【724】 北恵那鉄道30:「北恵那鉄道と国鉄下呂線」

国鉄下呂線は、中央本線の中津川と高山本線の下呂を結ぶ予定で計画され、昭和30年代には工事線に指定されましたが、開通することはありませんでした。
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画像は、何の脈絡もない「道の駅」の画像です。画面左は「加子母」、右は「花街道付知」で、どちらも、国鉄下呂線の敷設が計画されていた区間に並行する国道257号線沿いにある道の駅です。しかし国鉄下呂線は工事着工には至らず、測量や地質調査が行われただけで、鉄道の駅が建設されることはありませんでした。北恵那鉄道の終点は「下付知」で、国鉄下呂線のルートと重なります。国鉄湖西線に対する旧江若鉄道のような関係になるわけですから、北恵那鉄道線は国鉄下呂線建設と引き換えに廃止される運命にあったわけです。

国鉄下呂線の位置づけは、単なるローカル線でなく、地形が険しく複線化が困難な高山本線のバイパス線として、飛騨と中京地区を結ぶ連絡通過線でありました。完成していれば、現在の智頭急行線のような使われ方がされたのでしょう。また、建設中のリニア中央新幹線で関東、関西圏からも飛騨方面へのアクセス路線として活用することができたのかもしれません。

山陽新幹線の新大阪・岡山間が開業した1972年(昭和47年)3月、そのころ一般に鉄道に対する関心が高かったからか、中日新聞の岐阜版に、県内の国鉄線について各線ごとの現状や課題を書いた「ローカル線報告」という記事が連載されました。その連載の最終回は、当時未成線になっていた国鉄岡多線と国鉄下呂線が取り上げられました。
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※上は中日新聞岐阜版「ローカル線報告」最終回の転載画像です。
それを読むと、過疎地域に列車が走るようになれば村に人が戻ってくるだろうという沿線自治体の首長の言葉とともに、国道257号線の整備のほうが先決だという声もチラホラ聞こえるという内容が書かれていました。

その後、昭和49年度に国鉄下呂線の工事費として1億円が配分されて、着工の見通しが立ったと新聞報道されました。
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※上は昭和49年4月21日付け中日新聞記事の転載画像です。その中では、「中津川から下付知までほぼ並行する北恵那鉄道の買収、あるいは補償交渉などの問題が残されている。」とされていました。

この年4月30日付の中津川市の市議会だよりには、北恵那鉄道の写真と国鉄下呂線計画略図が1面に掲載されました。
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※上は昭和49年4月30日付け市議会だより中津川の1面転載画像です。
それを読むと、北恵那鉄道が、これまで生活、経済、文化の進展に貢献してきた功績は大きいと前置きしたうえで、国鉄下呂線着工が決まった喜びと早期完成にむけて猛運動を続けなければならないとされています。

翌年には北恵那鉄道の延長部分となる付知~下呂間の工事計画が認可されました。
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※上は昭和50年3月11日付け中日新聞記事の転載画像です。
その内容は、付知~下呂間に4駅が設置され、加子母トンネル6470mなど数か所のトンネルが建設され、当面単線非電化ながら将来的には電化して高速運転が可能なように半径800m以上として幹線規格で建設されるとされていました。国鉄下呂線ルート上にあたる北恵那鉄道重複部分については、このとき工事認可は下りておらず、北恵那鉄道を廃止して大幅に造り変える方針になっていました。
昭和50年といいますと、北恵那鉄道はすでに日中の運転を休止して朝晩だけの運転になっていたころでしたから、沿線自治体も早く決着をつけて国鉄下呂線全線での着工するよう後押しする姿勢だったと思われます。このときの新聞報道によると、国鉄下呂線の完成見込は昭和56年度と書かれています。

私の推測にすぎないことですが、北恵那鉄道にしてみれば、国鉄下呂線建設のための用地買収や営業補償による収入を期待できる立場にありますから、国鉄の経営が傾いてなく、すんなりと国鉄下呂線の工事が進んでいれば、もっと早く廃止に踏み切る結果となったのでしょう。実際には工事はその後一向に進まない状況でしたから、国鉄下呂線は実現しないと判断し、昭和53年の段階で大赤字の北恵那鉄道線をこのまま無理に延命させる意味を無くして廃止を決断したのではないかと思うわけです。
廃止となったその昭和53年になると、6月に沿線市町の廃線同意を取り付け、7月には名古屋陸運局へ廃止許可申請提出。8月には廃止認可。そして、翌9月18日に廃止と、流れるような勢いで、鉄道事業からの撤退劇は進んでいったのでした。
北恵那鉄道廃止の理由は自動車の普及と道路の改良によって乗客が自動車へ流れたことに間違いがないのですが、命脈尽きかけた鉄道の廃止時期の決定に当たっては、国鉄財政問題がかなり影響したものと私は思います。
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画像は、北恵那鉄道跡地の遊歩道です。場所は栗本駅付近で、並行する付知川には水泳場があって、夏場は多くの人でにぎわったものです。そんなことがあったのが夢のように静かで、訪れる人もない北恵那鉄道の廃線跡は、自らの意志と関係なく周りの事情に翻弄されて命を終えていった人の墓標を見ているように感じます。廃線後40年近くも経過して、廃止になった事情どころか、その鉄道自体の存在さえ地元の人に忘れ去られて、この世の習いで、いつかは墓参に訪れる者もなくなって、朽ち果ててしまうときが来るのでしょう。

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この記事へのコメント

  • こがね しろがね

    しなの7号さま、こんにちは。下呂線とは懐かしい響きです。北恵那鉄道が当時の国鉄を取り巻く状況を睨みながら、廃止のタイミングを図っていたかも知れないとの考え方は十分あり得ると思います。日中の運行が無くなりそのまま廃止かと思われながら、数年間延命できたのは、最近になってまた引き合いに出されることの多い田中角栄の影響かとも考えます。1968年の赤字83線廃止政策で、国鉄が地方線廃止を進めていた矢先に田中政権誕生で真逆の地方線建設政策が始まり、そのタイミングが下呂線の工事線昇格だったのかと。国鉄線建設に期待して営業していたかと思われる地方民鉄の末期は、寿都鉄道や北丹鉄道など厳しかったようです。国鉄再建問題で地方線廃止と建設中止が表に出る前の時期にもう下呂線建設は無いと判断したのか、あるいは線路や車両などの設備が持ちこたえられなくなったのか、それとも自治体を説得してバス輸送の体制を整える期間に数年かかったのか、理由はいろいろと考えられます。それにしても廃止に至る段取りとその早さには驚きます。現在は法律もあり、早い段階から沿線自治体や住民に説明会などをする必要もあります。バス代替には車両や乗務員など準備に一年はかかるでしょうし、株主でもある沿線自治体の方が早く進めることを望んでいたのかもしれません。今と違っていろんな事業があったとはいえ、職種を変えざるを得なかった社員の方々のご苦労がしのばれます。

    下呂線と中津川線ができていれば中津川駅はジャンクションとして現在とは違うと顔の駅になっていたことでしょうが、採算が合うとも思えず、造ること自体が目的化していたような…。採算が合わないリニアや北海道新幹線の建設もそうでしょうし、東京五輪や豊洲市場もそんなに結果に終わりそうな気がします。
    2016年09月22日 08:24
  • しなの7号

    こがね しろがね様 こんにちは。
    時代背景とともに、私が書けなかったことを解説していただきありがとうございました。廃止から遡ること7年、1971年あたりには廃止の方針が打ち出されており、その時点で地元とは話し合いの場がすでに持たれていたものと思います。その結果が、日中の運行をバスに移行させ、いちおう鉄道は存続ということであって、すでに廃止は時間の問題とされていて、国鉄下呂線建設の動向も見つつ問題を先延ばししたように思います。あとはタイミングの問題で、そのとき一気に廃線を後押しする動きが何かあったのではないでしょうか。
    造ること自体が目的というのは、かつての鉄建公団の存在がまさにそうでしたが、日本では数十年経ってもそういう体質が変わっていないみたいですね。
    2016年09月22日 10:46
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんにちは
    下呂線は昔、地図を見ていたとき予定せんの表示で知っていた程度です。
    ググると北恵那鉄道線敷地をそのまま転用するような記載がありました。
    付知町として積極的に下呂線を推進していくのと裏腹
    付知町内で北恵那と同じように用地買収に猛反対があったらしいです。
    沿線住人の廃止要望で配線に追い込まれた若松市営軌道を思い出しました。
    2016年09月22日 12:52
  • 門鉄局

     しなの7号様、こんにちは。
    幻の下呂線を当時の新聞記事や地元広報誌などを交えて解説していただきありがとうございました。北恵那鉄道を買収する予定だったのですね。結局着工には至らなかったようですが、工事途中で無残にも放棄されたローカル線は全国に点在しています。国鉄と職員を悪者扱いし「赤字は国鉄労使のせい、民営分割しか道なし」と世論を誘導したのは政権与党として自らの失政隠しに最高の結果だったでしょう。あれから数十年、採算見込みのない新幹線や高速道路計画がすすんでいる現状を見るとつくづく「この国は何も変わっていない」と嘆かわしくなります。国立競技場や豊洲市場の問題でも
    全く同じで最初の計画からあまりに無謀かつ杜撰過ぎます。土建屋さんとどんないいお付き合いなのでしょうか?
    2016年09月22日 13:53
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんにちは。
    急勾配急カーブが続く北恵那鉄道の線路をそのまま利用することは、高規格線を建設しようとしている鉄建公団の方針にはそぐわず、不可能だと思われます。新聞報道では「北恵那鉄道線を大幅に造り変える方針」でした。反対運動はどこでもつきものですが、本気であれば田舎のことゆえ自治体や地元有力者が動けば、ことは早く進んでいったと思われます。いちばん恩恵を受けるのは鉄道がなかった加子母町で、付知町民が用地買収に協力的でなかったことは想像に難くありません。事実、北恵那鉄道そのものが、下付知~付知間を延長しようとして、用地買収に協力が得られず計画が頓挫したこともあったのですから。
    2016年09月22日 16:44
  • しなの7号

    門鉄局様 こんにちは。
    北恵那鉄道の記事の一環として、国鉄下呂線は北恵那鉄道の廃止に少なからず関係していたと思われるので書いてみました。大きな土いじりにはならなかった国鉄下呂線でしたが、国鉄下呂線と同じく中津川を起点とした工事線に、国鉄中津川線がありました。こちらも未成線ですが、形として残る遺跡?があり、そういう構築物を見ると失政の痕跡だなと感じるものです。ただし、中津川線はボーリング調査工事によって湧出した温泉を残してくれましたから、春にはその温泉に浸かってきました♨
    いつまでたっても、政治がらみで、甘い汁を吸う者がいるのは変わりませんね、これは本文に書くべきでしたが、新聞によれば、北恵那鉄道が廃止されたわずか3か月前の昭和53年6月には岐阜県知事を会長とする下呂線建設促進期成同盟会が発足したことを伝えていますので、「北恵那鉄道を廃止させることイコール国鉄下呂線建設が促進される」みたいな状況が水面下で起こっていたように思います。全国の工事線が建設凍結される2年前でしたから、「下呂線を実現できる可能性があるのなら北恵那はいらない」これが本音か?
    2016年09月22日 16:44
  • NAO

    しなの7号様、こんばんは。
    下呂線という未成線は初めて知りました。この線区に限ったことではありませんが、もし開業が実現していたらこの地方の経済も塗り変わったでしょうし、鉄作品の内容も大きく変わったことでしょう。
    昭和56年開業なら宮脇氏の最長片道切符のルートには影響しなかったと思われますが、着工された状態であれば線路の無い時刻表あたりで書かれたかも知れませんね。鉄道に関する読み物を想像してしまいます。
    宮脇俊三氏 「工事担当の○○さんに案内されて話しを伺うと、嬉しいことに振子電車も直通出来るように設計された線だそうである。線名が線名だけに酔い客が続発するかも知れないが」
    種村直樹氏 「残念ながら硬券の入場券はなし。中津川駅構内では配線上、下呂線のホームがあさっての位置にある」
    しなの7号様 「私は専務車掌になって線路下見で一度だけ臨時急行で下呂線に乗務しました。たまたまやって来た電車に乗った乗客だと岐阜経由の乗車券を所持されていることも多いわけです。車内巡回を任すと言ってくれた車掌長の本音がようやくわかりました」
    以上、失礼致しました。
    2016年09月22日 20:11
  • しなの7号

    NAO様 こんばんは。
    最長片道切符に間に合わない時期でしたから、地域経済にも貢献できた路線とは思えません。第三セクターで開業するための試算をしたら毎年2億円の赤字という結果だったとか。
    三者三様、いかにもありそうな語りを面白く拝読しました(^◇^)
    宮脇俊三さんの著作では「日本探見二泊三日」(雑誌「旅」の取材)ですぐ近くの蛭川村(現中津川市)に平成2年の秋に来られていますが、下呂線や中津川線にはまったく触れていませんね。
    2016年09月22日 20:35
  • 北恵那デ2

    こんばんは。このたびのリニア新幹線のアクセスのために、新たな下呂線の建設を希望したいというお話を地元名士の方がおっしゃってみえました。現在において新線建設は大都会くらいしか実現不可能でしょうけれども。ところで、想像上ですが私の鉄道模型の路線は、中津川線と下呂線を合わせた飯呂線としております。相当無理のある話ですが北恵那鉄道線も健在で、下呂線を別線で高山線の迂回用途と想定しております。くだらない空想をするのは、誰に迷惑をかけるわけでもありませんからねえ(笑)。
    2016年09月22日 21:42
  • しなの7号

    北恵那デ2様 こんばんは。
    飯呂線は、私どもが生まれたころに、飯田中津川下呂間鉄道敷設期成同盟会が結成されて、敷設運動が展開されたそうですね。半世紀以上経つと道路は整備され、鉄道を取り巻く環境も変化しましたが、エライ人は今でも妄想じみたことをおっしゃるのですね。
    模型の世界で妄想するのはお互い様ですが、わが家では予定していた今年中のレイアウト着工が難しそうで、未成線にならないようにこの先努力しなければなりません。すでに配線は決定しており下呂線のように高規格でなく急カーブがあってC12やDD16は入線可ですが、Ð51は無理です。レールは20年位前に作って解体したレイアウトに使ったパーツを再利用しますので、資金面での問題はなく用地確保もできましたが、沿線住民からは期待どころか、邪魔くさい鉄道建設に反対運動がおきかねない状態です。ちょっと前に坂本のバ○ーホームセンターで合板を購入裁断してもらって、更地の地面だけを空き家になっている実家に仮置きしてありますが、わが家に持ってくることなく無加工のまま放置プレーになってます。
    2016年09月22日 22:38
  • やくも3号

    しなの7号様 こんばんは。伊勢線と下呂線は対照的ですね。ローカル輸送は超閑散であっても優等列車のショートカットの必要に迫られて開業にこぎつけた線区と、漠然とした需要計画で着工にこぎつけなかった計画線。そして、並行する私鉄も、この新線開業によってもびくともしないか、廃止を余儀なくされるかの大きな違い。

    『エライひと』で思い出しましたが、小学校一年生のとき、改築された駅を指して『この新しい駅はおとうさんが作った。』と言う同級生がいたので、すごい大工さんなんだなと思っていたら、議員さんでした。周囲の大人をまねて「君のおとうさんにいうと快速電車も停まるようになるの?」と陳情?してみたことがありました。関係はないと思いますが、現在JRは快速が停まり、私鉄の方は特急が停まるようになりました。
    2016年09月23日 22:59
  • しなの7号

    やくも3号様 こんにちは。
    国鉄伊勢線は主要幹線の扱いで、紀勢本線の通過連絡が主要目的であったと思いますが、国鉄下呂線は地方ローカル線で、建設が進まないために、後付けで高山本線のバイパス線という理由をこじつけたフシがありますね。新幹線連絡(名古屋連絡)を考えても伊勢線は県庁所在地津市にはメリットがあるのに、下呂線は岐阜市が恩恵を受けないですし、何かと対称的でありますね。
    私は大工さんに知り合いがいますが、エライ人に知り合いはいないです。生活がエライ人は知ってます…自分もそうか(^◇^) 
    もしエライ人に頼みこんで国鉄に入ってたら、国鉄分割民営化推進派にならざるを得なくなって無理して壊れていたかもしれないです('ω')
    2016年09月24日 08:35

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