【738】 北恵那鉄道37: 「保存されたデ2」

北恵那鉄道開業時に梅鉢鐵工所(のちの帝国車輌→東急車両に吸収合併)で4両製造されたデ1形は、後に車体が更新され、足回りも大改造されましたので、廃止時点では製造時の原型をまったくとどめてはいませんでした。こうした改造は自社工場で施工され、更新で載せ替えられた木造車体は北恵那鉄道の大工さんによって手作りされました。そのスタイルは名鉄車が入線した昭和30年代末期まで北恵那鉄道の顔となっていて、4両のうち、デ2号だけは廃線までずっと在籍して、中津町駅の構内入換と国鉄中津川駅との間の貨車の受け渡しに使用されていました。

北恵那鉄道線が廃止された日、NHKテレビでは、朝のローカル番組で北恵那鉄道廃止の話題が取り上げられました。このとき、デ2の車体を作ったという高齢の方がレポーターの問いに答えていました。材料について尋ねられると、
「これは全部木や」
「今みたいにベニヤなんてあらへんでのう。ヒノキとか全部土地の材木で造ったるわけ。」
廃止になるにあたってお気持ちは、との問いには、
「ほりゃあ、しょーないのう。……(あとは一生懸命作ったから子供以上にかわいいという意味のことを言っておられるも、涙声でよく聞き取れない)」
(※「全部木や」とありますが、後に妻面窓から下に鉄板を張って補修されています。)

木曽ヒノキをはじめ、土地の材料で作られたこのデ2こそ、北恵那鉄道の歴史を知る生き証人といえる存在なのでした。廃止後、しばらく中津町駅構内に留置されていましたが、中津川市の手によって沿線に近い「夜明けの森」の駐車場に保存され、北恵那鉄道では唯一公的機関によって保存された車両となりました。
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中津町駅から保存場所への輸送は陸送によったと思われます。「夜明けの森」の保存場所には上屋も設けられて、形の上では安泰と思われたのですが、現地は付近に人家もまばらな森林公園施設で、人が集まる時期は限られるようなところでしたから、設置された直後に、さっそく正面妻板にポール集電時代からあったレトリバーが盗難に遭うなど、管理上問題がある場所でした。
保存から時が経てば人々の心の中からも北恵那鉄道のことなど忘れ去られ、せっかく保存された電車も厄介者になったようで、それに加えて木製であるがゆえに劣化も進み、廃止から18年目となる1996年、この保存場所が、新たに建設される鉱物博物館の観光バスと身体障害者用駐車場になることが決まり、デ2号は解体されることになったのでした。
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※上は平成8年6月13日付け中日新聞記事の転載画像です。

私は解体される前に、最後の姿を見てきました。

塗装は褪せています。
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室内にわずかに残った吊り手
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中津川市内の商店の広告
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「進行中は扉を開けないで下さい」と書かれたプレート
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まことに勝手な意見ですので聞き流してほしいのですが、貴重な鉱物コレクションも十分に価値があるものなのでしょうけれど、自分は、この広告やプレートが「本物の電車」の車内に残っていることのほうに価値を認めてしまう人種です。この電車に乗って、この吊り手につかまって、どれだけの人が中津川の街へ出かけ、栗本水泳場へ行き、沿線の学校へ通学したことでしょう。裏木曽のヒノキもこの電車に牽かれて輸送されたのです。そして、私は電車のほか、この車体を造った人、保守してきた人たちのことを今も想います。

私も回数こそ少ないながらも乗った思い出があるデ1形です。
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栗本水泳場へ出かける前、中津町駅で母と。

1962年(昭和37年)ころの撮影だと思います。
手に持つのは中津町駅前の商店で買ってもらった電車(近鉄10000系)のおもちゃ。


**********************************

今後、単発で北恵那鉄道関連の記事を書くことはあろうかと思いますが、これまで6年間に3回に分けて続けてきた北恵那鉄道の記事はシリーズものとしては、これで終わりとなります。
もう北恵那鉄道に足跡をしるした車両たちは、私が知る限り1両も残されておりません。保存された車両はことごとく解体され、保存展示車が皆無になったあとも、ク551が旧中津町車庫の敷地で木工所として利用されて車体だけ残っていたのですが、1997年に不審火によって全焼してしまいました。これはあまりにもかわいそうな最期でした。
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私はそこにあった鉄道を忘れることは決してありませんが、それを忘れかけた方や、その存在すらも知ることがない新しい世代の方々に、私が見たままの記憶と記録をご覧いただいて、日本の鉄道が自動車に追いやられていく時期にあった一地方鉄道の一例として、私が付き合ってきた北恵那鉄道を知っていただき、後世に伝えていただけたら嬉しく思います。
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拙ブログで廃線跡の探訪記事を以前に掲載しております。すでにアップしてから時を経ておりますので状況が変化しているかと思われますが、そちらも参考にしていただいて、この小さな地方鉄道の痕跡を求めてお出掛けいただき、往時を偲んでいただきたいと思っています。以前の北恵那鉄道関係の記事は、パソコン画面ですと右カラムの「ブログテーマ」の「北恵那鉄道」をクリックして抽出できます。また、北恵那鉄道は、現在も北恵那交通株式会社として路線バス事業を生業とされておられる法人様です。記載内容についての問い合わせなど、ご迷惑になるような行為は慎んでいただきますよう重ねてお願い申し上げます。




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この記事へのコメント

  • hmd

    しなの7号様。
    こんにちは。拝見致しました。北恵那鉄道シリーズ連載完了との事で、お疲れ様でした。6年間37話という長編で、じっくりと当時の様子が判りました。特に廃線直後やその後については、市販の鉄道書籍ではあまり語られる事がないので、特に興味深かったです。また、しなの7号様の幼年期から身近であってらっしゃった北恵那鉄道への敬愛をとても感じました。資料的にも貴重と思いますので、いっそのこと、本にして頂きたいと思います(笑)また参りますね。
    2016年11月10日 15:00
  • しなの7号

    hmd様 こんにちは。
    hmd様のブログのように、1つの鉄道に対して奥深くまで掘り下げられ、かつ幅広い視点で捉えて紹介することは難しくて足元には及びませんが、とりあえず終点までたどりつき完結しました。ご覧いただき感想もお寄せいただきありがとうございました。今後、もし機会があれば北恵那鉄道廃線跡を6年間の変化を確認しながら歩いたり、hmd様のように沿線の見どころを訪ね歴史探訪をしたいと思いますが、またしばらく先のことになりそうです(^^;)
    2016年11月10日 16:52
  • 北恵那デ2

    こんばんは。当鉄道について、これほど丁寧に解説した書物もホームページも無いものと思われます。本当に資料的に貴重なものと思います。もし仮に頸城鉄道のように主だった車輌が保管されていたとしても、それを元どおりに復元することは並大抵のことでは無いと思います。そもそも、個人レベルでは当ブログ北恵那鉄道シリーズあたりが限界でしょう。シリーズ完結ご苦労様でした。とにかく、「これは全部木や」は忘れられない言葉ですし、デ2号が解体されたことは全くもって残念なことでしたね。
    2016年11月10日 20:52
  • しなの7号

    北恵那デ2様 おはようございます。
    こちらこそ、ご協力ありがとうございました。あのころに一人で鉄活動をしていたら、北恵那鉄道との関りは表面的な、要するに「写真だけ撮れればいいや」というレベルで終わったのではないかとも思います。そしてこうして書いていくにあたっては、何より年を経て記憶も怪しく、「北恵那デ2様」にはあいまいな点を検証していただくことができて感謝しています。ありがとうございました。
    これだけの年月が経つと、当時をよく知る人々たちも亡くなっていきます。北恵那鉄道を無言のうちに伝える役割を担うのが保存されたデ2号そのもののはずだったと思うわけですが、このことに限らず世間一般でも、人の代が変われば常識や考え方が変わってゆき、一見変わらないようなことも常に動いていることを痛感します。
    2016年11月11日 07:26
  • はやたま速玉早玉

    しなの7号様、こんにちは。
    木製の車両、良いですね。温もりを感じます。木曽ヒノキ等土地の材料で作られた点、非常に拘りを感じます。
    結局きちんと保存されるかな、と期待されたデ2も撤去、解体の結果でしたか…時の経過って、悲しいですね(._.)
    しなの7号様のブログに出逢って日が浅いもので、北恵那鉄道に関しては最近アップされた記事しか拝見致しておりません。過去の記事も順次拝見させて頂き、廃線跡を訪問したいです。冬は寒くて苦手だもんで来年春に予定、楽しみが一つ増えました。(近場に温泉があれば更にテンションアップ)
    最後になりますが、北恵那鉄道シリーズ完結、お疲れ様です(*´∇`*)
    2016年11月11日 13:02
  • しなの7号

    はやたま速玉早玉様 こんにちは。
    木造の電車など今どき想像もつかないだろうと思いますが、木製の扉や窓枠を使った車両というのは近年までけっこうありました。大井川の客車のなかにも鋼製扉やアルミサッシ車に混じって木製扉や木製窓枠車が存在しますね。腐食したり破損すれば同じものを木で作るしかなく、かつては鉄道にも木工ができる建具屋や大工が必要だったということです。
    中井貴一が主演した映画「RAILWAYS」で、調子の悪い電車の木製扉を取り外して大工さんがカンナをかけているシーンがあります。別の場面では「目と耳と手がマニュアルだよ」というセリフも。それが昭和の鉄道車両を保守する現場の普通の姿だったのかと思います。そういう技術はもちろん、その「作品」までも、いったん保存されても廃棄されて忘れられていきます。
    廃線跡は夏~秋は雑草の繁茂に加えてマムシが怖いので避けてください。終点旧下付知駅跡から下呂温泉まではわずか30㎞ほどですから車なら1時間もかかりません。
    2016年11月11日 13:47
  • NAO

    車両を保存するのは本当、難しそうですね。店舗にされて管理人が居られたとしても維持が想像以上に大変のようですし。先日、あるブロガー様の記事を見ておりましたら、近々とある電車のカフェを畳まれる記事が載っていましたが、雨漏りが理由のようで、素人目からすれば鉄の車体が何で?なんて思い込んでしまっておりましたので。全然話しは変わりますが、種村直樹氏の著書 特急列車の旅の巻頭、昼行特急「鳥海」ルポのなかで、確か雨だれの水が落ちるので使用を停止すると張り紙された座席の写真が載っていたのを思い出しましたが、現役特急車両でもそんな症状でしたから鉄の車体でも油断出来ないものですね。
    下付知から下呂温泉まで30キロぐらいですか。道路事情が良くて連絡手段が発達していたら下呂温泉口に改称、アクセスの機能を持っていれば運命は変わっていたかも、なんて国鉄から2回乗り換えて辿り着き、30キロ先の玄関口では非現実的ですか。私の地元でも誤解を招きそうな駅名が改称されています。

    2016年11月12日 05:12
  • しなの7号

    NAO様 こんにちは。
    屋根にベンチレータなど空調や運転に必要な機器類を取り付ける必要がある鉄道車両ではその開口接続部分が防水上の弱点ですね。うちもマンション住まいで、管理組合の役員をやったことがありますが、最上階の住戸のバルコニーにはトップライト(天窓)があって漏水がありました。管理会社さんに言わせると複数のマンションで漏水が多発しているとのことで、修繕積立金が、そういうところから出ていきました。高速で走る鉄道車両など、毎日暴風雨に晒されるようなものなので、相当な勢いで劣化するのでしょう。乗務していた車両の正面運転室窓のHゴムの隙間から雨水が入ってくることも普通にあったものです。デ2のように木造電車となればさらに防水は難しいことでしょうが、屋根の下での保存ゆえに防水以前に経年による車体全体の老朽化による強度面で問題があったようにも思えます。しかしリニア鉄道館にある木造車両を見ていると、かなり手間暇とカネをかけて「復元」されていると思います。解体せず文化財として復元工事をする選択肢もあったようにも思えます。なくした財産を取り戻すすべはもうありません。
    (続きます)
    2016年11月12日 08:40
  • しなの7号

    (続きです) 
    鳥海の件は冷房の結露による漏水の可能性もあるのでは? 485系など、とくに初期形のAU12ではよくあったと聞いています。
    【506】 冷房車(後篇:不具合(-_-;))
    http://shinano7gou.at.webry.info/201407/article_9.html

    同じ岐阜県にあって廃止された神岡鉄道の終点駅が奥飛騨温泉口を名乗っていましたが、奥飛騨温泉郷の入り口まで20㎞くらい、最奥の新穂高温泉まで30㎞くらいの距離がありました。かなり無理がある駅名改称と言われていましたから、下付知はそれ以上でしょう…というより国鉄下呂線計画があって、計画どおりことが進めば昭和56年には下呂までレールは結ばれているはずでした。
    2016年11月12日 08:41
  • 門鉄局

     しなの7号様、こんにちは。
    北恵那鉄道連載完結おめでとうございます。大抵の書籍・サイトは廃止の時点で終わりあとは保存車両と廃線跡の紹介ですが、廃止直後の動きなど初公開と思われ貴重な資料であるとともに管理人様の愛情と愛着が伝わってきます。せっかく公的機関により保存された車両まで、あっさり廃棄されてしまうあたりにこの国の文化意識の低さを感じます。なくなるというと大騒ぎをして残そうとなっても最初の意義はすぐに忘れ去られ、やがては「老朽化して危険」だの「美観を損なう」などと邪魔者扱いされる始末で人々の気持ちの移ろいやすさに悲しくなります。デ2の解体前の写真で見る限りは
    いたみはそれほどでもなく多少の補修と再塗装で大丈夫そうに見えますが、木造車体だけに移動には強度的な問題があったのかもしれません。新設の鉱物博物館に比べると十分安い費用で復元できるはずですが・・・。地元産の木材を使用し自社製造した北恵那鉄道を後世に伝えるのにふさわしい存在だったと思われるだけに消滅は本当に残念です。
    このような雰囲気のあるローカル私鉄も少なくなりましたね。短区間の貨物列車など今では考えられないことですが、それだけ生活に密着していた鉄道の記憶をいつまでも残して欲しいものです。 
    2016年11月12日 14:31
  • しなの7号

    門鉄局様 こんにちは。
    どうもありがとうございました。
    本文に写真をアップした新聞記事によりますと、中津川市教委社会教育課の話として「最初の形がそのまま残っていないのが残念。破損がひどく、現時点で電車の車体そのものが何年大丈夫だろうか。今後の維持・保存についても十分検討したが、経費の面からも難しく、撤去もやむを得ないの結論に達しました。」とありました。
    「最初の形がそのまま残っていないのが残念」ではなく、裏木曽の木材運搬に使われた鉄道車両が、地元材を用いて再生され活躍し、ボロボロになるまで使用された痕跡こそに意義があるものと個人的には思います。あとは、経費。たいていどこでもそこで断念というのが一般的です。今の時代、経済的効果が期待できないものには価値を認めないような風潮ですが、経済大国になるまでの過程を振り返ることは必要なことでしょう。日本では打ち捨てられた施設が近代化産業遺産として認定されるようになってまだ10年足らずです。それでも少しずつそういう意識が高まっていくことを期待したいです。北恵那鉄道に関しては時すでに遅しですが、鉄道は車両だけでなくそのシステムそのものが大いなる遺産です。ただ、すぐ観光地化させて活用し経済効果を…などと言ってそれを利用することばかりが目立ち、浅はかさを感じるのは毎度のことですが。
    2016年11月12日 16:51
  • ヒデヨシ

    しなの7号様こんばんは
    社紋・車番が木造の車体にペイントではなく金属の切り出しが注目です
    ただ、傾いているのがご愛敬
    手動扉はこの形式だけ?
    注意書書いていても開けっぱなしだったような状態でしょうか?
    私が小学生の時分に乗っていた三井三池では開いたままの扉付近で子どもたちが遊んでいましたし
    2016年11月12日 19:57
  • しなの7号

    ヒデヨシ様 こんばんは。
    金属切り出しの社紋・車番の手作り感が、木造の車体と相まっていいでしょう(*^^)v
    北恵那鉄道に自動扉車は1両もありませんでした。北恵那鉄道の車両の走行写真は相当数写しましたが、営業中に開けっ放しの列車を見た記憶はないですね。もっとも、このデ2は昭和39年以降は一般客扱には使用されていませんでしたから、この車両が第一線で活躍していた昭和30年代はどうだったのかは謎です。
    2016年11月12日 20:18
  • はやたま速玉早玉

    しなの7号様、こんばんは。
    確かに大井川鐵道の茶色のスハフ42、オハ35は木製の扉、窓枠ですよね。山陰線にも茶色のオハフ33が活躍してました。(因みに我が家にも茶色のオハ35が1両在籍しております。勿論Nゲージ)その製作や修繕に大工さんが携わっておられたとは…。鉄道車両と大工さん、一見無関係に思えますが、不可欠な存在だったのですね。
    大工さんが想いを込めて製作された『作品』簡単に解体されてしまう現実って嫌になってしまいます…

    廃線跡を巡る旅へのアドバイスありがとうございます。夏が来るまでに訪問せなアカンです。下呂温泉が意外と近いことに驚きです。(只今岐阜県道路地図が手元に)余談ですが、多治見、中津川等中央西線沿線と、美濃加茂、下呂等高山本線沿線、両者はかなり遠く感じてしまいます。中央西線を利用するとなると名古屋を経由する必要があるのでこんな錯覚が起きるのでしょうか?
    (太多線が盲点となってしまってます)

    2016年11月13日 00:31
  • しなの7号

    はやたま速玉早玉様 こんにちは。
    大井川鐵道など古い車両や施設を維持している鉄道会社の保守現場では、たぶん木工関係以外のパーツ類すべてにおいて、代替パーツが入手できないことがほとんどでしょうから、現物合わせで補修したり新たに手作りで製作しておられるのでしょうね。ずいぶん手間がかかり技術の継承も大変なことですが、そうした職人仕事が自分には性に合っている気がします。本文に書いたように、そうやって作り上げた「作品」が用無しになったとき、製作者の方が涙ながらに「一生懸命作ったから子供以上にかわいい」とおっしゃる。自分はそう言えるような仕事は何一つ残せなかったとも思います。

    【12】自動車
    http://shinano7gou.at.webry.info/201005/article_13.html
    ↑で、書いたことなのですが、高山本線・中央西線・飯田線は自動車を使うと1時間程度の距離でその間を結べる道路があります。そしてその道中には鉄道沿線で見られないモノの発見ができることを自動車に乗るようになって感じました。(最近は高速自動車道のほうが鉄道沿線より発展していて、必ずしもあてはまりません)
    2016年11月13日 10:22
  • はやたま速玉早玉

    しなの7号様、こんばんは。
    【12】自動車、拝見致しました。昨年会社のオッサンと白骨温泉行った際、国道158号線走行しましたが、県境超えはトンネル利用でした。地図を見ても旧道はエゲツナイつづら折れ、トンネルとは通過時間に歴然とした差が想像できますが…画像を拝見、風情ありそうな峠ですね。私は助手席でナビ担当、オッサン運転。『これが白骨温泉への唯一の道ですわ!』と、オッサン騙して旧道選択、安房峠訪問すべきでした(後悔…)
    ①露天風呂の景色②湯質③雰囲気、これらを愉しむ目的で温泉施設ではついつい時間を費やしてしまいます。従って日帰り温泉、鉄道利用なら1箇所が精一杯ですが、自動車利用なら複数箇所巡れます。これぞ『面』の強み、ですね(*´∀`)♪
    2016年11月13日 23:03
  • しなの7号

    はやたま速玉早玉様
    そのころには、国道から見える「中の湯温泉」の露天風呂が有名でした。今とは違う場所にありました。私も3人の固定メンバーで日帰り湯を含む温泉巡りの自動車旅を定期的にしていた時期ががあり、中の湯・平湯には行きましたが、白骨温泉には、入ったことがありません(;´Д`)

    峠越えが好きで、
    走って楽しいのは、旧国道>現国道>高速自動車道
    鉄道でも、乗って楽しいのはローカル線の普通列車>在来線特急>新幹線
    交通手段としての利便性は逆になりますんで、目的と行程によって使い分けます。
    2016年11月14日 08:15

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