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zoom RSS 【153】 長野県西部地震があった日「しなの7号 春日井行」

<<   作成日時 : 2011/04/18 06:00   >>

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1984年(昭和59年)9月14日に長野県西部地震が起きました。
震源近くに御嶽山があり、この地震で南側の山体が崩壊したことによって大規模な土石流が発生して地形が変わってしまうほどでした。温泉宿が流されたりして亡くなった方も29人にのぼりました。この人数のなかには、今も大量の土砂の下になっていると思われる行方不明の方々も含まれていると思われます。

この日、私は乗務でした。
画像

1007M「しなの7号」で名古屋から長野
休息のあと1018M「しなの18号」で名古屋
折り返し回1018Mで神領電車区への入出庫線がある春日井まで

その日は神領電車区内にある乗務員宿泊所で泊り
翌日は回1005Mを名古屋まで送り届けて勤務終了

という予定でした。ところが実際にはそうはいきませんでした。

しなの7号の名古屋発時刻は10時ちょうど。車掌区への出勤時刻は9時10分でした。
車掌区へ出勤し、着替えをしているところに地震がきました。
今、ネットで調べてみますと発生時刻は8時48分となっています。そして震源からは離れているとはいえ名古屋地方では震度3でした。

車掌区のテレビで地震情報を見て、この地震が長野県木曽郡王滝村を震源とするM6.8の直下型地震であることや、これから乗務する予定のしなの号が向かう長野県木曽郡木曽福島町(現長野県木曽郡木曽町福島)では震度5(当時は震度5強と5弱に区分されていなかった)であったことがわかりました。

現在、中央西線は名古屋から塩尻の直前までJR東海の管轄となっていますが、国鉄時代の中央西線は、愛知県内と岐阜県内(名古屋〜坂下間)が名古屋鉄道管理局で、その先の長野県内は長野鉄道管理局となっていて、管轄が異なっていました。そのため、運転関係も旅客関係も指令系統が別々となっていて、現場では他の鉄道管理局の様子を迅速に把握することには不自由な思いをしたものです。

しなの7号の車両は、長野から来るしなの2号の折り返しで、9時25分に名古屋に着く予定となっていました。まず、しなの2号が無事に名古屋へ辿り着くのかが問題でしたが、幸い地震発生時に、しなの2号はすでに震源地付近を通過しており、名古屋鉄道管理局内にはいっていたので、地震による運転規制もなく時刻どおりに名古屋へ着きました。

ところが、長野鉄道管理局管内では、地震の影響で列車はストップしていたのでした。
震度5ですから、素人が考えても線路の点検は必要でしょう。異常がなかったとしても、線路点検のため列車は相当時分遅れることが予想されました。しかも管理局が違うので情報はなかなか入りません。車掌長、特改車掌そして専務車掌の私の3人は点呼を受けて名古屋駅ホームに出場しました。車両はいつもどおりにホームに据え付けられて、座席の転換や清掃が行われていました。

ホームに出場した私どもに、さっそく名古屋駅の助役から「1007M着発線変更 多治見駅下り1番線」の通告がありました。
当時は現在のように列車無線が完備していなかったので、運転時刻の変更、着発線の変更など「運転上の変更」の通告はすべて「運転通告券」によって文書で行われました。下の写真はそのときのものです。
画像

長野鉄道管理局内で運転見合わせのため、とりあえず多治見まで運転して、着発線を所定の下り本線から、待避や折り返しに使う副本線である下り1番線に変更し、開通まで抑止ということを意味します。
そこへ「上松〜木曽福島間で鉄橋が30cmズレているらしい」という情報がはいりました。こうなってくるともう「しなの7号」は、まともに運転できるとは思えません。

「しなの7号」の利用客のほとんどが長野県を目的地としています。鉄橋のズレを1時間や2時間で修復できるはずもなく、それがわかっていながら、そのはるか手前の多治見で開通を待つとは現実的でなく、困ったことになったと思いました。すでにお客さんは続々と停車中の列車に乗り込んできます。
新幹線での乗り継ぎのお客さんは地震があったことさえ知っているとは思えません。まして、鉄橋の件など誰も知らないのです。

名古屋駅のホームを長時間占領するわけにもいかないので、定刻に「しなの7号」を名古屋駅から追い出し、多治見まで運転させるという運転指令の判断なのでしょうが、多治見で運転を打ち切るようなことがあると、ほとんどの乗客は名古屋まで戻るしかないと思われます。最初から運転を取りやめてしまえば、お客さんも他経路や他交通機関を使う選択肢が増えるはずです。

車掌長が、地震があったこと、この先に、運転を取りやめている区間があること、とりあえず多治見までは運転をするが、その先はことは不明という内容の放送をしました。車内がざわつきます。

非常に納得のいかない通告に憤りを感じているうち、発車時刻の10:00が迫ってきました。

発車の直前でした。駅の助役が走ってきて「発車チョイ待ち〜」と言ってきました。
ギリギリのところで、再び通告があったのです。その内容は

「1007M春日井以遠運転休止。名古屋〜春日井間回送扱」

事実上の運休の指令でした。前述のように、名古屋駅ホームにこの車両を置いていくわけにはいかないので、お客さんを降ろして回送扱いとして、列車を神領電車区に取り込むという内容でした。春日井には神領電車区の入出庫線があるのです。

お客さんには名古屋駅で全員下車してもらい、車掌長と特改車掌は車掌区へいったん戻り、列車には運転士のほかには、私だけが乗務して、空っぽになった「回送扱 しなの7号春日井行」は少し遅れて名古屋駅を発車したのでした。

<<次回に続きます>>





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コメント(22件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます。
「地震」が発生した日時に運転される列車が偶然にも「しなの7号」だったのですね。
結果的には「運休」となったのですか・・・。
当時の国鉄の「忙しさ」がうかがわれます。
続きも期待しています。
京阪快急3000
2011/04/18 06:56
京阪快急3000様
おはようございます。
コメントありがとうございました。

当時、月に1度のしなの号乗務が、地震の日に当たってしまったんです。
災害時の運転では、乗客の皆さん同様、乗務員も振り回されます。事故現場の状況もわからないまま、途中で運転見合わせになると、今のような良い無線機もない中、乗務員さえ全く状況が把握できないので乗客の皆さんに説明もできなかったのです。
しなの7号
2011/04/18 07:24
しなの7号さん、こんばんは!

大変興味深く拝見しました。災害発生時の鉄道乗務員の方の大変さが凄く良く伝わってきました。

ちょっとビックリだったのは、国鉄の様に広域運用をしている鉄道会社?でも、管理局どうしの情報の共有が昭和59年時点でも出来ていなかったという事です。
この日は発車直前で運休が決まったようですが、もし発車してしまっていたら、困るお客さんが大勢出たでしょうね。


現場の乗務員の皆さんが対応に苦慮されていた様子が良くわかりました。


今だったら地震が発生した時点で、とりあえず発車が延期になりますよね?


長距離列車の場合は、途中まででも走らせるか、運休にするかの判断が難しそうですね。


アルヌー
2011/04/18 17:55
アルヌー様 こんばんは。
いつもコメントいただきありがとうございます。

いつの時代も、長距離列車は現場では扱いにくいところがあろうかと思います。

結果としてお荷物になって、JR化後は他社に渡って運転される列車は減少の一途をたどっていますね。

そんななか、今でも昼行特急唯一3社(JR西、東海、東)にまたがって運転される1往復だけの大阪〜長野間の「しなの9号、16号」は貴重な列車ですよ。
しなの7号
2011/04/18 20:48
この地震があった頃は初任地の駅の運輸係でした。国電区間でしたから、運転取扱いも列車区間より簡略化されていた点も少なからずありましたが、踏切が多い線区のため遮断棒折損の運転通告券交付が頻繁にありました。

大阪〜長野の「しなの」、国鉄当時は大鉄局の明石車掌区の受持ちでびっくりしたことを思い出しました。
TOKYO WEST
2011/04/18 21:04
大変、興味深いお話でありがとうございました。東日本震災で、自分も帰宅難民になった一人。首都圏のJR各線は、終日運休だったのに比べ、大手私鉄は深夜に復旧しました。きっと、あの時も、鉄道会社は大変だったのでしょうね。
ひろ
2011/04/18 21:35
TOKYO WEST様 こんばんは。
おひさしぶりです。

首都圏はじめ東日本の鉄道の関係者の方々は震災以後、大変だと思います。いつもご苦労様です。

踏切の遮断竿の折損は多いですね。またあの踏切か!っていう感じで、同じ踏切でよく折られていました(^_^;)

国鉄時代の「大阪しなの」の乗務区を、よくご存じで。
振り子車の乗務を嫌った大阪車掌区が、神戸車掌区に譲るも、神戸でも嫌がり明石車掌区に落ち着いたと聞いたことがあります。ちょっと意外ですよね。

コメントありがとうございました。
しなの7号
2011/04/18 21:49
ひろ様 こんばんは。
コメントいただきありがとうございました。

規模が大きくなればなるほど、いったんストップしてしまったシステムを復旧するにあたっては、大変だと思います。ただ、国鉄のころと今とでは事故後の対応のマニュアル化が進化しただけでなく、その対応手順もかなり変化しているようにも感じています。
しなの7号
2011/04/18 21:50
しなの7号さん、こんばんは。
こちらは今週は花曇り気味みたいです

長野西部地震、流石に記憶が無いです  あの大山の御嶽山が崩れたのですか・・・相当、大きな地震だったのですね。
当時は列車無線も余り装備していなかったそうで、災害時の情報確認に時間が掛かった苦労が判りました(当時はやはり、鉄道電話や一般電話による連絡だったのでしょうか?)長距離列車ですと、乗車中の列車の終着変更や運休はスケジュールに大きく影響するので、現場の乗客の対応も短距離の普通列車と違い、大変だったと思います (^_^)
hmd
2011/04/18 22:35
 手に汗を握る思いで拝読させていただきました。「えっ、このまま発車してしまったら大変なことに…」そして、発車寸前のどんでん返し。スリルあり過ぎです!続きありとのこと、楽しみのようで怖いです。
 異常時の対応は、鉄道にとって(いや、社会全体かも知れませんが)永遠の課題のように思います。私自身は幸いなことに、大きな災害に巻き込まれずに今日に至っておりますが、2000年9月の東海豪雨に遭遇してしまいました。
 経験したことのない大雨の中、何とか武豊に到着し、もう折り返しは不可能だろうと思っていたら出発信号機が青で、渋々発車しましたが案の定一駅でアウト、無人駅の東成岩で2晩泊まりとなりました。「こんな大雨だから、列車の中で待たせてもらうのが一番安全でいい」とおっしゃるお客様はじめ、本当に平穏な車内でありがたかった思い出があります。
 近郊の列車でもベストな判断はなかなか難しい中、長距離列車ではその何倍、何十倍の苦労があることと思います。
 それにしても、20数年前の出来事を正確に再現されておられ、本当に驚嘆しております。心から鉄道と仕事を愛しておられたことが、ひしひしと伝わって参ります。
くろしお1号
2011/04/18 23:14
hmd様 おはようございます。
いつもコメントいただきありがとうございます。

当時はしなの号も無線機は装備していたものの、乗務員どうしの交信や、駅構内で入換作業にしか使えないものでした。それは沿線での中継基地局がないからで、駅から離れてしまえば、何の役にも立たないものでした。沿線での連絡手段は、線路に沿って数百メートルごとに設けられている沿線電話機でした。ここに端子があって、そこに車載の電話機のコードを差し込み、ぐるぐるハンドルを回すと隣駅のベルが鳴るというものでした。

あの時の地震は直下型で震源が浅かったので地震は広範囲に及ばなかったので、長野県周辺以外の方は記憶にないものと思いますよ。
しなの7号
2011/04/19 07:26
くろしお1号様 
おはようございます。
……あの、続きは期待していただくと困ります。
予告編になりますが、結果的に長野まで行けなかったので、その日の日中は長い空白時間ができたしまったので、どんなことをして過ごしたか(仕事ではないです(^^ゞ)を綴ってみるだけですんで。

東海豪雨のときは武豊線でしたか。武豊線のことを我々は「オタケ」と呼んでましたが、今でも同じでしょうか?

今はワンマン運転が多く、異常時の苦労は大変なことと推察いたします。くろしお1号様も、運転指令と現場、それぞれの判断の違いで、いろいろ困った経験を私などよりもっともっとたくさんお持ちのことと思います。

しかし2晩泊りこみとは、お気の毒この上ないことで、結果論ですが、武豊発時点で抑止していれば結果は大きく違ったことでしょう。

コメントありがとうございました。
しなの7号
2011/04/19 07:31
ご無沙汰いたしておりますがブログは全て拝見いたしております。
さて、乗務員様の運用表?の回1018Mで春日井まで乗務します。そして神領で宿泊ですね。確かに春日井〜神領間に電車区に入るポイントがありますが、本線も1部ですが通りますね。そして神領まで乗務はなさったのでしょう。常に思うのですがこういう場合の表示がどうして斜めの線になるのだろうかということです。回1018Mで神領まで行くには違いないから春日井は不要なように思えてなりません。そういう決まりだと云われますと返す言葉がございませんが。特に機関車の運用ですと斜め線の駅間は線路上を走らないのか、とでも言いたくなります。くだらない質問にもならない疑問ですみません。返事を急ぐ必要はありません。部外者のたわごとですのでもし差支えなかったらお言葉をお願いいたします。
北恵那デ2
2011/04/19 22:48
北恵那デ2様
おはようございます。
ご覧いただきましてありがとうございます。

自分はこうした運用、仕業、行路の表に携わったことはありませんので、作表上のルールは知りません。

ただ、ひとつ、「春日井〜神領間に電車区に入るポイントがありますが、本線も一部通る」ということについてですが、入出区線のポイントまでの「本線」は「春日井駅構内」ということなのです。構内の運転ですから入換運転であって列車ではありません。春日井駅には入換信号機なるものが設置され、その場合は入換信号機の現示によって入換車両を運転士単独で、車掌や操車掛による誘導なしに移動できるのです。一般に停車場の境界はどこからどこまでかといいますと、「場内信号機から場内信号機」とされており、下り方と上り方の2つの場内信号機に囲まれた範囲を「停車場の場内」と定義しています。場内信号機の外方に分岐器がある場合などは「停車場区域標」なるものがその位置に設置されています。その場合は、その区域標までが停車場内となります。
春日井駅の場合も停車場外の本線上に出ることなく、駅構内から直接神領車両区へ出入りすることになっているので、車掌の乗務は不要。春日井から神領までは構内運転の「車両」であるので、もし、その間に事故があっても車掌には何の責任もありません。
ブログ上の表のように、逆に回1005Mで乗務開始のときは、そういう入換車両に乗るのではなく、神領から春日井まで事前に本線を走る列車の便乗で春日井へ行くことになっていて、「乗り遅れないように待機していろ」という意味があるものと思われます。これには勤務時間の計算上組合との決めごとなどがありそうですが、詳細は存じません。おわかりいただけたでしょうか。

しなの7号
2011/04/20 07:58
部外者のくだらない突っ込みに回答いただきありがとうございました。まずもってやはり本線に出ないという扱いになるということですか。構内入替えということで車掌業務は不要と、だとすると回送列車の本線走行中は車掌が必要ということ。後部の防備にあたるということですか。また回1005Mの方はそういうことですか。なるほど奥が深いものですね。
北恵那デ2
2011/04/20 22:27
北恵那デ2様
おはようございます。
そんなことです。一般的に、列車として具備すべき条件として「車掌の乗務」が必要となるわけです。
「列車」の規定上の定義は「停車場外を運転する目的で組成された車両」です。
駅構内を移動する場合はどんなに長くても「車両列」に過ぎないわけですね。
現在は、無線機ほか保安装置の充実完備によって、回送列車も含め、車掌が省略できる場合がかなり増えました。
しなの7号
2011/04/21 06:42
僕の地元でも鳥取西部地震の時は伯備線特急やくもは全て運休しましたね

振り子車を嫌う車掌さも確かにおらますね!やくも場所は岡山、米子車掌区の二区で受けもっいます。電化当初は乗り物酔いを訴える車掌さんが増えて、波動車掌長、波動乗客客専務に降りる人が有りましたよ!しかし国鉄時代の大阪〜長野間のしなのに明石車掌区が受け持ちだったとは驚きでした!
野良太郎
2012/02/12 22:02
野良太郎様
381系電車が導入されるまで、乗務員の乗り物酔いが問題になるということはなかっただろうと思います。
私どもの職場でも、酔う方は居られましたし、私も不安で、最初のうちは酔い止め薬を服用して乗務しました。
しなの7号
2012/02/13 06:20
お邪魔しますF

以前の日本食堂のバイト時代に急病になった先輩のお姉さまの替わりに急遽やくもの車販に乗務した時の出来事です!その日は見習い乗客専務さんが車掌長と一緒に行動されてました、所が新見に到着した時点で見習い専務さんの姿が無い事に気付き、車掌長にコーヒーを出しながら聞いみると乗り物酔いになり、仕事に成らないから、お客様のいなかった先頭の車両で寝かしとるぞとの事!僕はやれやれと思い、氷水で冷したタオルと冷たいお茶を持って車販に出たついでに先頭車両に行ってみると、完全、顔面蒼白で座席に寝てました!僕は額に冷しタオル乗せてあげて、お茶を置いて引き返しました。岡山到着の前にその見習い専務さんがふらふらしながらグリーン車の車掌室に戻ってきて、車掌長に誤っおられました!チーフは優しく肩を叩きながらワシも電化当初は苦しんだよ!身体が慣ればなんてことないぞ、頑張って乗務しろや!と言っていました!
その時の見習い専務さんは今では米子車掌区の古株の車掌になっており、僕の数少ない酒飲み友達です!二人でたまに酒を飲むと、その時の事が笑い話に成りますよ!
野良太郎
2012/03/04 20:16
野良太郎様 
381系に乗り物酔いは付き物ですね。車内を行ったり来たり、車内改札したりというのがいけないのでしょうか。車内販売員様も同様だと思いますが…

はじめて伯備線(115系)に乗りに行った時に、乗客のオバサンが「特急は酔うからいや。だから普通列車か高速バスを使うよ」と言ってました。昔は「バスは酔うからいやだ」というのが常識だったのに、世の中変わったもんだと思ったことでした。
しなの7号
2012/03/04 20:34
ご無沙汰しております。
その日私は偶然にも1003Mに乗務しておりました。地震発生時刻は恵那を過ぎたあたりでしょうか。運転中は何の異変を感じることなく中津川へ到着しました。
いつもは出発信号機には進行信号が現示されているのに停止信号であり、「何かあったな?」という思いはありました。
駅係員から「さっき大きな地震があったけど気づかなかった?」と聞かれ、「木曽で地震が発生したため抑止!」との口頭通告を受けました。
ホーム事務室で状況を確認している最中にも、余震と思われる大きな揺れに肝を冷やした覚えがあります。
その後、復旧までには時間を要する事が判明、松本・長野方面へは名古屋に戻って東京経由で向かうよう、列車乗務員さん達は案内に追われていましたが、私は運転室に残って次の指示を待っておりました。
全ての乗客が降りて空になった1003Mは、神領へ回送する事が決まり、運転通告券を受け取ってトボトボと神電に入区。
(当日の1001M乗務員は木曽福島から中津川までタクシーを利用して帰還)
開通後も、木曽福島機関区で折り返しの休憩や仮眠で滞在中は、突然の大きな余震に襲われ、飛び起きた経験も鮮明に思い出されます。
地震の話からは逸れますが、「しなの」乗務で一番思い出深いのは、寝覚の床と御嶽山の車窓案内でした。全て運転士ではありませんが、倉本駅までに時間を稼いで可能な限り徐行運転で車窓案内に協力していました。殺伐とした職場環境でしたが、自分としては乗客目線で運転操作を含めてサービスの向上に努めたつもりです。
私は民営化を待たずに退職しましたのから今年で35年になりますが、貴ブログを拝見させて頂くと、まるで昨日の事のように記憶が甦ります。これからも楽しみにしております。
神電運転士
2016/05/23 08:38
神電運転士様 こんにちは。
臨時の「きそ」でご一緒したと思えば、地震の日は2本まえの「しなの」の乗務でしたか。乗務日誌を突き合わせると、きっと何回も前後で仕事してそうですね。

2012年の年末でしたが、私がNHKラジオに国鉄時代の車掌長氏による「寝覚めの床の車窓案内」の録音音源を投稿したところ、番組で採用され、私も電話で出演したことがありました。

【347】NHKラジオ「みんなでつくる音の風景」番組HPご案内
http://shinano7gou.at.webry.info/201301/article_4.html

その出演打ち合わせの際に、担当者の方が「放送の中に、《運転士さんのご厚意により徐行しております。》っていうところ、あれがよかったですよ。」と、おっしゃっていました。「お客さんからリクエストがあるで、徐行お願い」と、運転室へお願いに行くチーフもいて、(運転士さんも聞いてるだろうから)感謝の意を込めての放送でした。逆に運転士さんが徐行してくれてるのに放送しないチーフもいた。
(投稿した音源は今はアップされていません)
しなの7号
2016/05/23 14:49

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【153】 長野県西部地震があった日「しなの7号 春日井行」 昭和の鉄道員ブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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