【621】 思い出の乗務列車51:中央西線・篠ノ井線夜行急行「きそ」801・802列車(後篇)

中央西線下り801列車「きそ6号」に連結された荷物車マニの使命は長野県内あての朝刊(名古屋印刷分)と急送品の輸送でした。
(画像は、上り802列車の方です。)
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朝刊輸送の詳細については、急行紀州5号の記事
【319】 思い出の乗務列車7:キニ併結 急行「紀州5号」(1)
http://shinano7gou.at.webry.info/201210/article_3.html
【321】 思い出の乗務列車8:キニ併結 急行「紀州5号」(2)
http://shinano7gou.at.webry.info/201210/article_5.html
【323】 思い出の乗務列車9:キニ併結 急行「紀州5号」(3)
http://shinano7gou.at.webry.info/201210/article_7.html
【325】 思い出の乗務列車10:キニ併結 急行「紀州5号」(4)
http://shinano7gou.at.webry.info/201210/article_9.html

のなかで以前に公開しましたので、今回は省略とします。下り801列車「きそ6号」にはマニとスユニが連結されていたわけですが、私どもの乗務車両はマニのほうで、前述のように車掌長(荷扱)又は専務車掌(荷扱)と、車掌補(荷扱)又は乗務掛(荷扱)の2人乗務でした。スユニのほうの郵便室には鉄道郵便局員が乗務し、荷物室のほうは無人の状態で、締切輸送とされ、長野着中継の一般荷物が積み込まれていました。下り「きそ6号」のマニが下り「紀州5号」のキニと違うのは、一般の急送品の割合が多かったことでした。荷物積載方を比較してみます。
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「きそ6号」長荷22マニ積載方…新聞紙及び急送品
「紀州5号」名13キニ積載方…①新聞紙 ②名局発新宮までの映画用フィルム及び血液

明らかに「紀州5号」のほうは新聞以外の荷物を厳しく制限しています。これは、新聞紙の絶対数が紀州5号のほうがかなり多かったことによると思われます。
この801列車で取り扱った新聞は、木曽地方向けの割合が多かったようで、それより先の地域は東京印刷の割合が大きかったのでしょう。このほかに名古屋印刷朝刊の松本・長野方面向けの輸送は、801列車の直前を走っていたもう一本の夜行急行電車の座席に積んで輸送していたようですが、混雑する時期には座席数確保のため、「きそ6号」長荷22に振替えていました。そういう時期にハマると取り扱う個数はどっと増えることになりました。

この列車の積載方で、新聞紙と並んで指定された「急送品」とは「野菜類・果実類・苗木・生花・血液(精液類)・動物・鮮肉・鳥卵・活鮮魚介類(乾魚を除く)・かまぼこ類・映画(写)フィルム・ドライアイス・酵母類・貴重品・報道用原稿類」を指しています。

このため、801列車長荷22荷物室内では、生き物の割合が大きくて、荷物室内では犬が吠えたり、小さな穴がたくさん開けられた段ボール箱からヒヨコの大合唱が聞こえたりしました。

ある日、実験用なのか大量のモルモットが積まれ、いろんな生き物の臭気も混ざって、乗務しているうちに体中が痒くなったことがありました。朝、長野に着いたころは痒みの絶頂で、さっそく乗務員宿泊所の大浴場で丹念に頭から足の先まで洗い流して着替えると、うそのように治りました。あれは動物の排泄物か何かのアレルギー反応だったのかもしれないと思っています。

以前の荷5043列車の記事でも書きましたが、冬場に乗務員室が非常に寒かったので灯油ストーブ運用がありました。この801列車では、名古屋を出て最初に停まる千種駅のホーム上にあった鉄製の保管ボックスの中に入っている灯油ストーブを、1分停車の間に取りに行って使用しました。
ストーブを焚いても、冬場は木曽に入ると寒さは尋常でなく、隙間風が入らないように粘着テープや新聞紙を使って窓枠や扉の戸袋のところなどに目張りをしても効果はほとんどありませんでした。雪が降っていないときでも、線路上に積もっている雪を前の車両が巻き上げて、細かい雪が隙間から舞い込んで、外から冷やされた窓ガラス内側にそのまま融けることなく張り付きました。着用した軍手で、それをふき取ろうとしても窓は凍りついていて、それはできませんでした。そんなことをして窓に顔を近づけると、吹き込む雪の細かい粒は、顔ををチクチク刺激しました。そのころ東海道本線ではマニ50が新製され始めた時期でしたので、南トメの運用では当たることがあったのですが、まだ長野に配置されておらず、中央西線では茶色の旧形客車ばかりが運用されている時期でした。隙間風に関しては茶色のマニ36や60と、新型の青いマニ50とでは雲泥の差でした。

未明の木曽福島駅で下り801列車と上り802列車が行き違うダイヤになっていました。勤務ローテーションでの1日違いの乗務員どうしが対面するのです。夏場だと山間の駅のひんやりした空気はすがすがしく、停車時間が長くかつ荷物の取扱が少ない上り802列車の場合はホームに降りて801列車の新聞がドサドサと卸されるところを冷やかし半分に見に行くことがありました。しかし冬場ですと寒いので、乗務員室から手を振るだけです。駅員に「今日は寒いね」というと「15度(もちろん氷点下)だよ。」などと言われ、木曽の寒さを改めて思い知るようなこともありました。
(画像は名古屋駅停車中の801列車)
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ところで、芯上下式の灯油ストーブは、点火したら最強にして乗務員室内の中央部に置きますが、時として真っ黒な黒煙と煤を出すストーブに当たることがありました。運用されていたストーブは白っぽい色の同型の市販品でしたが、その白っぽい色が黒っぽく変色したストーブがそれでした。点火してしばらくは異常がないのですが、振動が激しい車内での使用など製品の想定外でしょうから、不意に黒煙が乗務員室に立ち上ることがありました。あわてていったん消火してしばらくして点火するとまた異常なく燃焼しました。
千種で持ってきたストーブを見て、2人で「今日は大丈夫かな? これは汚れてるから心配だなあ」などと言い合っていますと、もう一人が「このまえ、2人とも居眠りしてて目が覚めたら、真っ暗だったし臭いので何事かと思ったら、ストーブの煙が乗務員室に充満していたんだって」などと言います。深夜ですし停車駅も少ない列車ですから、居眠りくらいはすることがありました。停車駅とその前後でドタバタするだけで、走行中にやる仕事などほとんどありません。運転関係は客車のほうに乗っている車掌長(客扱)の仕事で、車掌でない身というのは、そういう点では気楽なものでした。しかし煙が充満して真っ暗とは大げさだなあ、居眠りどころか熟睡だわなあと思って聞いていました。

私がそれを経験したのは、下り801列車で松本を朝の4時すぎに発車してからのことでした。途中運転停車が1か所あったものの、それはまったく荷扱には関係がないので、次の停車駅篠ノ井駅まで1時間以上も何もすることがなく、かつ一番眠い時間帯でした。寝込んでしまい咳き込んで目を覚ますと、真っ暗でぼんやりと天井の蛍光灯が見えるような状況になっていました。ストーブからはモクモクと黒煙が湧きだしており「うわぁ」と叫んであわてて消火。もう一人もすぐ目を覚まし、寒い中、窓を全開にしました。手で顔を触ると手に真っ黒な煤が付きますし、鼻の穴も真っ黒になっていました。車内はもちろん座席も壁面も手で触れば手が黒く汚れました。
(画像はもちろん再現のため加工したものです。)
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何分程度寝入ってしまったのかはわかりませんが、数分の間のことだと思われました。以後、ストーブだけでなく長ナノのマニも室内が黒っぽく薄汚れた車両に時々出会うことがあり、私だけでなく結構な頻度で不完全燃焼があったものと思われました。ここでも長野の乗務員宿泊所の風呂の世話になりました。髪に触れただけでも手が黒くなるような状態でしたから、蒸気機関車の乗務員は毎日こんな汚れ方だったのだろうと思いました。

ストーブの運用はこういうもので、帰路の802列車では中津川駅停車中に給油済のストーブと交換しました。
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跨線橋の下に保管庫があり、給油済のストーブが2~3台置かれていました。煤で汚れていないストーブを選んで持ってきますが、この列車で使うのは千種までなので短時間です。千種ではホームの保管箱に入れておくと、その夜に名古屋を出る801列車の乗務員が一晩使います。千種には予備のストーブはないので、調子が悪いストーブを置いておくと801列車の乗務員に恨まれる結果となりました。

最後に、この急行1往復の車両ナンバーは控えていませんので、車掌になってから熱田~名古屋間の小運転荷物列車に乗務したときの記録をご披露しておきます。時が過ぎると車両も少しずつ変わっていき、パレット輸送用のマニ44が登場し、スユニ50・マニ50といった新型が主流になっていくのがわかります。

1981年8月6日 
東海道本線 荷2047列車
運転区間  熱田~名古屋
乗務区間  熱田22:46~名古屋22:54

DD13 312(稲一)
マ ニ36 2133 名ナコ 名荷22(回送) 
マ ニ60 2042 名ナコ 名荷24(回送)
ワ キ8964    名ナコ 名荷251(回送)
マ ニ36 2228 長ナノ 長荷21(回送)
オ ユ10 2567 長ナノ 長郵20(回送)
マ ニ60 2073 名ナコ 名荷1(回送)
スユニ61  102 天リウ 天郵3(回送)
マ ニ36 2233 名ナコ 名荷21(回送) 
マ ニ60 2041 長ナノ 長荷22●
スユニ50 2029 長ナノ 長郵21●

●印を付した後部2両が名古屋から801列車に継送されました。
私が801・802列車に乗っていたころから2年以上経っています。中央西線で使用されていたスユニ60・61はスユニ50に置き換えられていました。そしてさらに2年少々先には…

1984年4月17日
東海道本線 荷2040列車
運転区間 名古屋~熱田
乗務区間 名古屋7:12~熱田7:21

 DD51 749(稲一)
 マ ニ50 2204 名ナコ 臨名荷2
 マ ニ44 2029 名ナコ 名荷201(回送)
 マ ニ50 2224 名ナコ 名荷21(回送)
 マ ニ36 2136 名ナコ 名荷23(回送)
MRマニ36 2149 名ナコ 名荷22(回送) 
 マ ニ50 2028 長ナノ 長荷21●
 マ ニ50 2242 長ナノ 長荷22●

※名荷203マニ1欠 臨名荷2マニ1名荷201前増結
※「マニ36 2149」に冠した「MR」はオハ50系客車併結用として元空気ダメ管引き通し改造車の表記

●印を付した後部2両が、802列車からの継承車でしたが、スユニの運用がなくなり、2両とも新しいマニ50になっています。郵便車はこの時すでに中央西線の郵便輸送から撤退していたのでしょう。改造とは言っても車体はほぼ新製だったスユニ50は実に短命に終わりました。また、マニの荷扱作業員のほうも、この時点ではすでに業務委託化されていました。そのため荷物車(扱車)を連結した列車に乗るときは、車掌が業託作業員の乗務確認をするようになっています。

画像は客車が12系に代わり、寝台車が連結されなくなった後の専務車掌(客扱)用802列車の抜粋カードの一部です。右上に、荷扱業託作業員の乗務確認をすべきことが書かれています。
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私はこの列車が12系化された少しあとに、普通車掌から専務車掌(客扱)になりましたが、乗務の機会がないまま、列車自体が廃止されました。

荷扱作業の業託化が始まる前は、専務車掌(荷扱)を経てから専務車掌(客扱)になるのが、ここの車掌区の一般的なコースでしたが、私は短絡ルートで専務車掌(荷扱)を経験せずに「客扱」になりました。つまり荷扱要員の定員は、私が車掌補(荷扱)から列車掛の試験に合格して転勤になったあとに縮小されたということです。荷物業務から離れる際に、貸与されていた荷物中継方の資料などは、「どうせ車掌になってこの車掌区に戻るんだろうから、数年先に専務車掌(荷扱)になったときに使えばよいから、返却はしなくていい」との指導助役の判断で手元に遺させてもらったのですが、結果として使う機会はなくなり、今もあるというわけです。もっとも、そのころは横浜羽沢駅開業直前で、それに伴う大合理化が控えていた時期だったので、荷物関係の規定が大きく変わるとともに、定員もかなり減ることが確定的でしたので、古い資料は返却不要ということだったのだろうと今になって思います。

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この記事へのコメント

  • なはっ子

    まるでかつての鉄道映画を見るような思いで拝見しました。以前一言ご紹介した東宝の映画「喜劇各駅停車」は機関士を森繁久弥、助手を三木のり平が演じていました。一度劇化されたことがあり、パンフレットを買ったら、森繁の顔とエリに巻いたタオルはススで黒くなっていて、蒸気時代に思いを馳せたことを思い出しました。しなの7号様のご経験にも同じような感慨を抱いております。
    2015年09月07日 17:17
  • しなの7号

    なはっ子様 こんにちは。
    毎度のことで、稚拙な表現で申し訳ありませんが、荷物輸送自体の情報そのものが少ない中、その現場の裏話的なことをお伝えしたいと思い続けています。

    本日も用があって駅に参りましたが、小ぎれいな窓口カウンターに響く、旅客指令からの、これまたきれいな言葉づかいの業務連絡。 40年近く前のあのころの鉄道とは別物だなあと思ったことです。その間に常識も価値観も変わり、別の次元でのご苦労がおありのことでしょうね。
    2015年09月07日 19:07
  • あさしお3号

    石油ストーブの運用表なんてのがあるんですねww。
    初めて知りました。
    私は昭和53年生まれ、旧型客車は山陰本線の普通列車でDD51に牽かれて走ってるのをかろうじて覚えてる程度。
    古き良き国鉄時代のお話をありがとうございました。
    2015年09月07日 22:43
  • NAO

    しなの7号様、こんばんは。
    急行電車が新聞輸送を行っていたのですか。いくら空いていても万一何かのはずみでたくさんの乗車があったら困るでしょうね。
    命懸け?のストーブですね。しかし、亀山-奈良間の弁当箱といい、中津川-千種間のストーブといい、車両や乗務員以外の行路のやりくりと言いますかスジを引くのも大変ですね。
    2015年09月07日 23:36
  • 急行おが1号

    おはようございます。
    私もストーブの運用表なんてあるんだ、とても興味深く拝見しました。
    ストーブも立派な乗務員ということですね。
    でもこのような運用表があるからこそ、紛失したり所定の場所になかったりというような「事故」が防げるのですね。

    ストーブもまさか揺れる荷物列車内で使われるとは思っていなかったでしょうから、耐震装置が働いて、ときどき黒煙を吐いたりしたのでしょうか。

    しなの7号様の荷物列車乗務のお話は、とても興味深く楽しみです。1冊の本にされたらいいのに、と思うことが多々あります。
    2015年09月08日 08:24
  • しなの7号

    あさしお3号様 おはようございます。
    鉄道では何でも運用があります。サボ、座席カバー寝台用品、荷物パレット、貨車の緊締ロープ、乗務員無線機などなど。
    昭和の50年代生まれの方々におかれましては、社会に出られるまえの時代背景、すなわち国鉄があったころの常識や価値観が理解しにくいと思います。実は私もそうです。就職する以前の昭和、戦中戦後の復興期の無知さは、お恥ずかしい限りです。 
    昭和50年代の時代背景が拙ブログで表現できていないので、ともすると事の善悪に対しあらぬ誤解をされ、価値観の相違にご理解いただけないことに対する恐れを感じています。この点、どうかご容赦くださいますようお願いいたします。昭和50年代に、大赤字の国鉄が分割民営化に進んでいくときの40年前の時代背景と平成バブル以降とは、あまりに日本が変わりすぎていることを感じます。
    2015年09月08日 10:47
  • しなの7号

    NAO様 おはようございます。
    電車による朝刊の便宜輸送は、量的に最後部2~3ボックス程度だったと記憶しますから、クモニの増結には至りませんでした。こうした輸送は特に夕刊で今でも行われていますが、高校生のころの高森線の混合列車で、最前のボックスに陣取ったところ、荷物を積むからと、移動させられたことがあります。
    いちばん大変なのが、乗務員の割り振りをする車掌区の助役で、これは今後永久に変わらないと思います。
    2015年09月08日 10:48
  • しなの7号

    急行おが1号様 おはようございます。
    あさしお3号様への返しコメントに書いたように、いろんなことの運用が決められていました。いっしょになったストーブがヘソを曲げ黒煙を出すとエライ目に遭うわけで、そういう意味でも複数乗務の場合の相性と同じかもしれません。
    現行の耐震基準のストーブなら、振動ですぐ消火してしまい使い物にならないように思います。列車火災の危険性が指摘されるところですが、火元責任者は専務車掌(荷扱)で、乗務員室には当然消火器が設置されていました。寒いので芯を全開にしてしまうことがよくなかったのでしょうが、とにかく深夜の旧形客車のデッキと大差ない環境の乗務員室ではやむを得ないことでした。
    2015年09月08日 10:48
  • うさお

    いつも荷物車のお話ありがとうございます。
    ストーブなくては寒くて業務出来ないほどというのは作業能率に関わりますね。荷物パレットにも運用があったのですね。郵便局のロールパレットは運用なんてなくて全国あちこちトラックに乗って行っていたかと思います。
    夏場の茶マニは隙間があるゆえに風は入ってきたんでしょうね。マニ50は気密性が高くて蒸し風呂っぽい感じがしますが。
    2015年09月10日 20:34
  • TOKYO WEST

    昇職や昇班の過程で荷扱専務を経験させるのは、東京でも同じようで、東京車掌区の場合は汐留支区、上野車掌区の場合は隅田川支区へ一旦異動していたようです。私の先輩も最初は嫌々だったのが、仕事に慣れてくると面白みを見出したとのことです。
    2015年09月10日 23:33
  • しなの7号

    うさお様
    乗務員室のストーブ有無にかかわらず、作業する荷物室内は冬は冷蔵庫、夏は蒸し風呂でした。
    新聞列車では始発駅発前後に作業が集中しますので、そのときだけは冬でも汗をかくわけですが、あとは駅に着くたびに荷物室で作業するだけですから、停車駅が少ない深夜の急行では、乗務員室で過ごす時間が多く、深夜に寒冷地を走行するときは夏でも薄着ですと隙間風が気になるくらい冷えました。形式を問わず、荷物が多い時と降雨時は夏でも荷物室は窓を開けられず蒸し風呂。乗務員室は夏場の暑い時期に窓を全開するとよいですが、走らないことには換気にならず、形式に関係なく各駅停車より急行荷物列車のほうが涼しく思ったものですが、専務車掌席だけは、書状や受授証など書類を扱いますから窓を全開するわけにもいきませんでした。マニ50のよさは夏場より断然冬場に感じました。
    2015年09月11日 11:34
  • しなの7号

    TOKYO WEST様
    専務車掌になって長距離乗務をするにあたっては、カレチの前にニレチを経験することは、あらかじめその線区に慣れるため必要ということでしょうかね。ほとんどの若いニレチ氏は腰掛状態で短期間でカレチに移っていかれましたが、荷扱のほうがいいとニレチに残る方もおいでになりました。
    2015年09月11日 11:41
  • 北恵那デ2

    おはようございます。何から何まで運用があるのは興味深い話です(笑)。本文記事にあるDD13牽引では蒸気暖房も電気暖房も効きませんが短区間だったからまだしも、東海道でEF62牽引の荷物列車を故障代替でEF65が牽いたことがあったとのこと。しかも真冬にもあったらしいのですが、ストーブにも臨時運用が組まれたのかもしれないですね。暖房車はその時代にはもうありませんし。
    2015年09月12日 09:42
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんにちは。
    サボ運用の範疇ですが、ボンネット形特急電車の先頭ヘッドマークの運用なんかもありました。特に愛称名が多種にわたる上野口はおもしろく、取付、取外し、回送もありました。
    人件費もかかり大変なんだなあと、いまさら思ったりします。
    中央西線のストーブ運用がいつまであったのか、マニ50登場後もあったのかも含めわかりません。
    EF62が東海道に現れたころは、私は荷物列車に乗っていませんでしたが、荷物車は締切車とパレット輸送車が主流で乗務員数は最低限でした。車両も気密性の良いマニ50だし暖房なしで我慢だったのではないかと思いますよ。
    2015年09月12日 13:17
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    前篇に続き、こちらに書かせていただきます。
    801・802列車とも、スユニ(長郵21)が連結されており、郵便車時刻表(58・3)によれば、郵政の便名は801列車が「名長下二号」、802列車が「名長上二号」で、59・2改正で廃止されましたが、53・10前後から輸送状況は変わりなかったものと思われます。名古屋塩尻間のの受渡駅は多治見、中津川、木曽福島に限られ、中津川局は局員、逓送員が出向くことなく駅代行受渡としており、朝の名長下一号(荷5041列車)受渡のついでに、801列車、802列車から駅が受け取り保管した郵袋を持ち帰ったようです。逆に驚くのは木曽福島局で、中津川局よりもさらに扱い数が少ないわりには、両列車が行き違いでほぼ同時に発着する間に宿直局員が出向いて受渡していました。このあたりが、駅着で完結する小荷物との違いでしょうか。
    2021年01月13日 00:46
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    木曽福島で上下の夜行列車が行違うダイヤは郵便局にとって好都合だったことでしょう。
    時刻表復刻版昭和25年10月号と昭和31年12月号を紐解いてみました。その両方に夜行「きそ」の前身となる無名の準急があり、上下列車が行違うのはやはり木曽福島駅でした。そのころの時刻表時刻欄には「〒」の表示があり、昭和25年10月号の凡例では「郵便車連結列車」、昭和31年12月号では「ポスト備付主要列車」となっており、戦後まもなく名古屋・長野間に夜行列車が設定されたときから、この列車が郵便輸送の使命を持っており、木曽福島で行違うダイヤが長く続けられていたのだろうと思われます。この駅ではこの時刻に、乗降客と鉄道関係者、新聞店員、駅弁業者、タクシー、郵便受渡しの局員などが駅に集結し、シーズンには御嶽山や上高地へ向かうバスの接続があったと思われます。静かな深夜の山峡の駅がほんの一時活気付くときで、木曽福島で上下列車が行違うことはいろんな意味で合理的であったことでしょう。
    2021年01月13日 20:53
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    801・802列車の前身が夜行準急で、時刻表に郵便車連結が示されていたそうですから、ずいぶんと伝統があり、木曽福島で行き違いするのがダイヤ上の「たまたま」に過ぎないと思っていましたが、午前2時過ぎの都会でもない駅でそんなにぎわいがあったとは、驚くばかりです。当時の木曽福島局の規模から想像して、深夜勤務で郵便物処理するほどの数量はなさそうですが、上下便と同時に受渡できるメリットから局員を派遣したのでしょう。もし上下発着時刻が1時間以上開いていたなら、駅代行受渡をしていたかと推測します。
    当時の時刻表には弁当マークがあるのでこの時間に販売しても売れたでしょう。(さすがに駅そばやキヨスクは閉店したかもしれませんが) 
    路線図に周遊指定地への濃飛バス路線が示されており、土曜休日のみ5:20発で田の原行があり、これなど登山客向けではないでしょうか。その他の方向にも朝から続々出発しており、みんな待合室にリュックを並べて時間待ちしたかもしれませんね。今回拝読して思いもしなかった同駅の姿を知りました。
    2021年01月14日 00:10
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    木曽福島で上下の夜行「きそ」が行違うのは午前2時台でした。たまたま家にある昭和48年10月号の木曽福島接続のバス時刻欄には3:10上高地行(8月21日改正時刻)があり、明らかに「きそ」接続ダイヤと考えられます。5:20田ノ原行(休日運転・8月17日改正時刻)もあり、こちらは約2時間後に大阪から到着する「ちくま」も受けるダイヤだと読み取れます。さらに同じ5時20分発上高地行も設定されており、上高地行は「きそ」「ちくま」それぞれに1便ずつ設定されるほど需要があったということなのでしょう。
    田ノ原まで行く「おんたけ交通」のバス路線では、過去に途中の御岳王滝まで荷物の連絡運輸があったことが、就職当時の資料から読み取れます。(荷5043列車(前篇)に掲載)
    同じように深夜に木曽福島で取り降ろされた郵袋の中にも、さらに周辺の集配局へ旅を続ける郵便物があったのでしょうから、数は少なくても山峡の村で午前中に配達するためには「きそ」での郵便扱いは意味のあることだったのではないかとも想像します。山に囲まれた険しい地理的な要因からなのでしょうけれど、長野県内の集配局数は今でも他県に比べると多いようですね。
    2021年01月14日 20:10
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    なるほど、周遊指定地を重点に示されている全国版時刻表よりも早朝発登山バスが多くあったことがわかります。先の各路線の手前ページに3:10発の上高地行が休日限定であり、確かに「きそ」接続ですね。上高地と言えばどうしても松本電鉄(現アルピコ)で入り込むイメージが強いですが早朝から勝負の登山には木曽福島乗換が適していそうです。
    さて、当時の郵便番号3けた、5けたの集配局を見ますと、長野県39地域のうち、塩尻以西では、木曽福島局(397)から枝分かれした自動車便線路に三岳(397-01)~王滝(397-02)と開田(397-03)がありますが、それ以外は塩尻(399-07)~山口(399-51)・神坂(399-52)まで、「399-××」という数珠つなぎとなっていて、全国的に「9-××」は鉄道便受渡局を指す原則通り、名長便(中央西線)で受渡した局順に振られています。その中で397を名乗る木曽福島と周辺の枝番3局は「ぼくたちは家族です」と言っているかのようです。おそらく、木曽福島局は午前2時台の両便と名長下一号(荷5041列車)到着郵袋を合わせて処理して周辺3局宛を差し立てて自動車便で各局に輸送して当日配達したものと思われます。王滝まで小荷物連絡運輸があったことから、郵袋も時間帯によって小個数であるなら、バス託送があったかもしれません。いまの時代、こういった山間部の各地で路線バスによる郵便物託送が客貨混載事業として復活しつつあります。
    2021年01月15日 00:24
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    木曽福島局(397)から枝分かれした3つの局があったんですね。このうち三岳・王滝方面には、昭和50年まで木曽福島の隣町上松から王滝森林鉄道が通じていたのをご存じかと思います。(さらに遡ると三岳村から分岐して開田村へ向かう森林軌道もあったそうです。)その撮影のため高校生のころに王滝までバスに乗ったことがありますが、荷物や郵便が載っていたかどうかまでは気にしていませんでした。ところで、王滝森林鉄道では運材列車のほかに上松から沿線住民が乗れる客車列車「みやま」が運転されており、その列車には貨車も連結されていました。郵便車はなかったようですが、家にある書籍「思い出の木曽森林鉄道」には、貨車から生活物資を取り降ろしている写真が載っており、キャプションに「滝越地区では、生活物資は上松や田島から定期旅客列車で運ばれてくる。旅客列車に乗ってきた郵便屋さんも荷物降ろしを手伝う」とありました。事実上の荷物車であり、田島は王滝の中心に近い停車場。滝越は王滝村最奥にある集落でした。王滝局員が午前中の森林鉄道旅客列車の田島~滝越間に乗車し、滝越集落で配達をして郵便ポストで郵便物の回収をして午後の列車で局に戻っていたのだとすると、客貨混載同様、末端区間の鉄道利用ということになるでしょう。
    2021年01月15日 20:03
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    木曽福島局つながりの3つの局が森林鉄道で結ばれていたということは、各町村が林業で形成され、集配郵便局が必要とされたと見てよろしいでしょう。
    森林鉄道のほか、兵庫県「一円電車」のような鉱山関連軌道にも従業員と家族が生活で移動するために客車列車があり、物資輸送の貨車が連結されていました。郵便局員の配達同乗も各地であったようで、その現代版が飯田線列車を利用する配達区域ですね。また、郵便局が軌道事務所に会社、従業員向けの郵便物をまとめて配達すると、そこから先は事務所が現場や社宅宛てに仕分けして生活物資や新聞ともどもトロッコで配ったところもありました。
    王滝森林鉄道の全盛期は、木曽福島局と周辺3局で林業関係の郵便物が多く扱われたと思われ、「きそ」上下列車が同時発着したという理由以外に、局員が深夜に受渡するだけの重要性があったと感じられます。
    ところで、乗務された801列車マニ(長荷22)は、急送品と木曽方面新聞であったとのことですが、802列車マニ(名荷23)で特に積載方の指定があったならご教示下さい
    2021年01月15日 22:28
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    生活インフラはどの分野でも末端に行くほど趣味的にもそそられることが多いものですね。人が住んでいる限り、既存の交通手段を有効に使うことは大切なことで、公共性の維持と費用対効果の折り合いから編み出された知恵が生かされる分野です。

    50.3での802列車の積載方指定は単純で、

    名荷23マニ(上沼垂)長野~名古屋
    1 荷物。ただし小野以遠着は急送品に限る
    2 新潟局管内発は名古屋着中継荷物(車掌室反対寄区分積載)
    (上沼垂~新津~東三条~長岡~柏崎~直江津~高田~新井~二本木~関山~妙高高原~豊野~長野間締切)

    長郵21スユニ長野~名古屋
     ユ室 郵便
     ニ室 名古屋着中継荷物
       (長野~松本~塩尻~名古屋間締切)

    ということですが、その後北長野基地と熱田基地それぞれの開業時に積載方が一部変更されたあと、53.10では大きく変わりました。詳細は省きますが、名荷23マニは締切化され熱田着中継荷物に特化。それまで締切だったスユニのニ室が扱車となって中間駅着中継となる荷物と熱田基地に移行しなかった一部の名古屋着の特殊荷物を取り扱うようになりました。
    2021年01月16日 20:00
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    802列車荷扱いが53・10で大きく変化していることがわかりますが、熱田中継荷物の比率が多くを占めていたと想像できます。
    スユニの郵便室は801、802列車の名古屋長野間とも、名長扱便でしたが、同区間の夜行で、最も郵便物が集まりそうな割りには半室であるのが物足りなく、全室オユ10を昼行荷物列車(中津川以北普通列車)に使っていたのと逆にできなかったものかと、はた目には疑問を感じていました。
    ただ、荷物車の輸送量がマニ+スユニ半室で適量だったとすれば、マニ×2+オユ10に置き換えると1両増えて牽引定数の関係から旅客車の両数を減車とか、影響が出そうです。
    2021年01月17日 02:03
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    中央西線から郵便車が撤退したあとの801・802列車ともにマニ2両が運用されていたということは、その時点でも新聞輸送以外にも荷物需要がそこそこあり、マニ1両では不足したのでしょう。前編で書いたように、EF64時代になってからは牽引定数に余裕ができたものと思いますが、電化前のDLやSL時代にはきつい牽引定数の下での運転だったのではないでしょうか。
    オユの運用は長野・名古屋1往復(荷5044~荷5041)だったのに対し、スユニは名古屋到着後に名塩便で1往復してから長野に戻る運用(802~荷5043~荷5042~801)だったと思いますので、単純にオユとスユニの連結列車を変えるとオユが不足しそうです。
    2021年01月17日 20:26
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    801・802列車をEF64が牽く限りは、マニ2両+オユでもよかったようです。ただ、名塩便に続く運用であるなら、2往復がオユになり、郵政としては、輸送力過剰、国鉄支払い増加、と考えてしまうので、二の足を踏んだかもしれません。
    荷物車に比べて積載方の制約が少ない郵便車ではありますが、特に郵便物が多かったであろう801列車(名長下二号)を調べますと、何でも好きに積んで…とはいかず、下記の制約を設けており、これにより半室で乗り切ったと言えなくもありません。
    ★中津川駅代行渡しは10個以内とする
    (しかも通常郵袋に限る)
    ★名古屋から多治見までの小包締切郵袋を積載しない
    あと、「山口上松間各局宛郵便物は木曽福島局宛に送付する」とあり、801列車が通過する各局を木曽福島局に渡した上で、荷5042列車(名塩上便)にて逆送する措置が取られていました。ここでも木曽福島局の受渡で鉄道便相互を仲介する役割を担ってもらったと考えられます。
    2021年01月18日 00:04
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    801列車では限られた輸送力を対信州方面優先として夜行のメリットを損なわないようにしていたのですね。荷物車のほうも「新聞紙及び急送品」に限定した積載方指定にしているのは、おそらく急送品以外は翌朝の荷5041列車に回せという意味合いだと考えます。
    郵便で木曽福島局が国鉄線の分岐駅所在地でもないのに鉄道便の仲介役をしていたこと、通過駅への逆送があったということは意外でした。量的にはかなり少なかったでしょうが、逆送に使う上り荷5042列車では、下り荷5041列車より到着が遅くなってしまう結果となりますね。
    2021年01月18日 20:49
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    荷物車ごとの積載方では、当該車両の使命が明確に読み取れます。郵便車は、荷物車ほど個々に規定はしませんが、各便ごとの使命というのはあって、明文化されなくても乗って作業していれば、自分たちが何をするためにこの車両で仕事しているかがわかりますし、結束表と具体的積載方、積載禁止制限を付き合わせれば、外からでも便ごとの使命はわかろうというものです。
    その点で、名長下二号(801列車)の使命は明確で、「名古屋に夜までに集まった長野県宛通常郵便物を翌朝に届ける」と決めて差し支えないでしょう。対多治見、中津川のために走らせているのではない、とでも言わんばかりの積載制限ですし、中津川の時刻の但し書きが「代着」のみで、「代渡」と記載がないことから、降ろすのは10個まで可能ながら、長野県へ向けての積み込みはしないということを示します。と言っても、夕刻に集まった土岐坂下間の長野県宛郵便物はどうしても翌朝の下一号(荷5041列車)になってしまうので、あるいは上一号(荷5044列車)に積み込み、下二号長野県宛てに差し立てて、多治見又は名古屋で結束したのではないかと想像しています。この点で、郵便車は区間重複や逆送をしても国鉄への支払いが増えるわけではないので、自由にできます。
    また、名古屋から多治見への小包に至っては下り二号に積む必要性はなく、翌朝の下一号(全室オユ)又は自動車便に回すのが当然と思えます。
    あと、山口上松間各局宛郵便物も、長野県が集中積載される下二号の車中では少量でも出てきますので木曽福島局を介して名塩上便に渡す結束方でしたが、確かに翌日の下一号の方が到着が早いので、名古屋中央局や名古屋鉄郵では、当該区間宛の郵便物、締切郵袋は極力、翌日の下一号に積載したと考えています。
    2021年01月19日 01:32
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    国鉄でも53.10以降は拠点駅から逆方向を含む自動車中継となる例が各地でできたわけですが、つい就職時の国鉄荷物方式で考えてしまう固い頭ですので、木曽福島の逆送を奇異に思ってしまいました。言われてみれば郵便番号で管理しているからには、県境を挟む木曽福島~中津川間は、おのずとそういう結果になることが理解できました。荷5042列車で、午前中に山口局までの各郵便局に届けられるダイヤなのですね。少ない列車と限られた空間をきめ細かく無駄なく最大限に使っておられるという印象です。
    2021年01月19日 20:50
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    国鉄荷物方式による自動車中継拠点駅の設定の仕方が郵政とは違っていたかと思われますが、大型・小包郵便物の分配局(拠点局)は都道府県・郵便番号2けたごとに徹底していましたから、例えば山口局管内宛ての小包が多治見、中津川あたりで差し出されれば名長便乗務員に渡され坂下駅で降ろされたかもしれませんが、名古屋中央局や西日本各地からですと、塩尻分局(のちに松本南局)まで送付されて再区分され、そこから大幅な逆戻りをしたわけでして、全国的にこれが当たり前でした。
    一方で、普通郵便物を含む車中扱いで、他の鉄道便への結束は府県境には一切こだわらず、ダイヤ上で都合がよい駅、しかも鉄道郵便局、分局がある駅を介する場合が多く、塩尻、中津川よりも小規模と言える木曽福島局を介した事例は珍しいほうです。
    59・2で郵便輸送がなくなった中央西線でも小荷物扱い駅は集約されたかもしれませんが、愛知県内は名古屋、岐阜県内は中津川、田立以北はすべて松本に集約されたのではないか、と考えるのが郵政的な感覚となります。
    2021年01月19日 21:42
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    鉄道屋の感覚としては、乗車券同様に物流も「最短距離で」となってしまいます。「荷物及び荷物車は、次の各号を除いて最短距離で輸送しなければならない」という原則が規定され、除くという「次の各号」の大まかな内容は、輸送経路の指定がある区間、自地区内のローカルルールによるとき、積換回数の減少や速達できる迂回ルートがあるときなどでした。しかし53.10で全国規模で始まった拠点駅への集約化によってそれが崩れていったと見ることができます。古いままの原則に固執していては実態に合わず時代遅れになってきたと言えるのではないでしょうか。
    2021年01月20日 20:50
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    鉄道屋さんが「最短距離で」であるなら郵便屋は「運びやすい経路で」となります。つまりは、便数、車室面積を比較して、輸送力が大きい経路を原則としますから、例えば豊橋から辰野以遠、岡谷方面は、名古屋、塩尻経由が大原則でした。飯田線が70kmほど短いのですが、クハユニ車(1/4室)が1日2便では、名古屋経由と輸送量が違い過ぎ、全国的にも同様の事例が多かったところです。逆に、小荷物の豊橋対辰野以遠は全室荷物電車も連結された飯田線だったかと思われますが…。また、拠点駅集約化が進めば、郵便物2けた区分局と同じく、遠回り、逆送的な輸送が増えていったはずです。
    2021年01月20日 23:36
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    昨日の当方のコメントの中で
    “乗車券同様に物流も「最短距離で」”
    のくだりは「通過駅への逆送」に着目したコメントとして捉えてください。片道乗車券には原則として復乗はなく、特定の分岐駅での復乗には特例を制定して対処しているのと同様に、荷物にも原則逆送はないという考え方です。言葉足らずでした。

    なお、飯田線を例示していただいたわけですが、複数経路がある場合の経路選択についても荷物の「最短距離で」の原則は変わりません。ただし飯田線の輸送力は小さいですから原則どおりにいきません。原則から外れる場合は個々に「輸送上特に必要な輸送経路」が規定され、飯田線は東海道本線対中央東線相互間を結ぶ経路から外されていました。その規定の内容は

    東海道本線天竜川・幸田間各駅
    二俣線遠江二俣・金指・三ケ日
       ↑
    (名古屋経由)
       ↓
    中央本線信濃境・小野間(辰野を除く)各駅

    というものでした。その経路指定に基づいて、東海道本線上下列車に乗務しているとき豊橋で中継される範囲は
    「飯田線各駅(天竜川~幸田間各駅と辰野駅相互発着を含む)」
    となり、辰野駅以外の中央東線各駅は飯田線経由に含みませんでした。一応、指定された区間のうち最西端になる幸田から辰野までの当時のキロ程を調べてみると、飯田線経由が最短になり220.9㎞、中央西線経由だと240.3㎞もありました。

    このように規定上から見ていけば「最短距離で」が原則となっていますが、原則どおりにならない経路は全国に散在し、昨日は大まかな内容にとどめて書きましたが「次の各号を除いて」の範疇にあたります。実態に合わせて個々にこうした除外規定を作っていくと、結果として郵便輸送と似た部分が出てくることもあるということでしょうか。
    2021年01月21日 20:14
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    小荷物輸送の最短距離という原則が、必要以上の複乗(逆送)をしない、ということを理解しました。一方で、飯田線経由か名古屋経由かの考え方は郵政に近いものと感じます。本線どうしを短絡するローカル線が近道だからといって、輸送力が細ければ本線短絡の積載は控えて線内輸送を優先すべきでしょう。
    802列車のスユニ「名長上二号」に話を戻しますが、下り二号ほど、あれ積むなこれ積むなという制限は明記されていません。おそらく上り二号のほうが積載数が少なめで、主に長野県で夜までに集まった岐阜県(多治見坂下間)以西宛郵便物を送り届けるのが使命だったと思われます。早朝の中津川は局から来ず駅代行でしたが受渡ともあり、多治見局は逓送トラック委託で受渡していましたが、両局とも深夜にわたり多くの郵便物が出回るとは考えられず数量は少なめだったかと推測します。名荷23マニ車で中津川、多治見の積み降ろしは多くあったでしょうか。
    2021年01月21日 22:07
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    802列車に連結されていた名荷23は前に書いたように上沼垂始発で、長野(のちに北長野)では長時間滞留する運用でしたので、新潟・長野県内で集荷された荷物を深夜のうちに中京圏へ輸送し翌日着荷させるのが主な使命だと考えられます。速達性が求められる名古屋着の貴重品や新聞原稿、放映用フィルムなども少量ながらあったかと。50.3時点で、すでに長野県内地方紙の朝刊輸送はトラックに移行していたと思われ、日刊新聞紙輸送はありませんでした。塩尻を出れば主要幹線が分岐する駅は終点までないので、以後の各停車駅での積卸個数は少なく、深夜の車内作業は停車駅前後の短時間で済み、801>802でした。荷物積載方の内容も、801列車では急送品に限られていたのに程よく荷物量があったのに対し、802列車ではそういう制限がなかったことから考えても、荷物の流通量は下りが多く上りが少ない傾向があったことが窺い知れます。それでも、地方から都市部へ向かう荷物は、農産物の収穫期に荷物量が急増することがありましたから、輸送力不足となった場合に、802列車は日中の先行列車の積み残し荷物の受け皿になったとも思えます。
    2021年01月22日 20:04
  • 鉄道郵便車保存会 会長

    しなの7号様 
    やはり中央西線でも下りのブツ量が多く、801>802となるのは郵便物でも同じだったようです。国内全般にその傾向があり、小包を運んだ空の郵袋を例えば岡山局から大阪小包局へまとめて回送していました。ただ、農産物で逆向けの小包はさほど発生せず、お餅やそうめんといった乾物にとどまったのが小荷物との違いでしょうか。
    802列車の荷物車が中京圏に翌日届ける使命があったのと同様に、「名長上二号」は、名古屋で「東門下五号+下五護送」(荷41列車・後の荷2031列車)、「東門上三号+東岡上護送」(荷36列車)、「名和下一号」(荷4041~125列車)に幅広く結束したので、東海地区一帯への郵便物が当日配達可能な範囲だったかと思われます。
    2021年01月23日 01:57
  • しなの7号

    鉄道郵便車保存会 会長様
    片道輸送が基本となる物流の世界では、上りと下りで輸送量や輸送品目が異なり、効率よい輸送をするには知恵を絞らなければならないですね。名古屋から関西・紀勢本線の新聞輸送で使われた紀州5号のキニが、折返しの上り列車では荷扱をせずに回送になっていたことも、上下列車の輸送量の違いを表している一例かもしれません。紀勢本線と違って、中央西線は名古屋対新潟県直江津以東の荷物の輸送経路でしたので、中央西線沿線に大都市がなく、下りより少ない荷物流通量であったとしても、上りきそ802列車の荷物車の存在意義はあったと考えられます。
    2021年01月23日 20:55

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