【951】 中央西線を走った車両13:気動車

過去に中央西線を走った車両たちについて、「国鉄分割民営化まで」のことを書いています。その間に走った車両を網羅する内容ではないので、あらかじめご承知おきください。今回は気動車編です。


私が中央西線で国鉄時代に見た営業用の気動車を列挙してみます。

キハ17・18・20・25・26・28・35・40・48・51・52・55・57・58・65・90・91・180・181

キロ25・27・28・58・180

キサロ90・キサシ180

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上の画像は使いまわしですが、1972年10月10日に中央西線の南木曽~十二兼間で撮影した気動車の画像です。キハ26(300番代)+キハ51+キハ51+キハ26(300番代)です。キハ26(300番代)はキロハ25の格下車、一見キハ17と見えるのは2個エンジンのキハ51です。画像は縮小しており判別できないと思いますが、元画像ではキハ17とは窓配置が異なり、戸袋窓の形状で判別できます。


ところで、キハ181系とキハ91系については過去に紹介していますので、






をご参照ください。


このほか、中央西線の気動車列車については、




で、すでに書いていますので、今回は主に昭和50年代の状況を書いていきます。


~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~~J.N.R.~


1973年7月に中央西線の全線電化が完成した時点で気動車列車が格段に減りましたが、次のような気動車列車が残っていました。

・特急しなの2往復と、急行ちくま・きそ・赤倉各1往復

・中津川~長野間下り急行きそ1本と、対になる上り普通列車1本

・明知線の車両送り込み関係の恵那~中津川間普通列車1往復

・急行用車両の美濃太田機関区送り込み関係の名古屋~多治見(美濃太田)~瑞浪間普通が数往復

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1976年4月26日 上り「きそ2号」坂下~落合川


中央西線の気動車列車は、その後も徐々に本数を減らしていき、特急は1975年3月のダイヤ改正で、急行は1982年11月のダイヤ改正までに、他線区への急行用車両送り込み関係の普通列車は1985年3月のダイヤ改正までに、それぞれ消滅していきました。


急行気動車列車で最後まで残っていたのが、「赤倉」でした。

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1982年1月26日 下り急行「赤倉」恵那~美乃坂本


名古屋と新潟を昼行で結ぶ長距離急行でした。この列車については


のほうで書きましたので、省略しますが、11両編成のキハ58系時代の急行「赤倉」の動画がございます。8㎜フィルムから起こしましたので、動きがぎこちなく、サイレントです。その点をご承知の上でご覧ください。47秒の再生時間です。


1974年11月24日 下り急行「赤倉」恵那~美乃坂本で撮影しました。


国鉄時代の中央西線で、最後の定期気動車列車になったのが恵那~中津川間で運転されていた明知線送りこみ用の普通列車1往復でした。

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1985年10月 恵那~美乃坂本

末期の明知発中津川行キハ52の2両編成。この列車は中央西線が全線電化されてから設定された直通列車でした。この列車についても、以前に


で、少し触れています。


国鉄末期の1985年11月に明知線が第三セクター鉄道に移管され、中央西線との直通列車がなくなった時点で中央西線の定期旅客列車から気動車列車が消滅し、国鉄分割民営化を迎えたのでした。


この中津川~明知間の列車はあまり話題にならない列車でしたので、この機会に少し時代を遡って画像を何枚かアップします。

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1974年11月4日 美乃坂本~中津川

当初はキハ20が1両とキハ52が2両の3両編成で運転されていました。このころは当たり前に国鉄一般色です。


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1979年7月22日 美乃坂本~中津川

在来のキハ20系にも、新製車キハ40系と同じ首都圏色への塗り替えが進みつつありました。

また、明知線内で団体輸送があるときや、沿線のイベントで多客が見込まれるとき、稀ではありましたが、この列車が4両編成になることがありました。


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1982年5月21日 美乃坂本~恵那

そして、キハ20がキハ40に世代交代したころ。


末期はキハ40の運用がなくなり、キハ52だけの2両編成になったと記憶します。使用された6両のキハ52は、私が高校生のころに通学で利用していた車両そのもので、置き換えられることなく明知線最終日まで勤め上げました。馴染みのある列車でしたので、中津川発明知行き最終列車を私は地元美乃坂本駅で見送りました。
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 進行方向後方から撮影しています。キハ52の4両編成でした。


このあと、6両全車が廃車されることなく各地に転属して第二の人生がありました。国鉄分割民営化後も全車が生き延び、1両がJR九州で活躍し、5両はJR東日本で活躍しました。JR東日本車には、第三の人生があり、除籍された後フィリピンに渡ったとのことです。




※明知線のキハ52は後期形でした。




この記事へのコメント

  • 門鉄局

    しなの7号様こんにちは。
    国鉄の気動車は特急型を除き混結出来るのが特徴でしたよね。技術的には戦前にはほぼ完成していたDMH系に固執していた国鉄停滞の象徴という意見もあるわけですが、私はやむを得ない選択だったと思います。自動車でもオイル漏れやエンジン調整から解放されたのは昭和50年代になってからであり、むしろ昭和35年の「はつかり」翌年のディーゼル特急大増発は「よくやった!」と国鉄技術陣を称えたくなります。
    それはさておき形式まちまちの編成はどれに乗ろうかな?という楽しみがありましたね。1等車格下げのキハ26400が最高、冷改されず普通列車編成に組み込まれたキハ58や元修学旅行用800番台が次点でしたが、キハ66・67系が投入され私鉄電車のような転換クロスシートと冷房装備に驚きました。
    10系は40系の投入で「もう長くない」と思い編成に入っていると好んで乗っていました。白熱灯の暗い車内、貧弱なビニールの座席で宮脇氏の「時刻表二万キロ」の湯前線の記述や、「時刻表ひとり旅」の関西線の人生の落伍者に…を実感して楽しんでいる変な小学生でした。
    2019年01月20日 13:45
  • しなの7号

    門鉄局様 こんにちは。
    美濃太田のキハ17には後期形が多くて肘掛がないのと、反対側に座っている人の動きが薄い背もたれ越しにわかるのがチープな印象でした。小学生時代には、門鉄局様のような情緒?を楽しむほど私は大人ではありませんでした。古くなってやがて消え去るものがあるということを多少なりとも身近に意識するようになったのは、D51が中央西線の全線電化で見られなくなることが判った中学生ころからだったと思います。それでも日本中に標準化された同じような気動車が走っていて、ここでもいつでも乗れるキハ17か…と遠隔の地、初めて渡った九州で思ったのは高校1年生の夏でした。そのときはキハ66・67誕生前でしたから、私は国鉄時代にキハ66・67に乗車する機会はありませんでした。
    国鉄は旧態依然とした旧式エンジンを使い続けたということにもなりますが、全国で5000両を超えた国鉄気動車が、共通設計のエンジンでほぼ統一され互換性があったことには大きなメリットがあったことと思います。
    2019年01月20日 14:57
  • つだ・なおき

    しなの7号樣こんばんは。
    DMH17系エンジン、その功績は大なるものがあると思います。
    国鉄だけでなく私鉄まで合理化できたのですから・・
    特に検修関係にはメリットが大きかったでしょうね。
    運転関係はもっと馬力が欲しかったでしょうけど。
    でも気動車って、電車より冷遇されてた様な気がするんですが。
    2019年01月20日 21:35
  • しなの7号

    つだ・なおき様 こんにちは。
    戦後、DMH17系エンジンは日本の鉄道のスタンダードでしたね。気動車黎明期の試行錯誤の時代を越え、分散動力の長大編成が全国で運転できただけでなく、支線区への直通運転・分割併合・私鉄から国鉄線への乗り入れもあちこちで行われた下地となったわけで、功績は大きいですね。

    中央西線でも気動車は電化までのつなぎ的役割が大きく、華やかな時代は短期間にとどまり地味な存在だったと思います。
    2019年01月21日 17:11
  • 風旅記

    こんばんは。
    こちらの記事も楽しく拝見させて頂きました。中央西線を旅していますと、険しい地形の中にも線路改良された痕跡を多々感じます。そこにも蒸気機関車やディーゼル機関車、気動車の活躍があったことは、今ではなかなか想像がつきません。
    明知線への送り込み列車のように、毛細血管のように延びているローカル線のための列車が幹線を走ることも、ローカル線自体が廃止になったり経営分離されたりで少なくなってしまったものと思います。
    明知線を走っていたというキハ52形には、その後、もしかしたら乗っているのかもしれません。東日本でキハ52形が残っていた区間には、幾度も通いました。そのような偶然を考えるのもまた、鉄道の旅の楽しいところです。
    風旅記: https://kazetabiki.blog.fc2.com
    2019年01月28日 19:20
  • しなの7号

    風旅記様 こんにちは。
    半世紀近くも経つと、旧線の痕跡はすっかり自然に化してしまい、よほど気を付けていないと通り過ぎてしまいますが、中央西線の車窓で見る旧線跡には明治時代からの長い歴史を感じるもので、私も車窓から気にして眺めている者の一人です。
    そして分岐した鉄道の跡や徒歩交通時代の名残である中山道旧道なども車窓から気にしています。恵那から分岐していた国鉄明知線は、第三セクター明知鉄道として幸いなことに今も健在ですが、中央西線とつながっていたレールは、切り離されてしまいました。「線路は続くよどこまでも」が理想だと思うのですが、それが不要になっていくというのは鉄道好きには寂しいことです。
    車両1両ずつに履歴があり、時には事故や病気も経験し、整形手術や転勤転職と、人の一生と同じように思えます。そこに自分とその車両との接点があると懐かしくもあり、その変わりように一喜一憂するのは、人と再会するのと変わりがありません。
    2019年01月29日 13:18

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