【624】 北恵那鉄道20:車両5「デ1形」

先週に引き続いて、北恵那鉄道の車両について、私が知っていることを書いていこうと思います。今回は開業時から廃線時まで在籍したデ1形です。
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【デ1形(2)】
デ1形は、北恵那鉄道が開業した時に4両新製された2軸木造電動車(デ1・2・3・5)でした。このうちデ2が廃止までの長きにわたり在籍した唯一の車両でした。
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他の3両は1964年に名鉄からモ561~564が入線したことによって廃車されたということです。そのうちデ3の古い写真が北恵那鉄道創立50周年記念乗車券に使用されています。
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記念乗車券にある開業当時のデ3の姿と、廃止時点のデ2の姿を見比べると、似ても似つかぬ風貌で同じ車両とは思えません。これは個体差ではなく、この形式は、全車とも戦時中に新たな木製車体を新製して載せ換えており、さらにその後に足回りも名古屋市交通局の路面電車のボギー台車に履き替え、実質的には新製時とは別物に近くなっているのでした。その載せ換えられた車体は自社工場製で、他の鉄道に類形を見ないスタイルは、名鉄資本が入る前の北恵那のオリジナリティが醸し出されていました。

私が知っているのは、最後まで残っていたデ2だけでしたが、モ560形が名鉄から入線した後の用途は中津町駅での入換専用で、旅客営業に供されることはなく、乗ることはもちろんのこと、本線上で撮影することも叶いませんでした。しかしいつでも中津町に行くと停まっているデ2は、存在感がありました。日中の列車がバス代行とされてから、動きがなくなった構内で、静寂を破り、不意にコンプレッサの音が構内に響いたりして、まちがいなく生きている鉄道であることを感じたものです。また列車が運転されていない日中でも入換作業はありましたし、国鉄中津川駅で列車待ちをしていると、連絡線を通って、連絡運輸の貨車を押して国鉄駅へ現れることもありました。
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国鉄のワム80000より1m少々長いだけの小型の車体でありながら、低いギア比を用いて、勾配のきつい本線で貨車も牽引していたこの車両は、入換用には向いていたものと思われました。
私が知らない時代はポール集電でしたが、のちにZパンタに変えられています。発表されている何枚もの写真に添えられた撮影時期から判断すると、その時期は1962~1963年の間のようです。1963年には木曽川橋梁の嵩上げ工事が行われ、長期間バスによる代行輸送が行われたという記録がありますから、その間にZパンタ化を行ったとも考えられます。そのZパンタですが、私が写したデ2の写真では、中津町寄に載っているものと下付知寄に載っているものとがあります。
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直前の画像は廃止の日の撮影で、その上の画像は1971年(昭和46年)の撮影ですから、7年の間に、車体の向きが変わっているのです。北恵那鉄道に転車台はありませんし、いわゆる三角線のように向きが変わるような配線もありませんから、クレーンで吊り上げて180°回転させるしか手がないはずです。この疑問は車庫の人に質問して解明できました。その方法とは…

答は意外なところにありました。
国鉄の中津川機関区の転車台で回転させ、向きを変えたということなのでした。
国鉄中津川駅の構内で、北恵那鉄道との貨車の連絡運輸のため直流600Vの架線が張られていたのは、北恵那鉄道との貨車受け渡しに使われるごく一部分の線路だけでしたから、機関区の転車台まで自走することはできません。おそらく国鉄との連絡線から入換用のC12に連結されて機関区構内にある転車台まで連れて行かれたのでしょう。それを裏付けるように、中津川機関区のC1269とデ2が連結されている画像が、ネット上にアップされています。

車庫の人によれば、そこまでして向きを転向する理由は、線形の関係でどうしても車輪が片側だけ摩耗するから、車体ごと左右反転させて車輪の片減りを修正するとのことでした。そう言われてみれば、中津町駅構内は全体がカーブしています。いつもそこで重い貨車を牽いたり押したりの入換作業専用に使用されていれば、そんなこともあるかなと自分なりに納得をしました。
《2015.9.17追記》
「北恵那デ2様」から、方向転換の理由について、「木造車であるため南側ばかりが陽に当たっていると、永い間に車体が変形してしまうので、それを緩和するためというのがあったように思う」とのご指摘をいただきました。たしかにそのような説明があったと記憶します。


また、最末期には、デ2のヘッドライトが変えられていることにも気が付きました。
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(左が古い画像)
このことについての理由などは知らないのですが、他車の廃車発生品だったのでしょうか。

鉄道廃止後は、中津町駅跡から陸送で中津川市内にある「夜明けの森」へ移送され、屋根付きの車庫を作ってもらって保存されていましたが、破損が進み維持が困難となってきたことと、保存場所に鉱物博物館を建設することが決まったために1996年に惜しくも解体されています。保存されているころの画像は、日を改めてアップします。




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この記事へのコメント

  • NAO

    私鉄車両が貨車を引いたり推したり。昔の写真では特に地方鉄道でしばしば見かけますが、ここでもそうだったのですね。
    国鉄構内で私鉄電車の方転。回転手数料は必要だったのでしょうか、ちょっと気になります。
    2015年09月17日 07:17
  • しなの7号

    NAO様 
    この鉄道が建設された主目的が国有林の材木輸送であったのに、長く北恵那鉄道では機関車を所有しませんでした。名鉄資本になってからの昭和38年に初めて電気機関車の譲渡を受けていますが、専ら入換専用だったようで、最後まで本線の貨物は電車が牽く混合列車によっていました。

    役所的でもあり取引先でもある国鉄とは、どのような関係にあり、方転に当たってどのような契約が結ばれていたか謎です。
    2015年09月17日 10:17
  • やくも3号

    こんにちは。
    車が80台も駐車できる立派な鉱物博物館ができるのなら、なおさらここで引き継いで保存してほしかったですね。ジャンルが違うからゴミ→廃棄、という流れこそ役所的で残念な気がします。
    2015年09月17日 12:50
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    解体が決まった当時、現場に行きましたが、状態はよくありませんでした。上屋があったとは言っても、鉄の塊であるSLと違って木造車は劣化が激しいですので、人の目が常に届く場所で管理しないと、恒久的な保存は困難でしょう。
    おっしゃるように、それまで無人の地だった場所にそうした施設ができたことによって、管理体制を作ることは可能だったはずですから、解体修理してリニューアル保存という選択肢もあってよかったと思います。

    「最初の形がそのまま残っていないことが残念。破損がひどく、現時点で電車の車体そのものが何年大丈夫だろうか。今後の維持・保存についても十分検討したが、経費の面からも難しく、撤去もやむを得ないの結論に達しました」というのが市教委社会教育課のコメントでした。(当時の新聞記事より転載)
    2015年09月17日 14:19
  • 北恵那デ2

    こんばんは。月曜日の記事よりもこちらの記事に対しては、若干コメントが少ないようですが、ファンの方々にもシャイでコメントなさらない方も多数いらっしゃるものと思います。貴重な中小私鉄の歴史を物語る記事を連載されていらっしゃいますことに絶賛の拍手をお贈りいたしたいと思います。といったところでこのデ2の方向転換の理由ですが、私がもう一つ記憶しておりますのが、特に木造車であるため南側ばかりが陽に当たっていると、永い間に車体が変形してしまうので、それを緩和するためというのがあったように思いますが。
    2015年09月17日 21:14
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    お褒めいただきありがとうございます。
    木曜日の記事は、常に閲覧数が少ないです。こういうローカル私鉄の話は、ブログでなくきちんと専用サイトを立ち上げるべきかもしれませんね。

    方向転換の理由、言われてみればそうでした。木造車体ですから工場があって陽が当たらない方の車体側面は木が湿って腐ってきたでしょう。いつもフォローありがとうございます。年月が重なると、言われないと思いださないことが出てきます。そのうちに言われても思い出せないようになるのがコワイです(^_^;)
    本文にも追記しておきます。
    2015年09月17日 21:45

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