状態の封印環です。 封印環はマニの場合、荷物室の側面左右2ヵ所ずつある荷物用大扉(いちばん上の写真の左側の両開扉)に1両当たり4つ使用しました。(スユニの場合は2つ) こちらは未使用状態の封印紙です。 封印紙は一般のマニの場合、荷物室の前位車端部左右のデッキ扉(一番上の写真の右側の小扉)と、そのほかにデッキ部の妻面貫通扉と後位にある乗務員室との仕切戸のそれぞれ鍵穴部分に貼付し、1両当たり4ヵ所に使用しま…

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【431】 思い出の乗務列車33:東海道本線 荷31(名古屋~大阪)

毎月曜日に国鉄就職当時に乗務していた荷物列車がらみの記事が続きますが、今週はこれまでの荷41列車に続いて、荷31列車について触れてみます。 私が国鉄に就職したのは1976年(昭和51年)ですが、このころ私が汐留~大阪間を乗務する下り列車は2本ありました。それが荷41列車と荷31列車です。このほかの東海道本線下り列車にも乗務していましたが、大阪まで乗務するのはこの2本だけでした。これまで何週かにわたって紹介した荷41列車同様、荷31列車も汐留から乗務してきた乗務員は名古屋で乗継することになっていて、行路上は汐留~名古屋間と名古屋~大阪間に分かれていました。荷41列車が、汐留から大垣夜行の続行のような時間帯を走り、中京圏から西が昼行のダイヤだったの対し、荷31列車は汐留を朝出発し、大阪までの区間が昼行となる列車でした。荷41列車が首都圏で集荷した荷物を引き受けたあとは、翌朝の荷31列車までターミナル駅の汐留が深夜帯に入るため、東海道を下る荷物列車の設定はありませんでした。(画像は国鉄監修の時刻表1978年4月号) そのために荷41列車と荷31列車との時隔は約9時間もあり、中京圏では早朝に荷41列車が下った後は夕方の荷31列車まで荷物列車はなく、汐留を午前中に発車する唯一の荷物列車でもありました。ちなみに東海道本線を山陽九州方面へ向かう下り荷物列車は1日6本で、他の荷物列車の時隔はおおむね2~4時間程度でした。このことから首都圏で集荷した荷物を、午後から夜に地方へ向けて2~4時間おきに荷物列車に…

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【427】 荷41列車/ 大阪到着後の過ごし方(前篇)

荷41列車は12時33分に大阪へ着いて、乗務車両の南東荷9を糸崎車掌区に引き継ぐと、私どもは下車し、大阪駅中央コンコース北口を出て道路を渡ったすぐのところにあった大阪車掌区へ行って到着点呼をしました。 大阪車掌区と乗務員宿泊所があった建物は、旧梅田貨物駅敷地の東端にありましたが、今は取り壊されて影も形もなくなっています。位置的にはヨドバシカメラのビルの西側になります。 写真はすでに民営化後の1993年の撮影ですが、そのころは国鉄当時と変わることなく建物は建っていました。 専務車掌(荷扱)は無線機を車掌区に預け、翌日の乗務に備えて充電してもらいました。その足で翌日の折り返し列車までの一夜の宿となる同じ建物内の上階にある乗務員宿泊所へ行き、この日の仕事は終了となりましたが、時刻はまだ昼の12時台なのでした。 翌日早朝までは、仕事があるわけでもなく何もすることがないのでした。家に帰ることもできない場所で、はっきり言ってお金にもならない無駄な時間帯でした。まずは3人で昼食に行って、それから喫茶店で時間つぶしをして、そのあとは解散自由行動というのが、よくあるパターンでした。 当時、みんながよく行った喫茶店のマッチ箱。 「国鉄高架下」の文字が時代を物語っています。 たしか、ウェイトレスがミニスカで、乗務員には人気の喫茶店だったと記憶しています。 昨年、同じ場所を通りましたが、喫茶店はなくなっていました。あれから35年経っていますから無理もないですが…。 乗務員は、出先で折り返し列…

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【425】 思い出の乗務列車32:東海道本線 荷41列車(4):荷物・新聞・官報・雑誌

荷41列車の4回目になります。 この画像はマニの荷物室内ですが、荷41列車での撮影とは違います。このように少ない荷物で全区間走ってくれれば、乗務員は一人でももったいないほどですが、いつもこうして写真を撮っていられるほど余裕があったわけではありません。写真から当時の荷物には必ずヒモがかけられていたのがわかります。手鉤を使って仕訳をしましたから、手鉤の先をヒモに引っ掛けて作業をしたのです。手鉤については、ブログ記事「【213】荷扱乗務員の必需品」をごらんください。 荷物にかけられたヒモには「荷物切符」も括り付けられていました。(特別扱新聞雑誌を除く) 「荷物切符」行先、運賃などが旅客の切符と同様に記載されていたのです。 荷物車の車掌室内の雰囲気は過去記事「【211】 荷物列車とお茶菓子」で紹介していますので、よろしければご覧ください。 荷41列車では名古屋で買った駅弁を車掌室内で食べました。時間的には8時ごろ、岐阜での積卸を終えた後くらいが食べ時でした。車掌区で沸かしてポットに入れて持ってきたお湯も、このときのお茶に使いました。 この列車は通過駅が多い割に停車時間が長めで、名古屋から大阪までを日中5時間以上もかかって運転されていました。当時の大型時刻表には、荷物列車の時刻も載っていまして、それによれば首都圏対九州の荷物列車は下りで6本設定されており、そのうち荷41列車だけが急行ではありませんでした。 (画像は日本国有鉄道時刻表(1978年4月号)の該当部分を転載したもの) …

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【423】 思い出の乗務列車31:東海道本線 荷41列車(3):積載方と急送品

東海道本線 荷41列車の3回目です。 「【420】東海道本線 荷41列車(2):乗務するまで」の続き になります。 この列車の乗務車両である「南東荷9マニ」には専務車掌(荷扱)1人と、私を含む乗務掛(荷扱)2人の計3人が乗務し、大阪までの荷物の積卸と整理を行っていました。 この荷物車「南東荷9マニ」の積載方は以下のように定められていました。 1 荷物。ただし八田以遠及び四国着を除く。 2 汐留発は急送品(A)及び横川以遠着に限る。 3 九州着荷物は急送品に限る。 4 「〇モ4」着区分積載<大阪~東小倉乗務員> 5 沼津発名古屋着中継は急送品に限る。 6 米原発広島着中継は急送品に限る。 積載方がこのように細かく定められている理由は、この列車に連結された荷物車1両ごとに、それぞれ行先や用途を分散させてあるからです。私は他の車両の積載方を資料として持っていませんが、各車両の行先(「【418】思い出の乗務列車24:荷41列車(1)…その編成など」の記事中に編成と行先を示してあります。)から、この「南東荷9マニ」の積載方から除かれている荷物が積載されるべき車両が推察できます。 たとえば、「南東荷9マニ」から名古屋で中継すべき関西本線の八田以遠の荷物を除いているのは、名古屋で切り離す2両のうち1両は、そのまま八田以遠の関西本線経由で百済へ直通する運用(私が名古屋から乗務すると同時に切り離しになる車両なので、「【418】思い出の乗務列車24:荷41列車(1)…そ…

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【420】 思い出の乗務列車30:東海道本線 荷41列車(2):乗務するまで

荷41列車の乗務に当たっての出勤時刻は名古屋駅発車の50分前の6時25分でした。私のように岐阜県から名古屋の職場まで通勤していた者にとっては、一番列車で出勤しても間に合わない時刻でした。そのためこの行路の前日は非番日となっていて、原則的に前日職場に出勤して宿泊することになっていました。 この部分の交番表(乗務割表)です。 マス目一つが1日を表しています。 前日は乗務列車がなく非番日。(実際には夜職場へ出る) 翌日は名古屋から荷41列車の乗務で6時25分は出勤時刻。 7時15分は名古屋の発車時刻。 その次の日の朝8時43分に名古屋へ荷36列車で戻ってくる。 という勤務です。 この荷41列車を始めとして、深夜に仕事が終わる人や、翌朝までの勤務間合いの人たちの休養のため、車掌区には人数分の寝床が確保してありました。しかしその場所とは、新幹線高架下にあった車掌区のなかにある30畳くらいの畳敷きの大広間で、そこに20人くらいの布団が敷いてあるだけのことでした。その大広間は2室あり、昼間には組合の集会や、出勤予備者の待機など多目的に使われる和室で、初乗務前の机上講習も私はここで受けたのでした。 宿帳に記名しておくと、車掌区の内勤の人が翌朝の出勤時刻の5分くらい前になると起しに来てくれました。新幹線の高架下のため、終列車までは騒音で寝付かれず、そのあとはいびきの大合唱。ひどい環境の寝床でした。寝ぼけ眼で出勤印を押すと、一緒に乗務するメンバーが顔をそろえます。そのなかでシャキッとして…

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【418】 思い出の乗務列車29:荷41列車(1)…その編成など

私が昭和51年4月に国鉄へ就職して「乗務掛(荷扱)」の職名で最初に見習乗務したのが東海道本線の荷41列車のうち名古屋~大阪間でした。荷41列車は汐留貨物駅を前夜に出て、私が乗り込む名古屋へは早朝6:58に到着する荷物専用列車でした。画像は留置中の荷物車で、荷41列車ではないですが、このような車両が連なった列車でした。 名古屋までの乗務については「【103】乗務中見えるもの」で、以前に少し書いたことがありますが、今回は名古屋で乗り継いだ後のことになります。 この行路の往路の乗務列車が荷41列車なのでした。列車自体は大阪から先、九州の東小倉まで運転される荷物専用列車でしたが、私どもの乗務範囲は当時大阪までで、編成は以下のようなものでした。 (名古屋発時点・昭和50年3月ダイヤ改正時)) 荷41列車 運転区間  汐留~東小倉 EF58(浜松) マ ニ    名荷6  名古屋~岐阜 マ ニ    名荷5  名古屋~岐阜 マ ニ    南東荷5 汐留~岡山 マ ニ    岡荷1   汐留~岡山 ワ キ    広荷204  汐留~広島  マ ニ    広荷2   汐留~広島 ワサフ    南東荷203 汐留~東小倉  マ ニ    南東荷9 汐留~東小倉 オ ユ    門郵6   汐留~東小倉 ス ユ    南東郵301 汐留~東小倉 ス ユ    南東郵302 汐留~東小倉 マ ニ    門荷4   汐留~東小倉 マ ニ    門荷5   汐留~東小倉 この…

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【379】 KATO「郵便・荷物列車」

昨日、父親の入院先で様子を見てまいりまして、とりあえずは落ち着いた状態であることを確認して帰宅しますと、家内から「おもちゃが届いてるよ」と!!! 注文してあったKATOの新製品『郵便・荷物列車「東北」6両セット』が宅配で届いていたのでした。上段がソレです。下のはKATOから1年近く前に発売された『郵便・荷物列車「東海道・山陽」6両セット』という製品。(いずれも写真に出ている機関車は含みません。) ウチではこの手の宅配は「おもちゃ」と常に呼ばれています・・・・まあ、たしかにおもちゃなのですが。 ############################# 最近は模型を買ってもチョロッと見るだけで、多忙のためそのまま保管といった状態になってるのが実態です。今回の『郵便・荷物列車「東北」6両セット』が届いたのは、ちょうどそのほかにも用事を済ませた後でしたし、これらは自分が国鉄での最初の仕事で乗務した車両たちですので、久しぶりに模型をじっくりと眺めてみました。 今回の製品の内容は東北本線方面で使用されていた電気暖房装備車群です。東北は私の乗務範囲ではありませんが、電気暖房装備車は中央西線などでも日常的に乗務しましたし、東海道本線筋でも北陸や東北方面へ直通する車両運用には、電気暖房装備車が指定されていました。 今回購入したのは基本セットのみでした。 その内容は マニ60(鋼体…

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【378】 思い出の乗務列車23:紀勢本線924列車(後篇)

さて、924列車乗務の話を続けましょう。 長時間乗務して11時24分、亀山までくるとさすがにホッとしました。 亀山では9分ほど停車し、進行方向が変わります。亀山駅に到着すると、DF50は最前の亀山止まりのオハフを従えて去っていき、スユニは最後尾になります。反対側にDD51+マニが連結されて、11時33分に924列車は関西本線を終点名古屋へ向けて発車すると最終コーナーとなり、乗務終了まで残り1時間半でした。 亀山で反対側に増結されたマニにも乗務する機会がありました。 そのマニは関西本線を百済(大阪市場駅隣接の貨物駅)から貨物列車(2268列車)に併結されて亀山まで締切扱(無人)で来た車両でした。乗務員は名古屋から旅客列車に便乗して亀山まで迎えに行っていました、名古屋・亀山間事実上片道だけの仕事でしたので、こちらのほうは楽な行路でしたが、さすがにこの行路単独で乗務するようなことは、ほとんどなく、前日には勤務時間が多く名古屋到着が遅い東海道本線の荷物列車とセットで乗務することになっていました。この亀山折り返し924列車マニの乗務行路の場合、前日は名古屋泊で、前々日は品川泊といった具合で、事実上二連泊の3日行路でした。こういう場合は仕事で家を出ると翌々日しか帰れないわけです。 このマニの積載方は 「荷物。ただし隅田川以遠着を除く」 といったものでした。積載方の定義など詳細は、いずれ別の機会にご説明することとしますが、「隅田川」駅は首都圏より北へ向かう貨物や荷物の玄関口的存在の貨物…

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