【969】 中央西線を走った車両22: 70系電車(前篇)

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 70系電車は、80系電車に比べると知名度が落ちますが、電化されたばかりの1966年から中央西線で使用されていました。そのころ電化区間は名古屋~瑞浪間だけで、まだ神領電車区もなかった時代でしたから、大垣電車区の所属になっていました。1968年に中津川までの電化工事が完成すると神領電車区が開設され、70系は大垣電車区から神領電車区へ全車が転入し、それとは別に大船電車区からも新たに70系が神領電車区に転入してきました。これでその年の10月からの中津川電化に伴うダイヤ改正への車両配置が整ったわけです。1977年3月10日 高蔵寺~定光寺 瑞浪・中津川間の複線電化工事は1968年8月に完成し、10月のダイヤ改正を前にして、夏休みに沿線の小中学校の児童生徒を対象とした試運転列車の無料試乗会が催されました。大人たちが10月のダイヤ改正まで乗車できない「電車」に乗れることはこの上ない喜びでした。しかし定員の関係なのか全校児童生徒が対象というわけではなく、私が住んでいた校区では学年が指定され、小学5・6年生と中学1年生に限られていました。私はそのとき小学5年生でしたので、かろうじてセーフとなり幸運でした。学校の行事という感覚で、欠席者もほとんどなかったような…

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【967】 中央西線を走った車両21 :80系電車と115系電車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 80系電車は、国電の代表形式のうちの一つで、幹線からローカル線まで幅広く活躍し、電化された中央西線でも使用されていました。 1980年3月頃 美乃坂本~中津川 中津川電化時点(1968年)ごろは、中津川まで乗り入れる定期列車には70系が主に使われていましたから、そのころ中津川界隈で80系を見た記憶といえば、週末に運転された臨時快速「恵那峡」くらいでした。 厳密に言うとそれはウソになります。と言うのは神領電車区の70系に組み込まれたサハのうち3両は横須賀色に塗装された80系のサハ85が混入していたからで、いつも「スカ色」の80系を見ていたことになります。そのサハ85については、後日70系の記事のなかで語ることにしますので、今回は触れません。 中央西線で本格的に80系電車が使用されるようになったのは、中央西線が全線電化された1973年からと言ってよいと思います。 1979年4月29日 田立~坂下 南木曽以北に断面が小さいトンネルがあるため、使用されたのは電動車モハ80のうち低屋根800番代か、折り畳み高さが低いPS23パンタに取り換えた神領電車区の編成に限定され、4両単位で編成を組んでいました。70系にはそういう狭隘ト…

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【961】 中央西線を走った車両18: 153系・165系電車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 153系・165系 1968年に中央西線の瑞浪~中津川間の電化工事が完成した時点から、私の実家の最寄り駅での「電車」との付き合いが始まりました。そのころ古い70系電車と、気動車、機関車牽引の客車列車が混在するなかで出色だったのが、1往復だけあった中津川発着の東海道本線直通快速列車でした。この列車は大曽根~多治見間ノンストップという速達性のほか、大垣電車区の153系8両編成であったことが、「急行」を思わせ、よく乗りました。 1971年4月 中津川発大垣行快速1634M 美乃坂本~恵那 大垣電車区の153系編成の先頭車は、正面が橙色一色の低運転台と高運転台のクハ153が混在していました。ほかにも正面が橙と緑の2色塗装のクハ165が混用されましたので、どの顔が来るのかということも楽しみの一つでありました。 165系による急行が中央西線を走るようになったのは、そのあと1973年の全線電化時からでした。こちらは新たに神領電車区に配置された車両でしたが、すべて他区からの転属車で新車ではありませんでした。 1973年7月21日 上り急行「きそ1号」 恵那駅で 急行では、165系の中間にサハ153が混入することが多く、153系から改造…

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【959】 中央西線を走った車両17 :12系・14系・20系客車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないことも、あらかじめご承知おきください。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 12系客車は波動輸送用として製造された客車でしたから、中央西線のように季節や曜日による輸送量の増減が激しい線区では、臨時列車を中心によく入線していました。1973年2月3日 急行「ちくま1号」 釜戸駅 1973年5月5日 臨時快速「木曽路」 坂下~落合川 12系客車は定期急行「ちくま」・「きそ」にも使用されるようになりました。「ちくま」では20系寝台車と12系が併結されました。 1986年8月21日 長野で 時刻表を見ますと、1986年の1~2月に臨時急行「なにわ銀嶺」という寝台列車が運転されたことになっています。深夜なので見に行ったわけではありませんが、おそらく宮原の20系で運転されたのではないかと思います。中央西線の定期列車で座席車がない寝台列車はなかったので、一般客扱列車としての寝台列車は珍しいと思います。時刻表画像は1985~1986年(60.3改正時)冬版名古屋鉄道管理局ポケット時刻表の臨時列車ページです。大阪発妙高高原行で運転日は1/31・2/14・2/28でした。(折り返しは2/2・2/16の運転)。その前年の冬にも臨時急行「なにわ銀嶺」は時刻表の臨時列車ページに名を連ねていますが、全車普通車座席指定となっています…

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【957】 中央西線を走った車両16 :旧形客車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないことも、あらかじめご承知おきください。機関車編が終わりましたので、一般客扱列車に連結されていた客車について2週に分けてアップします。 ~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~ 小学生のころに見た客車について、いくつかお話してきましたので、重複しないように進めます。 自分が中央西線の定期列車で見たり乗ったりした旧形客車の形式を列挙してみます。 ナハ10、オハ31、オハ34、オハ35、オハ36、スハ40、スハ43、オハ46、オハ47、オハ51、オハ53、オハ55、オハ60、オハ61、オハ62 ナハフ10、オハフ33、スハフ36、スハフ42、オハフ45、オハフ52、オハフ60、オハフ61 スロ51、オロ61、スロフ51、オロフ61、スロフ62 オロハネ10、スハネ16、オハネ17、オハネフ12 スハニ31、スハニ32、オハニ36、オハニ61 スユニ60、スユニ61、マニ32、マニ36、マニ60、マニ74、マニ76、オユ10、スユ43、マヌ34 ほかにもあったかもしれませんが、特定しかねる形式もありますので、このくらいにしておきます。 上に列挙した形式のうち、下のブログ記事の中でカッコ内に示した形式やグループについて、出会った経緯や思い出を書いています。(画像はありません。) 【891】小学生時代…

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【951】 中央西線を走った車両13:気動車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。今回は気動車編です。 私が中央西線で国鉄時代に見た営業用の気動車を列挙してみます。 キハ17・18・20・25・26・28・35・40・48・51・52・55・57・58・65・90・91・180・181 キロ25・27・28・58・180 キサロ90・キサシ180 上の画像は使いまわしですが、1972年10月10日に中央西線の南木曽~十二兼間で撮影した気動車の画像です。キハ26(300番代)+キハ51+キハ51+キハ26(300番代)です。キハ26(300番代)はキロハ25の格下車、一見キハ17と見えるのは2個エンジンのキハ51です。画像は縮小しており判別できないと思いますが、元画像ではキハ17とは窓配置が異なり、戸袋窓の形状で判別できます。 ところで、キハ181系とキハ91系については過去に紹介していますので、 【114】 中央西線を走った車両1:181系気動車(1) 【115】 中央西線を走った車両2:181系気動車(2) 【117】 中央西線を走った車両3:181系気動車(3) 【119】 中央西線を走った車両4:181系気動車(4) 【780】 中央西線を走った車両10:キハ91系気動車 をご参照ください。 このほか、中央西線の気動車列車については、 【907】 下り急行「きそこま」~「…

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【943】 字幕

先週の記事(【941】思い出の乗務列車54:武豊線931D名古屋行)の終わりに、国鉄分割民営化を前提にした61.11ダイヤ改正で、私が在籍していた車掌区の普通車掌行路では、気動車の貫通ホロやホース・ジャンパ等の連結切り離し作業が新たに加わったと書きましたが、このダイヤ改正では、そのほかにも、いくつか新たにすべき仕事が増えました。 そのひとつに普通列車の行先表示幕の表示がありました。それまで名古屋鉄道管理局管内所属の普通列車用車両で、車掌が表示していたのは、117系電車の側面字幕だけでした。(特急用車両まで含めれば、381系しなの号の側面字幕操作も従来から車掌が行っていました。) それまで 103系・113系・165系電車と気動車はサボと呼ばれる車両側面に行先(区間)を表示した板を枠に差し込んで表示する方式で、このサボ交換作業は業務委託された関連会社の社員が行い、車掌はその作業のためにホーム反対側のドアを開閉したり、その表示の確認をするだけでしたが、このダイヤ改正時に、大垣~東京間の夜行列車と急行以上の優等列車を除きサボの使用が全廃されました。代わりの行先表示方法としては、今まで「急行」表示以外は無表示になっていて使用していなかった前頭部の字幕(方向幕)によるものでした。このことで、側面からは列車の行先がわからない状態になってしまいました。(名古屋鉄道管理局管内での話であります。鉄道管理局によっては前頭字幕を古くから行先表示として使うことによって、側面のサボを廃止していました。) 編成一斉指令…

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【941】 思い出の乗務列車56: 武豊線931D名古屋行

私が武豊線で乗務していた昭和50年代、名古屋第一機関区には12両のキハ35形式が配置されており、3両編成2本と4両編成1本に分けて運用されていました。武豊線では朝夕に急行編成が入り、キハ35のほうは、朝だけ3両編成を2本連結して6両編成を生み出して、武豊~名古屋~武豊~大府と、武豊線内を1往復半しました。 1往復したあとの武豊発名古屋行が931Dで、朝の通勤通学輸送が一段落した8時41分に6両で武豊を発車して、途中の大府で後寄り3両を切り離して、前寄り3両だけが名古屋まで直通し、機関区へ入庫して整備を受けました。大府で切り離された3両はそのあとすぐに折返しの武豊行に変わり、引き続き4両編成と交互に日中の武豊線内運用に用いられました。 名古屋に10時前に着く列車というのは通勤通学時間帯のような混雑はないものの、休日には買い物などで名古屋に出る利用者が多く、車内で乗車券を発行する枚数がけっこう多い列車でした。 車掌は、武豊から、切り離しがある大府まで2人乗務で、大府から先は1人乗務になり、それで名古屋に着くと乗務終了。大府で降りた車掌は、切り離された3両編成で折り返す行路になっていました。 大府での切り離し作業の関係上、名古屋へ直通する車掌は始発の武豊から3両目の名古屋行車両の最後部に乗務し、大府で折り返す車掌は、その直後となる4両目の乗務員室に乗り込み、向かい合う運転室に携行品を置いて、ちょうど中間部で相対する乗務員室を拠点にして仕事をしました。2人の車掌は担務指定がされ、名古屋まで乗務する…

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【939】 使用停止の車内トイレ

垂れ流し式の列車のトイレには「停車中は使用しないでください」という注意書きがドアに書かれていたのをご記憶の方は多いと思います。(画像は、 碓氷峠鉄道文化むらの保存車) 停車中の便所使用が制限されていることは、子どものころから知っていましたが、走行中の使用を制限する例を初めて知ったのは、高校生のときでした。 それは、初めて九州へ行った時の、下り急行「桜島・高千穂」でのことで、朝の4時前、下関到着前におはよう放送が入りました。その中では、「下関を出ますと、すぐに関門海底トンネルに入ります。トンネル内では衛生保持のために、便所・洗面所の使用を一時お断りいたします。およそ5分くらいですので、少々御辛抱願います。」ということでした。なるほどとわかる話ではあります。 ちなみに前夜のお休み放送のときには、転落した方も「おおぜい」あるからデッキのドアは必ず閉めるようにという内容の放送も入り、いずれも今の列車では考えられない環境で列車が走っていたなあと思うわけです。 (画像は大井川鐵道の客車であり、桜島・高千穂号とは無関係です。) 私も、以前は撮り鉄らしきこともしていましたから、知らない間に被害にあっていたかもしれません。 画像の電車は長野電鉄の電車で、トイレがありませんので安全ですが、国鉄の列車をこんな角度から撮影したら、ぶっかけられることを覚悟する必要アリです。たいてい写真を撮ったら、後追い写真を撮るために撮影者は列車の前方を向きますから、背後からやられるのではないでしょうか。高速だと霧状に…

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【938】 スチール棚の企画展14:「夜行列車」

以前、【904】スチール棚の鉄道模型その後:2018年8月のなかで、「客車列車」の企画展をやっていますので、タイトル上の「スチール棚の企画展13」を欠番として、今回は「14」とさせていただいております。 ******************* そのうちに死語になっていきそうな夜行列車。いつものように在庫車両に偏りがありますので、、、、、今回も「むりやり感」のある面々で繕いながら夜行列車のイメージで、今回は左方を先頭として展示してみました。 以下、ひな壇の上から順に。。。 ******************* 最初に20系だけで組成された4編成を。 20系客車とその牽引機は全部K社製品です。 ◆EF65P+カニ21+ナロネ21+ナハネ20+ナシ20+ナハネフ23+ナハネ20+ナハネフ22 「EF65特急色」と「20系特急形寝台客車7両基本セット」の組み合わせです。20系客車の主要形式が網羅されたセットで、現行製品にモデルチェンジされた直後に購入しました。  ◆EF65 PF+カニ21+ナハネ20×6+ナハネフ22 「EF65 1000」と、「さよなら20系客車号」(平成9年にEF58 150の牽引で運転された)を製品化した「さよなら20系客車7両セット」の組み合わせで、20系が白帯2本になって国鉄末期以降に臨時列車や団体列車として使用されていたころがイメージされています。このセットでは、白帯以外にも車両によって側窓やドア窓のHゴムの色が黒ゴム化された末期…

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【937】 列車のトイレと乗務員

ご承知のように、国鉄時代の列車は、いわゆる垂れ流し式のトイレが当たり前でした。少しずつ循環式のタンクを装備して車両基地で処理する方式に改良されつつありましたが、冷房化同様、国鉄分割民営化の時点でも垂れ流し式は残存していました。当然、これは昔から問題となっていて、とくに保線区など施設関係の職場環境問題でもありましたので、組合も改善要求を出していました。画像は大井川鐵道の旧形客車です。利用は制限されていますが、設備的には今もそのまま残っているようですね。 「臭いものにはフタ」を地で行くようなことですが、国鉄時代からトイレを使用禁止にして施錠していた例がありました。 そこは、私が普通車掌時代に乗務していた岡多線(現愛知環状鉄道の一部)でした。私が乗務していたころは113系が使用されており、クハには一部を除き垂れ流しトイレが装備されていたわけですが、岡崎駅に回送された車両には例外なくサボ交換などを請け負う業託社員の手によって車内トイレのドアを客車カギで施錠されて「使用禁止」の札をドアノブにぶら下げて岡多線内を運用されていました。こうすると便所使用灯が点灯しますので、人為的に使用中の状態にしてしまう結果となるわけです。岡多線は比較的新しい路線でしたから、岡崎駅構内に踏切が1つある以外すべての道路が立体交差で、特に市街地区間のほとんどは高架区間でした。高架区間で上から黄害を撒き散らすのはやめてくれという要望があったのだろうと思われます。施錠しないまでも、車内トイレを使用制限する区間は大都市などにありま…

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【915】 国鉄時代の迂回運転について

先週は西日本豪雨で不通になった山陽本線区間を避けて迂回運転されている貨物列車について、思うことを書きましたが、山陽本線の全線復旧がかなり前倒しで9月30日と発表され、あと少しで元どおりの運行に戻れそうです。被災直後の悲惨な状況を思い返しますと、短期間でここまでたどり着けたことに対して、関係者のみなさんのご努力をたたえたいと思います。 JRではさまざまな輸送障害に備えて運転・営業・施設面などでそれぞれにマニュアル的なものを作成していると思いますが、国鉄でも、災害が起きた場合にそなえて、列車ごとや区間ごとに細かなマニュアルが事前に定められ、必要の都度通達によって施行されることになっていました。乗務員であった私どもにも乗務に関係する列車、関係する区間について抜粋した内容が周知されていました。そこで今回は、国鉄で不通区間が発生した場合の迂回運転について、当時の達示を私の知り得る範囲で振り返ってみたいと思います。あくまでも知りうる範囲ですから、局所的であり、時代は1980年半ば、55.10ダイヤ改正時の主に中部地方に関係する特急・急行列車に関する内容となります。あらかじめお断りしておきますが、元になる資料は、現場にいた車掌が乗務するにあたって必要なことだけを抜粋して知らされた内容ですので中途半端なことばかりになります。ここに書くこと以上の詳細な内容について、私には知識がありませんので、ご質問にもお答え出来かねますのでご容赦ください。 ◆特急「金星」(21M・22M)について 特急「金星」は名古…

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【900】 900回めを迎えました ~国鉄車両形式合わせて900~

この記事が900回めになりました。 長らく、ご覧いただいた皆様には厚くお礼申し上げます。 くだらない「しりとり」がやっと終わって、またくだらない記事で恐縮です。 …で、今回は、鉄道車両の形式を足していって合計900にしてみようと思います。 そんなのは簡単で、例えばDF200+EF200+EH500=900となってしまいますから、制限を設けます。 1 自分が乗務したことがある国鉄車両であること。 2 「乗務した」というからには、乗務員室付の形式であること。 3 その形式の車両画像が手元にあること。 4 その形式のNゲージ模型が手元にあること 以上のような制限をクリアした車両画像をアップしていきますが、これまでに乗務に関係する記事をたくさん書いてきたので、使いまわし画像ばかりにならないよう、撮影場所や撮影時期は、あえて乗務していたエリアや期間とは違う画像を優先して選びながら進めます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ クハ103 関連記事  【71】 乗務した車両:103系電車(1)  【73】 乗務した車両:103系電車(2)  【74】 乗務した車両:103系電車(3) 模型画像:MicroAce A0441     103系JR東海スカイブルー冷房車7両セットのうちの1両 実車画像:1972年11月15日 東海道本線 京都駅 ・このころには中央西線に103系がまだ転入していない時代でしたから、この電車を見ると都会に来た感じがし…

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【850】 ランキングと車掌 

いきなり鉄道にまったく関係ない話から始めますが、下の画像は昭和時代の月刊誌の切り抜きです。読者による女性タレントの人気投票の結果です。 なつかしいタレントさんが名を連ねていますね。そして下の画像はまったく同時期の別の雑誌の切り抜きです。同じ時期であっても、集計によって順位が入れ替わるものですから、順位が全てではないはずで、私はこうしたベスト〇〇は傾向を知るうえでの参考程度に見ていますが、1位にこだわって一喜一憂したりしない人です。特に人気といった正体がつかめないもので比較して順位付けをすることには賛成しかねるところがあって、1位こそがほんとうのベストなのかと思ってしまいます。 ここから鉄道の話にしましょう。国鉄でも、決算が終わると前年度の各線区の収支状況、営業係数などが発表されたので、マスコミはそれに順位をつけて報道していました。 こういうことは、単純に数値だけで比較され、知らされる私どもは、ベストあるいはワーストに入った対象だけが強く印象付けられてしまいがちです。線区別にそれぞれ固有の事情を抱えているので、それぞれの線にしてみれば、異議や、言い訳の一つも言いたくなることでしょう。しかし傾向はわかります。順位が多少前後してもおよその感触はつかむことができ、上の女性タレントの2つの集計結果を見てもそうですが、10人の顔ぶれはまったく変わっていません。上の画像にある国鉄の線区で言えば、美濃太田~北濃(越美南線)が営業係数ではワースト1で、名古屋鉄道管理局内では一番の赤字路線として糾弾され…

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【838】 思い出の乗務列車55:高山本線「ひだ1号」「ひだ4号」

タイトルを「思い出の乗務列車」シリーズ記事にしましたが、内容は先週アップした「【836】乗務した車両:80系気動車」の続編になります。特急は「しなの」しか乗ったことがなかった最下位組の専務車掌だった私が、予備勤務のとき、急に高山本線の特急「ひだ号」に1往復乗務した時のことを書いています。 (画像はリニア鉄道館で撮影) 乗務した日の編成表です。 1985年12月27日 5001D「ひだ1号」 運転区間・乗務区間とも名古屋~高山 1 キハ82 94 名ナコ 2 キロ80 44 名ナコ 3 キハ80 102 名ナコ 4 キハ80 133 名ナコ 5 キハ80 136 名ナコ 6 キハ82 84 名ナコ 「名1」 1号車寄りが岐阜方 (岐阜・高山間逆編成) 折り返す5004D「ひだ4号」も同じ編成 画像は1985年10月31日 5003Dひだ3号 (飛騨小坂~渚 列車の後方から撮影) 先週はキハ80系で取扱う機器操作のことを書きましたが、それとは別に、いつも乗務している線区でない場合は、その路線固有の列車運転上の取扱いを把握しておくことが大切です。 この日1往復する「ひだ」の停車駅の中には、以前の乗務で通過した駅や信号場もあったので、そういった駅の信号機の位置やホームの状態のほか、駅員との連携については、チェックしておかねばなりません。 列車を発車させるには、乗務員室からいったんホームに出て自分の列車に対する信号機の現示を確認し、時刻と…

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【836】 乗務した車両: 80系気動車

特急は「しなの」しか乗務行路上になかった最下位組の専務車掌だった私ですが、予備勤務のときには変わった列車に乗ることもありました。 1985年(昭和60年)の12月のこと、その日は緊急対応の日勤で、どのような列車に乗務してもよい覚悟をきめて、朝8時30分に車掌区に出勤すると、いきなり助役から「“ひだ”に乗ってもらうで、用意しといてな」と言われました。高山本線の特急「ひだ1号」に乗務予定の専務車掌が何かの事情で乗務できなくなったようでした。 (画像は「ひだ3号」1986年5月1日 尾張一宮で) その行路は 名古屋9:23-(5001Dひだ1号)-高 山12:20 高 山13:24-(5004Dひだ4号)-名古屋16:27 本務2回目の高山本線、そして初めて乗務するキハ80系。高山で折り返して夕方に名古屋まで戻って勤務終了。1日中、車掌区で待機しているよりいいではないですか。まるで一般サラリーマンの定時帰宅みたいな、こんなにいい時間帯の日勤行路など、最下位組の専務車掌には1本もありませんでした。 「ちょっと“しらさぎ”で富山まで行ってよ」と言われれば、仕事がきちんとできる自信が全くないので、たじろぐことになりますが、ローカルな高山本線には、この1か月前に急行「ユーロライナーのりくら」(詳細は「【386】思い出の乗務列車24:臨時急行「ユーロライナーのりくら」(前篇)」で書きました。)で1往復したばかりでした。そのとき停車した駅の信号機や出発反応標識の位置は覚えています。それに予…

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【816】 時刻表にない列車

先々週から国鉄時代の客車列車についてのエピソードなどを書いていますが、その記事に対して、「国鉄時代に乗車した列車に回送車両が連結されていたのを見かけた、または回送車両が連結されている旅客列車に乗車した」というコメントを複数いただきました。私の乗務列車でも回送の例があり、【317】思い出の乗務列車6: 関西本線 223列車(後篇)~夜行寝台編成?で、実例を書いています。こういう回送車両では客扱はせず、施錠され消灯し日除けカーテンが下ろされているのが普通です。 しかし、回送車両が便宜的に客扱をしていたと思われる内容のコメントもいただきました。その該当部分を勝手ながら引用させていただきます。 「昭和48年頃ですが、西鹿児島からの日豊本線上り普通列車に、全検出場の客車(オハ35?)が付いていたことがありました。 ぶどう色ピカピカの車体に屋根はキラキラ輝いていましたが、ブラインドは全て降ろされていて、小学生の目にも回送にみえます。 ところがサボはちゃんと下がっていて、連結幌も繋がっていましたのでドアを開けてみるとガラガラと開きました。 薄暗い車内は、真新しいモケットとニス、塗料の匂いでうっとり?してしまいました。 他には誰も乗っていません。列車は動き出したのでブラインドを開け、緊張しながらすわっておりましたら、途中駅から他の乗客も加わり、巡回してきた車掌さんから咎められることはありませんでした。 確か、都城で切り離されたように思います。 トンネルでも車内灯が点きませんでしたので、本来…

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【814】 急行「越前」号の謎(後篇)

先週の【812】急行「越前」号の謎(前篇)の続きです。 「謎」はすでに前篇にいただいたコメントで解明されていますが、いちおう検証?してみたいと思います(*´▽`*) 小難しい話になりますことを、あらかじめお断りしておきます。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 私が乗った急行越前号は、旧形客車独特の大きなブレーキ緩解音が発車の1分くらい前にあって、すでに近代的な電子音に変わっていた発車ベルが鳴りやむとEF70のホイッスルが鳴り、続いて自動連結器のガクンという大きな衝撃とともに定刻に上野に向けて発車しました。 (画像は当日の撮影ではありません。別の日に田村駅で撮影したEF70です。) EF70の後ろには施錠された回送車のオハフ、その後ろに普通車が4両。続いてグリーン車が2両でそのうち1両は故障したB寝台車の代用、その後にB寝台車、A寝台車、荷物車が各1両ずつで計10両を機関車が引っ張るという編成です。以下の画像は所定編成を示した時刻表(1982年6月号)からの転載画像と所定編成をイメージした模型です。くどいですがあくまでもイメージです、 先週書いた私の推理では、9号車のオハフが回送車になった理由は、途中駅で解錠されて乗客が乗ってくるだろうということになっていました。しかし、結果から言うと、終点の上野まで回送のままで、乗客が乗車してくることはありませんでした。もともと非冷房の車両ですから接客設備上の故障はなかったと思われますし、走行系の故障で…

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【812】 急行「越前」号の謎(前篇)

先日、国鉄時代に福井~上野間に運転されていた急行「越前」の普通車自由席に乗ったことを書きました。今回はその時体験したことを書いてみます。 まず、急行「越前」についてプロフィールを書いておきましょう。 私が乗ったのは1982年7月でした。始発の福井でEF70の1000番台が先頭に連結されていた記憶がありますので、おそらく富山でEF81 に交代して、列車の進行方向が変わる直江津から先はEF62 がけん引し、横川~軽井沢間ではEF63 の補機が連結されたと考えられますが、それらの機関車交代劇について当日確認はしていません。 そのころ首都圏対北陸の夜行列車は、長岡経由の特急「北陸」と急行「能登」(以上2往復は金沢発着)と、長野経由の急行「越前」(福井発着)とがありました。このうち2本の急行「能登」と「越前」はどちらも旧形客車で組成され、AB寝台車とグリーン車、普通車を連結した列車でした。 下は時刻表1982年6月号からの転載画像です。 この3か月半後に上越新幹線が開業した時点で「越前」が廃止され、それまで金沢発着で長岡経由だった「能登」が長野経由に変更されて、その代役を引き受ける形になって、そのときから使用車両が14系客車になりました。 その急行「越前」廃止直前1982年夏の急行「越前」の主な駅の発車時刻(終点は到着時刻)は以下のとおりです。 【下り603列車】 上野20:53⇒高崎22:27⇒長野1:00⇒直江津3:02  ⇒富山4:50⇒金沢6:01⇒福井7:11 …

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【808】 変な忘れ物

列車の中での忘れ物は多いわけですが、宮脇俊三さんは、生前、国鉄時代の東京駅を取材され「東京駅 素顔の24時間」(著書 終着駅は始発駅に収録)という短編を書いておられます。その中から引用させていただくと、東京駅へ取材に行った折の「お忘れ物承り所」で、「なかに入ると、無いものは無いといってよいほど何でもある。人間とはこんなに何でも忘れることができるのかと感心してしまう。」という感想をお持ちになったようです。 私たちも、テレビ番組で、どうしてこんなものが?と思うような忘れ物が紹介されるのを知って驚いたりもします。私も車掌在職中に変な忘れ物に出会ったことがあります。 (以下の画像はJR東海になってから撮影したもので、当日の撮影ではありません。) 国鉄時代のある日、乗務していた東海道本線下りで、大垣から支線に直通する美濃赤坂行。 終点美濃赤坂に着くと無人になった最前部車両の進行左側の荷棚に縦横各30㎝、高さ15㎝くらいの無地の段ボール箱が1個載っているのを見つけました。 途中駅で降りた乗客の忘れ物のようでした。先々月に「【787】美濃赤坂線」の最後のほうで書いたように、終点の美濃赤坂駅は、旅客営業上は無人駅でした。列車はすぐ折り返して大垣行になりますから、忘れ物も折り返して大垣駅に引き継ぐことになります。 その箱は持つととても軽く、何も入っていないようにも感じましたが、粘着テープでしっかりと封がされ、側面にはキリか千枚通しが開けたと思われる小さい穴がたくさん開けられていました。 その様子か…

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【806】 車内の遺失物

列車から降りたお客さんが、「しまった!鞄を忘れてきた」と気が付くと、下車駅で申告しますね。私も小学4年生のころに、母と一緒に出かけた帰り、母の買物袋を持たされて列車に乗った際、うっかり車内の座席にその買物袋を置きっぱなしにしてきてしまい、駅で降りて駅前広場に出て母に言われてから気付いて慌てたことがありました。 あのときは母にこっぴどく叱られ、高学年にもなってあまりにも責任感がないなど責められた挙句に、事後の手続きを全部自分でやるよう言いつけられ、半泣きで駅に捜索依頼に行きました。駅では何両目のどのあたりに乗ったのかを聞かれたのですが、私の場合は意識して機関車の直後の客車に乗りましたし、進行左側中央付近に乗ったことははっきり覚えていましたから、すらすらと答えられました。 重大な失敗をしたその日のことはよく覚えているもので、買物袋の色や柄などの特徴は今でも記憶に残っています。また、当時DD51が主に中央西線の旅客列車用として稲沢第一機関区に非重連タイプ46~50の5両だけが配置され、普通客車列車の一部がDL化された時代でした。その名古屋行き普通列車はDD51 50の牽引だったことも、駅前広場で忘れ物に気付いた直後に、視界から去っていく列車の光景さえも記憶にはっきり残っています。幸い買物袋もその中身も後日戻ってきました。いったん自分の手を離れたものが戻ってきたことで、駅の人だけでなく国鉄のいろんな人の手を煩わせたであろうことは、小学生でもわかり、申し訳ない気持ちと、手元に戻った喜びが同時に湧いてきま…

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【795】 模型…その実車の現役時代(6):キロハ25

タイトルを「模型…その実車の現役時代」として、シリーズ記事の継続という形をとりましたが、、キロハ25が現役だったころのことを私はあまり知りませんので、「看板に偽りあり」とも言える内容です。一応、資料でカバーしましたが、あらかじめご承知おき願います。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ キロハ25は、マイナーな印象の気動車で、キハ55系に属する準急用1・2等座席車として誕生しました。しかし趣味的に見ると興味深い車両で、キハ55系の1エンジン車であるキロ25とキハ26を中央で2つに切ってつなげたような車体でした。1等車の需要があまり多くない線区での使用を想定したものだったと考えられ、その活躍場所は限られていたものと想像します。 製造初年は1958年で、1等室部分が1段窓なのに対し、2等室部分の窓は上段Hゴム固定の2段窓(いわゆるバス窓)になっていますが、1960年以降に増備された後期グループは、2等室部分の窓も1等室同様に1段窓に変更されています。その後期グループはすでに模型化されていますが、増備車の実車を見たことはありませんでした。 先月模型で発売されたのは、1958年製造の2等室部分の窓がバス窓のタイプです。個性的な外観は、小学生だった私の記憶にも残っています。実車を見たのは午後の名古屋駅で、自分が乗る中央西線の下り列車が発車するまでの間に関西本線のホームに停車していました。おそらく急行「かすが」ではなかったかと思います。外部色は、この模型と同じ旧急行…

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【794】 キハ91の模型から実車のディテールを知る

自分が馴染んだ車両の模型を買うことが多い私は、その車両の特徴が表現されていれば納得し、そうでないとがっかりします。3月末にK社から発売された「キハ91系急行きそ8両セット」は、その逆で、模型から実車の特異な部分や、先行試作車と量産試作車の差異を知ることになりました。 「キハ91系急行きそ8両セット」は、馴染んだ車両には違いないのですが、なにぶんにも短命な車両で、廃車後相当年月が経ち、活躍した期間も、自分の小学生~高校生時代であったことで、雑誌に書かれた解説など文章で得られた知識も、実際に見たり乗ったりして納得したわけでもない部分が多い車両でした。 今回製品化されたのは、先行試作車キハ90 1のエンジンと変速機を換装改造したキハ91 9と、量産試作車キハ91 2,3,4,5,6,7に、キサロ90 2を加えた8両です。キサロ90 2は冷房車ですが、製品化されたキハ91は全車非冷房車です。左がキハ91 9です。運転室窓ガラスの独特な形状とともに、上端部は青い色付き。 客用ドア付近の塗装の違いも的確に表現されていました。 ジャンパ連結器はユーザー取付の別パーツでしたが、全体が赤い軟質プラ素材で、あまりに目立ちすぎましたので、ケーブル部分を黒色油性ペンで着色したら落ち着きました。 (密着自動連結器の下に付属する電気連結器パーツは中間車では運転に支障する可能性があるので、キハ91 9には取り付けていません。)屋根上にあるラジエター先端部にある、日本髪でアップにしたような円弧状の飾りグリルの形状も作…

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【792】 撮り鉄12か月…1985年5月「白糸川橋梁・玉川橋梁・伊豆多賀」

毎月1回第1月曜日に、その月に行った撮り鉄の話を、そしてその週の木曜日には、その月に行った乗り鉄の話をアップしています。 今回は、今から32年前の1985年5月17日~18日に東海道本線と伊東線に行ったときのことを振り返ってみます。 ******************** このころはまだ国鉄時代で、私は専務車掌になってからちょうど1年経った頃でした。 根府川駅付近にある白糸川橋梁で、EF66牽引の下り「さくら」 この年3月に行われたダイヤ改正で九州ブルトレ「はやぶさ」へロビーカーが連結されるようになって、それに伴って東海道・山陽本線内の九州ブルトレの牽引機がEF65PFからEF66形に変更されました。今でこそ九州ブルトレの主たる牽引機EF66はあったことに違和感を持つことなどありませんが、それまでEF66は高速貨物用であって定期旅客列車を牽くことになろうとは思っていませんでした。でも同時にブルートレインを牽かせてみたいと誰もが思っていた機関車で、それが現実になったことにはかなりのインパクトがあって、車掌区に何人かいた鉄分多めの人たちの間でも話題になりました。 続いて、EF62牽引の下り荷物列車(荷35)です。 このEF62にしても、この前年に信越本線から東海道・山陽本線の荷物列車用に転用され、これも想定外のできごとでした。このころが荷物列車の最終末期で、編成はマニ44などのパレット輸送が主流になって、貨物列車のようにも見えます。そしてこの翌年11月に荷物列車自体が…

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【787】 美濃赤坂線

「美濃赤坂線」は東海道本線の大垣と美濃赤坂を結ぶ「東海道本線の支線」の通称名です。実際の線路は東海道本線の南荒尾信号場から美濃赤坂までの1.9kmの単線鉄道で、大垣・南荒尾間には別線が設けられているわけではなく、列車は東海道本線そのものを走っています。南荒尾信号場から分岐してすぐのところには荒尾駅があり、1.6㎞先が終点の美濃赤坂です。 高校生時代の私は、中央西線で通学していました。その在学期間中に中央西線と篠ノ井線が全線電化されて、381系しなの号が走り始めました。このとき通学に使うローカル普通列車にも変化があり、新たに神領電車区に配置された中古の113系を使用した東海道本線直通の上り列車が午後に2本新設されました。中津川発14時37分発浜松行と16時31分発美濃赤坂行がそれで、いずれも旅客の流動に対応した直通運転ではなく、、主に日中の中央西線内の快速運用に就いた113系電車を、夕方の通勤時間帯に東海道本線で使用したいという国鉄側の都合のように私は思っていました。 そんなことはどうでもいいのですが、中央西線沿線で「浜松」は通りがいいとしても「美濃赤坂」と言われても、利用者の反応は「それ何処?」というのがふつうでした。駅や車内で「これ名古屋行きますか?」というような会話はよく聞きました。中津川の次に「美乃坂本」という紛らわしい駅名もあることですし、それだけでなく美濃赤坂までの経路にしても、多治見から岐阜までは、名古屋経由のほかに、太多線・高山本線を通る美濃太田経由もありますから、「この…

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【783】 撮り鉄12か月…1974年4月「北陸本線鳩原ループ」

毎月1回第1月曜日に、その月に行った撮り鉄の話を、そしてその週の木曜日には、その月に行った乗り鉄の話をアップしています。 今回は、今から43年前の1974年4月28日に北陸本線のループ線に行ったときのことを振り返ってみます。 「鳩原(はつはら)ループ」とは北陸本線の新疋田~敦賀間の上り線だけにあるループ線の通称です。通るたびに気にしている私のような者もいますが、大半の乗客は気にもかけず通り過ぎていることでしょう。私がこのループ線について詳細を知ったのは、初めて買った「鉄道模型趣味」誌に掲載された「レイアウトがそこにある! 北陸本線敦賀付近のループ線」という現地取材記事でした。すごいところがあるものだと思い、ほかの模型の記事より心を奪われたものです。坂本衛氏が執筆し撮影された記事であることを最近知りました。 この場所に私が赴いたのは、その記事を読んで5年後の高校2年生のときで、高校生の同級生たちと一緒でした。その前年7月に身近な中央西線が電化されてD51が引退し、続いて10月には明知線からC12が引退すると、身近な場所で見られる蒸機は、木曽福島駅と上松駅の入換用として残されたC12だけになっていました。 米原に寄った後、列車で敦賀に降りたち、徒歩で敦賀第二機関区に向かいました。 機関区のわきの上り線をEF70に牽かれた普通列車(226列車)が米原に向けて走って行きます。交流区間に縁がなかった私には、赤い機関車はほんとうに新鮮に感じました。 下り線には、特急「しらさぎ2号」(…

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【780】 中央西線を走った車両10 : キハ91系気動車

1968年10月の全国ダイヤ改正から中央西線・篠ノ井線に予定されていた新形ディーゼル(キハ181系)特急運転開始に先立ち、その1年前の1967年10月のダイヤ改正から、名古屋機関区(→名古屋第一機関区)に配置されたキハ91系を使って、長期にわたる性能試験を兼ねた営業運転が開始されました。 (画像は中央西線末期の撮影:1973.1.21 中津川~落合川) キハ91系という新型車両による営業運転が開始されることは、当時中央西線で貨物列車の車掌をしていた父から聞きました。おそらく所属した車掌区では、乗務する可能性がある専務車掌班には資料が配られたりしたでしょうし、現車による訓練も行われたかもしれませんから、仕事に関係がない貨物列車の車掌にまで新車導入情報が伝わったのでしょう。しかし貨物列車の車掌である父からの情報の内容は正確ではありませんでした。 そこで聞いた内容は「来年から特急が走ることになって、その新車を使った急行が走る」というものでしたから、私は鉄道関係の本で知っていたキハ80系のような特急形車両が一時的に急行として走るのかと思い込んでしまいました。 そのころ私は小学生で、住んでいたのは中津川の隣にある美乃坂本駅から歩いて15分ほどのところでした。時刻は父が教えてくれましたので、休日に自転車でその列車を見に沿線に行きました。  (画像は中央西線末期の撮影:1973.1.27 美乃坂本~恵那) キハ91系を使った急行列車は名古屋を午前中に発車して長野まで一往復するものでした。この…

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【779】 岡多線北野桝塚駅での思い出

先週は、国鉄時代の電車列車の出発合図についてお話しました。 今回は、岡多線の北野桝塚駅のお話です。 国鉄北野桝塚駅は、JR東海を経て現在は愛知環状鉄道の駅で、愛知環状鉄道本社と車両基地の最寄り駅になっています。国鉄時代の岡多線には、70系~113系~165系電車が使用され、113系が走っていた時代に私は3年間ほど、この線に乗務していました。 岡崎から北野桝塚までは単線自動閉そく区間でしたが、ここから当時終点だった新豊田駅までは「通票式」によって運転され、北野桝塚駅長と運転士の間で通票の授受をして運行されていました。 ここからは先週書いたことの再確認ですが、 「①当務駅長―(出発指示合図)→②車掌―(閉扉=出発合図)→③運転士起動」 という流れで、この駅では、この前に通票の授受が加わりました。 ①当務駅長が、運転士と通票の授受をしてから出発信号機の現示と時刻を確認して、発車時刻になると車掌に向かって「片腕を高くあげる」動作で「出発指示合図」を送る。 ②車掌は、その出発指示合図を受けて、自らも出発信号機の現示と時刻を確認して、車掌スイッチを閉位にする。ドアが全部閉まると、車側表示灯の赤色灯が消灯し、前部運転室の「運転士知らせ灯」が点灯する。その点灯が車掌から運転士への「出発合図」とみなされる。 ③運転士が「運転士知らせ灯」の点灯と、出発信号機の現示、時刻を確認し電車を起動させる。 このように運転に関しては、安全確保が徹底しているのですが、乗降客が少ないこ…

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【773】 命がけの実地訓練?

ここは中央西線、鶴舞駅。 私が国鉄の車掌時代、この駅のホームでヒヤッとしたことがありました。 それは夜おそく、153系8両編成の普通列車高蔵寺行に乗務していたときでした。乗降終了後、定刻にドアを閉めたのと同時に、階下の改札から最後部車両に近い階段をホームへ上ってきたオッサンが目に留まりました。そしてドアが閉まったのに列車に向って突進してきました。危ない!と思うと同時に、オッサンは列車の前でピタッと立ち止まり、こんどは体の向きを変えることなく、のけぞるように後方にフラフラよろけながら電車から離れていきました。その足取りからして酩酊状態でした。やれやれと思う間もなく、またピタッと立ち止まって、再び勢いよく電車に向かって直角に、走り寄ってくるとも倒れかかってくるともつかないように両手を前に出して列車に向ってきたのです。とっさに私はブザー合図を乱打(合図の取り消し。この場合、取り消す合図は出発合図)しましたが、ほとんど同時に運転士はノッチを入れており、列車はわずかに動き出しました。酔っぱらい氏はこんどは電車の前でピタッと止まってはくれず、まだほんの低速ながら動きだした状態の電車の車体に両手をつきました。電車は低速ながら動いていますから、手だけが列車の進行方向に持っていかれ、酔っぱらい氏はバランスを崩し、ホーム上に倒れ、そのままゴロゴロとホーム上を2回転くらい列車の進行方向へ転がり、電車も同時くらいに止まりました。 現場に走り寄って、「お客さん大丈夫か!」と寄りかかると、酔っぱらい氏、意外にも…

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【771】 合図の誤認

先週、汽笛合図の記事で、「合図」とは「形、色、音等により、従事員相互間でその相手者に対して、合図者の意思を表示するものをいう。」と書きましたが、機関車牽引列車では、車掌と機関士の間では、車掌が手旗など「形や色」を用い、機関士は汽笛の「音」を用いて相互の意思表示を行うことが多かったわけで、意志は伝わりやすいとは言えませんでしたが、乗務員無線機が併用されるようになって便利になっていきました。電車や気動車では、車内電話やブザーの設備がありましたので、車掌と運転士は車内電鈴合図(ブザー合図)で相互の意思疎通を図ることができました。 以前【553】車掌スイッチの記事で、折り返し時に車掌スイッチを取り扱う場合も、いちいち電話連絡をする必要はなく、「車掌スイッチを閉位にせよ(閉位にした)」という意の「・・」という合図だけで意思疎通が図れました。電話連絡が必要な場合は「電話機にかかれ」という意味の「―・・―」というブザー合図のやり取りをして、お互いが送受話器を取って話をするという手順でした。このほかにもブザー合図の例を挙げると ブザー試験「・・―・・」 ブザー良好「・」 支障あり⇒「・―」 乗降場をはずれた⇒「・・―」 ブザーの取り消し⇒「乱打」 などがありました。 ある日の朝、東海道本線165系8両編成普通列車。 運転士は見習運転士と指導運転士のコンビでした。(画像は分割民営化後の165系。清州駅付近での撮影) 〇〇駅に停車寸前に、ブザー合図がありました。 結果としては「・・―…

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